じっと不審な淑女を窺っているエリカへ、キリルが問いかける。
「どうかしたのか?」
チラリと見えた淑女の顔に、エリカは見覚えがあった。
「うん、ちょっとね。貴族学校の同級生が護衛もつけずに一人で歩いていたの」
「何? 貴族がこんなところを?」
「やっぱり危ないわよね。追いかけましょう」
「うむ!」
そうと決まれば、エリカとキリルは立ち上がり、淑女の向かった方向へと駆け出す。
直接声をかけるわけではないが、一目見てどこかのご令嬢と分かる服装で路地裏を歩くことは、不用心にもほどがある。通りがかった手前、せめて目的地まで無事を見届けてから、と後ろから一定距離を保って見送るくらいはしてもバチは当たらない。
精一杯気配を消して、エリカとキリルは物陰に隠れながら、淑女を尾行する。路地裏の決して広くはない道を、きっと本人は急ぎ足で目的地へと向かっている。
エリカは、かの淑女の名前を口にする。
「アメリー・アルワイン、アルワイン侯爵家の次女なんだけれど」
貴族学校時代、アメリーは少しアンニュイな大人びた雰囲気と美貌、恵まれたスタイルで男子生徒たちを沸かせていたものだ。ただ、彼女はどちらかといえば他人との接触を好まず、一人でいるタイプだったため、彼女をめぐっての恋の駆け引きとまではなかなかいかず、いつの間にか家庭の事情で卒業してしまっていた。
それがアルワイン侯爵家令嬢アメリー・アルワインの一般的な評判だろう。
だが、エリカはアメリーの
(貴族学校でいじめ、家庭内で虐待を受けて、孤立していた侯爵家令嬢。問題はトゥルーエンドでエルノルドと交流があって……そのせいで、
つまりは、エリカにとっては婚約者に横恋慕するライバルだと言えなくもない。
それよりも、アメリーはエリカにとっては助けるべきキャラクターだ。彼女の死は許容しがたく、何よりもそう、
(この機会を逃すわけにはいかない。
すっかりエリカの脳内ではエルノルドとアメリーのカップルエンディングを目指す計算がスタートしている。エリカ自身、別にエルノルドは嫌いではないが、おそらくエリカとくっついても幸せな未来が今のところ見えないのだ。
そんなことをしているうちに、エリカの視界からアメリーが消えていた。
しかし、祝☆エルアメ、というオタク用語的単語が脳裏をよぎってしょうがないエリカに代わり、ちゃんとキリルがエリカの腕を引っ張り、アメリーを追いかけていた。
キリルが声をひそめ、少し離れた建物の影から、とある白漆喰仕立ての二階建ての一軒家を指差す。
「あの家に入ったぞ。看板には『エレアノール商会』と書いてある」
「この距離でよく見えるわね……」
「うむ、よく褒められる!」
キリルはしっかりと文字まで読めるらしいが、エリカがいくら目を凝らしても、黒地に金文字の小さな看板が扉にかけられていることしか分からない。
気づけば、二人は薄暗い路地に入り込んでいた。石造りの建物は見当たらず、階数は少なくても天井の高い建物がひしめいているせいで日当たりが悪い。近くに水路か川があるせいか、ジメジメとした空気も漂っていた。
何とも、不穏さに磨きをかける雰囲気だ。だが、そんなところにアメリーは一人で来て、何をするというのだろう。
エリカとキリルが二人揃ってエレアノール商会という聞いたこともない店名に首を傾げていると、後ろからとんでもなく低い唸る声がかけられた。
「おい」
いきなりのことにエリカがびくりと肩を震わせて振り返ると、威圧的なほど近づいている男性三人組——三人とも大柄で若いが身なりは悪く、下町の不良といったところだろうか——が、エリカを人相悪く睨みつけてきていた。
どう見ても、不良三人に絡まれる令嬢と同伴者、という構図だ。不良くらいならいいが、強盗や誘拐の手練れという可能性もあり、応戦しようにも戦力外のエリカを抜いてキリル一人対三人という圧倒的不利だ。
他人の心配をしていると、すっかり自分の危機である。
(やばっ、全然気づかなかった、逃げなきゃ)
しどろもどろのエリカを、すかさず三人組が取り囲む。
「うちの商会に何か用事でも?」
「え、あ、えっと……いえ、何でもありません」
「何でもないじゃあないだろ、さっきからジロジロとよ」
「ちょーっとお話し聞かせてもらおうか? お嬢さんと」
あれ、という間の抜けた声が聞こえたかと思えば、三人組はキョロキョロとあたりを見回す。
「もう一人、どこ行った?」
不良の一人が、そう言い終わる前のことだった。
上から降ってきたキリルが、鮮やかに不良の一人の頭をしこたま蹴り飛ばし、漆喰壁にめり込むほど叩きつけた。そのまま着地と同時に不良二人の足をいっぺんに払い、体勢を崩したところに両腕を伸ばして両方の胸ぐらを掴み、エレアノール商会のあるほうへと軽々ぶん投げたのである。吹っ飛んでいく二人は受け身を取ることもなく壁や地面に顔面を強打して、そのままベシャリと力なく地に伏した。
その行動の結果をのんびり待つことはなく、キリルはすぐにエリカを抱き抱え、素早く来た道を全力で走って引き返す。
キリルの立派な首に必死で両手を回して掴まるエリカは、キリルの腕にがっしりと自分の華奢な体ごとホールドされて身動きが取れない。そのおかげで、キリルが思いっきり走っていてもほとんど揺れを感じることもなく、やがて明るい通りに繋がる小道までやってくると、キリルはそっとエリカの足を地面に降ろした。
生まれたての子鹿のようなフラフラした足取りで壁に手を突き、エリカはどうにか腰が抜けずに済んだ幸運と奮闘したキリルに心から感謝する。
「あ、ありがとう、本当に危なかった……!」
「うむ。しかしなるほど、エレアノール商会とは、ごろつきを雇って警護しなければならぬ場所か」
「そ、そうみたいね。今はとりあえず、もっと逃げましょう。近くにいると見つかってしまうわ」
「ああ。その手の輩はしつこいからな」
ほら行くぞ、とキリルはエリカの手を掴み、明るい通りへとエスコートする。
大きな筋ばった手は、エリカの手をほとんど包み込むような形だ。それでいて、握りしめるようなことはなく、ふわりと添えられたように優しい。
キリルはそういう青年だ。ちょっと天然なところがあるものの、腕っぷしが強くて、紳士で、何よりその性分は騎士なのだ。誰もが憧れる立派な騎士は、なろうと思ったってそう簡単にはなれない。ましてや、王子の近衛ともなれば、その忠誠心と誠実さは折り紙つきだ。
失礼なことにエリカが勝手にアホの子と思っていた騎士キリル、面目躍如である。
エリカの前を歩くキリルの横顔は、頼り甲斐のある、まさしく理想の騎士だった。
(……こういうところは本当に、かっこいいのになぁ。ダメダメ、強い騎士様なんて私とは釣り合わない。期待しちゃダメよ、エリカ)
悲しいかな、エリカは
それが今の、エリカの限界だった。