「……花壇が」
日暮れも間近に迫り、暗闇の中にバラバラになった花弁や茎が沈んでいく。明日になれば庭師が見つけて、本当にゴミとして処分してしまうだろう。単純な悲しみだけでなく、どうしようもない罪悪感がアメリーの胸に去来する。
アメリーは瞼をきつく閉じた。自分がいじめられるだけならばまだ我慢できた。しかしこの八つ当たりのような仕打ちを、自分ではない誰かが受けてしまうのは、仕方ないとは思えない。たとえそれが物言わぬ草花だったとしても、なぜ、どうしてと問わずにはいられない。
「どうして、こんなひどいことをしてしまえるの……?」
震える瞼と熱くなる目頭を、力づくで抑え込む。
理不尽は耐えるものだ。喚き散らしたり、泣き叫んだりしたって、何も変わらない。それどころか、自身の評価を下げてしまうだけなのだから。少なくとも、アメリーは父母と家庭教師からそう教え込まれてきた。自身の評価というものがあるのかどうかさえ分からないものの、貴族令嬢としてそうすべきだと示されたからこそ、そのとおりにしてきた。
その結果、何が残るのだろう。何を防ぐことができて、何のためになるのだろう。耐え忍ぶ選択が正しかったのならば、目の前の惨状はマシな結果とでもいうのだろうか。それとも、これが
アメリーには、もうどうしていいのか分からなかった。いっそ、心が折れてしまえば、この苦境を誰かに知らせることができたかもしれないが、不幸にも彼女は貴族令嬢であり、耐えてしまった。
今回も耐える、とアメリーが自然と選択したその直後、声がかけられた。
「アメリー・アルワイン、少しいいかしら?」
聞き覚えのあるような、ないような声が、アメリーの耳に届いた。その声の主はツカツカとヒールをレンガ道で鳴らしながら、アメリーの右横にやってきた。
手を伸ばせば届きそうな距離で、見知らぬ誰かは馴れ馴れしく止まる。初対面の、名も知らぬ相手のすぐ近くに踏み込んでくるなど無礼な行為だ。アメリーは不快感を覚えたが、口にはしない。
相手はアメリーの名前くらいは知っている、もしかするとアメリーが忘れているだけかもしれない。アメリーは顔を上げ、隣にやってきた女子生徒を見据えた。
だが、やはり見覚えのない顔だった。豊かな金髪の女子生徒、アメリーは彼女の顔を知らない、少なくとも同じ講義を受けてはいないようだ。
堂々と怒りを露わにしながら、豊かな金髪の女子生徒は名乗りを上げる。
「私、ベルナデッタ・ノルベルタと申しますわ。先ほど、二階からその花壇を踏み荒らした犯人たちを目撃しましたの!」
「……そう」
「あなたが大切に育てているものでしょう? 今すぐ監督生に伝えて、懲らしめてやらないと!」
ベルナデッタと名乗った女子生徒は、全身でその怒りを表現するかのごとく、腕を振り、真剣に訴える。
彼女の言い分は、アメリーにも分からなくはない。彼女がなぜ自分で監督生へ言いつけにいかなかったのか、それは実害が出なければ——つまり、被害を受けた当事者でなければ、貴族学校の寮で起きた事件は大抵無視されるからだ。貴族間の機微な関係を考慮して、
今のアメリーはベルナデッタの身分までは知らないものの、おそらく
それに、そのほうがアメリーにとって都合がよかった。
ささやかに、それでも本人としては大きめのため息を吐く。そして、アメリーはきっぱりと、ベルナデッタへこう告げた。
「どうでもいいわ。やめてもらえる?」
予想外の反応に、ベルナデッタは驚き、激昂した。
「どうして!? あなたに……あの彼女たちだけではないわ! 他の女子生徒たちも、あなたに対していつも不親切なことばかり! たまにあなたが講義に遅れる理由だって、時間や教室の変更が伝わっていないせいだと先生方もご存知ですわ! それに、根も歯もない噂話を面白がる下品な輩も、己の品性を貶めるだけと気付いていない一部の女子生徒たちだけで」
どれほどベルナデッタが激しく批判を繰り返そうと、アメリーの心には響かない。
なぜなら、その怒りはベルナデッタのものであり、アメリーのものではない。不条理への怒りから問題を大きくしようというその魂胆が、貴族令嬢らしく耐え忍んできたアメリーには気に入らなかった。
「それは、あなたが見ていて不愉快だから、止めさせたいということ?」
さくりと胸にナイフを突き立てられたような鋭い指摘に、一瞬、ベルナデッタは怯んで言葉が詰まった。
アメリーは今、花壇を荒らした犯人たちに対してではなく、ベルナデッタに対しての怒りのあまり、拳を握り締めていた。そして、自然とアメリーの口はベルナデッタを拒絶する言葉を吐き出す。
「馬鹿にしないでちょうだい。それほど私が可哀想? あなたの気持ちなんて、私は知ったことではないわ。これ以上、私を煩わせないで!」
「なっ……! あ、ちょっと! まだ話は終わっていませんわ!」
アメリーは踵を返し、素早く去っていく。ベルナデッタが何を言おうと、何を目的にしようと、もうどうでもよかった。ただただ、これ以上ベルナデッタと関わり合いになりたくなかった。
貴族学校での生活で、アメリーが思い返せるかぎり、発端がどうであれアメリーを思って感情を露わにしてくれた人物は
嫌われ者のアメリー。あなたは、誰かの親切に触れるなんて似合わない。
アメリーへ、誰かがそう言った気がした。
幼少期から今に至るまで、それはいつも、悪意をもって視線とともにアメリーへと向けられている。