「あら、ご存じなくて? あなたの婚約者であるエリカお姉様は、ドミニクス王子の病の特効薬を開発して、王城に卸しているのよ?」
「え……?」
「さすが、『
「あ、ああ、これは恥ずかしいな。そんな話は、まったく本人から聞いていなかったから」
「ええ、お姉様は謙虚だもの!」
なぜかベルナデッタが上機嫌に高笑いをしている。おそらくは、エリカの功績が我がことのように喜ばしいのだろう。エルノルドの表情は、何を思っているのか定かではない、仏頂面のままだった。
エリカが固く握りしめた拳は、洗っても洗っても落ちない魔法薬の材料の匂いがする。毎日受付嬢の傍ら、魔法薬の制作や研究に関わっていればそうなる。攻略可能キャラクター『ドミニクス王子の病死イベント』を、エリカは必死になって病の特効薬となる魔法薬を開発して回避——つまりは、エリカは攻略可能キャラクターのシナリオを、ベルナデッタと結ばれる方法以外で変えてしまっているからだ。
そう、すでに実績はある。同じことをすればいい、それが分かっているだけでも大きい。
意気込むエリカのもとへ、調剤室から出てきた白衣の調剤師が、抱えるほどの紙袋に入った薬を持ってきた。
「レニエ・マイノーさんの調剤できました」
「あ、はい。ありがとうございます」
エリカは紙袋の中をチェックする。同じ薬、同じ量、二ヶ月は保つだろう数を入れておけば大丈夫だろう。半透明の紙包に入った粉薬の匂いを外から嗅いで、魔法薬の種類を処方どおりだと確定させたら、準備完了だ。
エリカがカウンターに戻ると、そこにいたのはエルノルドだけだった。先ほどまで高笑いしていたベルナデッタの影も形もない。
「あら? ベルナデッタはどこに?」
「急用だと言って帰った」
「そ、そうですか」
(何しに来たのかしら。あ、結局お茶会の約束できてないわ。あとで連絡しようっと)
ベルナデッタはさておき、客としてやってきたエルノルドにはしっかりと対応しなくては。エリカは紙袋をカウンターに置き、中の紙包を見せ、エルノルドへ商品を確かめさせる。
「こちらがお薬です。レニエさんなら用法用量をご存じですから、なるべく早くお渡しくださいませ。もし何かあれば当魔法薬局へご連絡を、すぐに対応します」
「ああ、分かった」
しれっと仏頂面のまま、エルノルドは紙袋をひょいと片手で持つ。このまま礼の一つも言わずに出ていくのだろう、まあ仕方ない——そう思っていたエリカは、玄関扉の前で突如エルノルドがほんの少しだけ振り向いたことに驚いた。
「エリカ」
その上、エルノルドは、エリカの名を呼んだのだから、すっかり意表を突かれた。
柄にもなく心拍数が上がってあたふたと慌てるエリカへ、エルノルドは申し訳なさそうに、何だかバツが悪そうに、こう言った。
「君は、すごい魔法薬調剤師だったんだな。それさえ、僕は知らなかった。すまない」
謝罪の言葉が出てくるようなことだろうか、私によっぽど興味がなかったんだなぁ、というエリカの素直な気持ちはさておき、しおらしくして謝っているエルノルドはどうにも馬鹿正直すぎて、少しおかしい。
笑いが溢れる前に、エリカは真面目くさったエルノルドへ返事をしておく。
「いいえ。でも、エルノルドに知ってもらえてとても嬉しいです」
——何だ、可愛いところもあるじゃない。知ってたけど。
それきり、エルノルドはさっさと魔法薬局を出ていってしまった。恥ずかしかったのかもしれない、などとエリカがついに笑いを吹き出していると、騒々しいことにまたしても来客がやってきた。
からんからがらんッ! 玄関扉のベルが、ここ最近では一番の騒音を撒き散らす。
「たのもーう!」
そう大声を発しながらドカンと玄関の上部枠に額をぶつける客は、エリカの覚えているかぎりでは一人しかいない。
「キリル! ちょっと、
笑いはどこへか飛んでいき、エリカは目を吊り上げて怒る。
母親に叱られる子どものようだが、キリル——純銀の胸当てをして、肩から臙脂のビロードの飾りマントを下げる長身の騎士は、立派な大人である。間違いなく美形と言ってもいい青年なのだが、人懐こい表情で「てへっ」という顔を作っていた。この騎士、美形ででかい図体のくせに、あざといのである。
「ああいやいや、申し訳ない! はしゃぎすぎた!」
「もう! 今日もおつかいなの?」
「おつかいとは失敬な。騎士として、王子の飲まれる魔法薬を受け取りにやってきたのだ。重大な任務だぞ!」
「それはおつかいでは?」
「え? そう? ……そうかも?」
キリルは首を傾げる。ついに、エリカは胸中に溜まりきっていたため息を吐き出した。
「はあ、どうしてこうも面倒くさい殿方ばっかりなんだろ」
「ん? 何か言ったか?」
「ああ、こっちのことだから、気にしないで。それより、いつもの魔法薬よね。すぐ用意するわ」
「うむ、頼んだ!」
キリルはよく通る声に快活な性格、白い歯がキラリと光る爽やかさだ。
そうでなくては、かつては年中伏せっていたドミニクス王子の騎士なんてやっていられなかったのかもしれない。不敬かつ失礼なことを考えながら、エリカは——本来同じモブキャラである騎士キリル・ウンディーネへ、一言。
「キリル、明日、『作戦会議』しましょう。時間はある?」
「もちろん!」
「即答なのね」
「ああ! この国を救う作戦が、エリカにはあるんだろう?」
すでに主君であるドミニクス王子を救われた事実から、キリルは「エリカは他にも人を救ったりしたいらしい」とぼんやり理解しており、そしてそれを『作戦』と好意的に受け止めて「うむ、ぜひ協力しよう!」と考えている模様だ。
何という都合のいい、じゃなかった、単純明快で明朗快活な、素晴らしい騎士だろう。
「まあ、そうなるかな。うん、そういうことにしておこう」
そういうことでいいのだ、きっと。重苦しく考えていたが、エリカは少しだけ、心が軽くなった。
エリカの短くて長い戦いが、始まる。