エリカと同様、キリルもまた『ノクタニアの乙女』内ではほぼ情報のないモブキャラクターだったため、この世界で目覚めてからエリカはゲーム内モブキャラクターたちがどんな人物なのかを慎重かつ綿密に調べてきた。当然、各攻略キャラクターのエンディングへ影響を及ぼさないかを確かめるためだ。大半はモブという役職名のとおり、特段警戒すべき要素は見当たらず、攻略キャラクターの周囲にいるモブたちも影響を受けこそすれ、影響を与える側にはならない。
たとえば、ヒロインであるベルナデッタは、太陽のようなものだ。恒星である太陽、その周囲を地球や水星といった惑星がくるくる回る。太陽が熱や太陽風で惑星に影響を与えることはあっても、地球から太陽へ微々たる影響さえ与えることは事実上不可能であるように、惑星たるモブたちが恒星たるベルナデッタを利することはあっても害することはできない。そう
ただし、すでにエンディングルートを回避した先、つまり既存のゲームシナリオにはない部分であれば、そうとも言い切れない。ドミニクス王子ならば、病気が完治したといっても政争に巻き込まれて暗殺騒動、なんてことも十分にありえる。そのとき、優秀な護衛であるキリルがいたからこそ防げた、あるいは防げなかった、という
その可能性はゼロではなく、仕方なくエリカはキリルをさらに調査する必要が生まれ——特に知りたくもなかった変人奇人ぶりが明らかになってしまった挙句、大食いであるため給料の大半が食費に消える有様だと判明してしまったのだ。キリルの家計のエンゲル係数は一体どうなっているのか、一度エリカはキリルのために出入額を計算して家計簿を付けてやったが、酒やタバコなど何の贅沢もしていないのに食費だけで赤字なのだ。しかもこの食いしん坊、まったく減らす気がない。
いや、今はそんなことはどうでもいいのだ。
そこまで知っているエリカに指摘され、頭を抱えて天を仰ぐキリルから金をもらおうなんて無益なことをなぜ考えると思っているのだろうか。もう放っておきたいが、一応世話になっているためエリカは我慢する。
「ああくそ、どうすれば!」
「あの、別にキリルにお金を工面してもらおうなんて思っていませんから」
「そうだ、いいことを思いついた!」
「人の話聞いてくれます? ……一応、聞いておきますけれど、何ですか?」
このとき、キリルの「よくぞ聞いてくれた」という満面の笑みに、エリカは即座に後悔の念が浮かんだが、もう遅い。
先に言っておこう——キリルはアホなのだ、と。
「エリカ、何でも言うことを聞くから、雇ってくれ!」
それを聞く人が聞けば、何と思うだろうか。
男が女に何でも言うことを聞く、などと——それも、子どものたわごとではない——人前で宣言すればどんな外聞が生まれるか、キリルは一ミリたりとも考えていないに違いない。
淑女が聞けば「まあ、プロポーズかしら!」。
噂好きの貴婦人が聞けば「……一晩おいくらという話かしら?」。
騎士たちが聞けば……ああいや、騎士キリル・ウンディーネを知るノクタニア王国の騎士たちは「またバカなことを言って」とげんなりするだろう。
さて、この場にいる人々はどう思うだろうか。もはや、エリカにそれを想像する気力はなく、得意げなキリルの頭を軽くはたくことしかできなかった。
「却下。却下に決まっているでしょうが」
「なぜ!?」
「仮にも騎士が! 何でも言うこと聞くとか、言っちゃダメでしょう! 殿下以外に主人を持つなんて浮気性な」
「浮気性ッ……ひどい!」
「あなたがね! もう!」
さっきまで凛々しく商談に臨んでいたエリカも、すっかりキリルに調子を崩されっぱなしだ。
見かねたアレサンドロが、助け舟を出してくれた。
「それはさておき、エリカ、あんたも一応は貴族のお嬢様なんだ。外を出歩くときはちゃんと護衛をつけな。そこの兄ちゃんなら大抵のやつは返り討ちだろ?」
「うむ! 先日騎士団の討伐遠征に参加したが、一時間でハイオーク五十体を倒したぞ!」
そういう自慢は今、求められていない。エリカはヒールの踵でキリルのブーツのくるぶしあたりをコツンと蹴っておいた。
「ご忠告はありがたく受け取っておきます。慣れない場所を出歩くときは、キリルにちゃんと声をかけます」
「そうしな。ほら、後で銀行の使いが支払いの手続きに行くだろ、あんたらは帰った帰った。うちは忙しいんだ」
「はーい」
アレサンドロに追い出されるように——そう演じて——恥ずかしさのあまりこれ以上ボロを出さないうちに、エリカはキリルを引っ張って退散することにした。
(何でも言うこと聞く、なんて子どもじゃないんだから! ああもう、一瞬ドキッとしちゃった自分が歯がゆいわ! 今まで異性にそんなこと言われた試しがなかったもの……!)
店舗から飛び出したあと、エリカは「はて?」と我に返る。
(……いや、でも、お金が云々って話の流れではあったけど、キリルが嫌いな相手に何でも言うこと聞くだなんて、言うかしら……? うーん、キリルはアホの子だけど、王子への忠誠心厚いし、割ときちんとした性格だし……言葉で他人を騙したりはしない、わよね?)
そこまで考えてから、エリカは思いっきり、頭をブンブンと振り回して邪念を払う。
違うのだ、違う。脈があるだなどと、思ってはいない。違うのだ。そう呪文のように頭の中で繰り返して、キリルの袖を引っ張ったまま突進するように市場を離れた。
エリカの無自覚に紅潮した頬が冷めたころ、ようやく握りしめたキリルの袖を離したが、すっかり深いシワになっていた。