開けっぱなしになっていた魔法薬局の玄関扉が、強めにノックされる。
ベルナデッタが振り向き、エリカがその横から来訪客を覗き見る。
すると、猛禽類のような鋭い目つきに、濃い茶髪にグレーのメッシュが入った青年——エリカもベルナデッタも、貴族学校時代から彼を知っている——が、貴族の仕事着である簡易式宮廷礼服に身を包んで、そこに立っていた。
まるで、心の中の大それた野望を隠そうともしない、自信と戦意に満ち溢れた青年の顔は、目上からは嫌われ、目下の者たちからは好印象を持たれるらしい。
ただまあ、エリカはそんな彼が苦手で、なるべく会わないようにしていたが、
噂をすれば影がさすと言うべきか。貴族の青年、ニカノール伯爵家嫡男エルノルドが、自ら足を運んでエリカの前にやってきた。この事実に、エリカは(強制イベントだわ)と胃がキリキリ痛む思いだ。
そんなことはつゆ知らず、エルノルドはエリカへ微笑みの一つも見せずに、仏頂面でこう言った。
「失礼。少し早いが、受け付けてもらえるだろうか」
「は、はい。エルノルド、おはよう」
「ああ、おはよう」
エルノルドの返事は実に素っ気ない。とても婚約者に対する態度ではないが、やむをえない。エルノルドもまた、エリカと婚約したくてしたわけではないからだ。というよりも、本来のゲームシナリオではモブキャラのエリカと隠しとはいえ攻略対象キャラのエルノルドはくっつかないはずだから、間違いなく本意ではない。
ところが、である。
カウンター前に歩み出たエルノルドは、ベルナデッタへ向け——一転して、ふんわりと微笑んでみせたのだ。
「ベルナデッタ嬢、おはよう。奇遇だね」
「ええ、ごきげんよう。あなたがここに来るということは、お姉様に用事?」
「いや。僕は魔法薬を買いに来ただけだ。執事のレニエの咳が止まらなくてね、散歩のついでに」
「まあ、使用人思いだこと」
ベルナデッタは良家の令嬢らしく、エルノルドへ他意のない愛想笑いを向ける。そして、それを見たエルノルドはいつもの仏頂面から大して表情を変えないが、どことなく嬉しそうだ。
明らかに態度の違うエルノルドに思うところは大量にあるが、エリカは営業モードに切り替える。正直、腹が立つのは山々だが、魔法薬局の受付嬢として一つ咳払いで済ませて客に対応せねばならないのだ。
エリカはカウンター横の書類棚から『R』の名簿を取り出し、すぐにエルノルドの執事レニエことレニエ・マイノーのページを開く。六十一歳男性、喘息の病歴あり。以前処方した魔法薬についても詳細に記されていた。
この世界では現代日本と違って、病院で処方箋をもらって薬局で処方してもらう、なんて面倒なことはしない、というか制度や社会システム的にできない。怪我や病気をすれば、直接薬局に行って薬を買ってくる、お金があれば医師にかかって薬を出してもらう、その程度だ。だから、エリカは請われればレニエに処方した魔法薬を出さなくてはならない。本人確認も何もなく、だ。現代日本に慣れた前世の記憶を持つエリカには、かなり不満で不安なところだが、致し方ない。
それでも、エリカは己の職務に忠実であろうとする。ちゃんと確認くらいはしておくのだ。
「レニエ・マイノーさんの代理の方ですね。はい、以前処方したお薬と同じものでよろしいですか? 何かお変わりは?」
「いや、何も。薬が減ってきたと言っていたから、補充したいだけだ。レニエも年だから、手間を省いてやろうと思ったんだ」
「でしたら、すぐにお出しします。少々お待ちください」
「ああ」
平坦な二文字の受け答えをし終えたら、エルノルドはさっさとベルナデッタへ振り向いて、会話を始めた。声色にはほのかに喜色が混じり、なんとジョークさえ聞こえてくる。
エリカはため息を堪えて、奥の調剤室へ渡す魔法薬の名前と分量をメモに書き記す。一応は薬局、取り違えなどのエラーが起きないよう、二重チェックや書類記載の確認は割としっかりしていた。
(まったく、婚約者の私には笑いかけもしないで、ベルナデッタにはデレデレ。分かりやすいったらありゃしないわ。そんなだから隠しキャラで、本当は憎まれ悪役で、攻略例が少なくって)
エリカの婚約者となったニカノール伯爵家嫡男エルノルドは、ゲームの隠し攻略対象キャラだったが、それゆえにエリカはしばしノーマークだったため、叔父の策謀もあって接近を見抜けなかった。さらには、エリカの把握できないどこかでシナリオ進行のフラグが立ってしまったのか、よろしくない事態が進展してしまった。
そう——
『ノクタニアの乙女』のトゥルーエンドはできるかぎり回避したいとエリカは思っていたはずなのに、前世の記憶で知っていたはずなのに、まるで
そして、それに気付いているのはエリカただ一人だ。誰も、まさか『エルノルドの野望が潰えて協力者たちが軒並み惨死し、エルノルドはベルナデッタに助けられて隣国へ逃れ、ベルナデッタの片腕として、夫として生きていく』という未来がありえるだなどと思ってはいない。
あろうことか、その協力者たちの中には他のライバルキャラや攻略対象キャラも含まれている。
エリカは、メモを奥の調剤室にいた白衣の調剤師へ手渡したあと、魔法薬ができるまでの待ち時間は壁際でそっとベルナデッタとエルノルドの様子を見ていた。
「……それで、どうなったの?」
「ああ、ちゃんと回収したよ」
「よかったわ。どうなるかと思った!」
「ははっ、ご安心を」
どうやら会話は弾んでいるようで、ベルナデッタもまんざらではなさそうだ。友人としては波長が合う、と言ったところだろうか。もちろん今のベルナデッタがエリカの婚約者を奪うということはないだろう、それは断言できる。元のゲームでの設定的にも、ベルナデッタは根っからの善人だった。それがブレてしまえば、この世界が破綻する。
だからこそエリカはベルナデッタと友人になれて、この世界で起きていただろう——ベルナデッタと結ばれないキャラクターのエンディングの進行を阻止してきた。まだ途上ではある、しかし今真っ先に食い止めなくてはならないのは、カウンター前で年相応の青年のように振る舞うエルノルドの
悲惨なイベントスチル、次々いなくなるキャラクター、ノクタニア王国の暗雲、何もかもがエリカには受け入れられない。物語のキャラクターだからとバッドエンドを押し付けられていいはずがない、ましてやここまで深く関われば、キャラクターではなく一人の生きた人間の人生が、そこにあるのだから。
(うん……あんな悲劇、トゥルーエンドなんて認めない。何としてでも、まずはエルノルドを助けないと)
エルノルドにとっては、エリカは気に入らない婚約者でしかない。でも、それはエルノルドを見捨てていい、惨劇を見過ごしていいという理由にはならない。
エリカには、それはできなかった。
しかし、問題は『ノクタニアの乙女』の、
(誰かを助ければ、誰かが悲惨な目に遭う。そうなっている、ゲームのエンディングでは例外なくそう。だったら……どうすればいいか。
だから、エリカはこう考えたのだ。
本来のゲームシナリオに定められた結末のないキャラクターには、それらのエンディングと関係なく自由に動けるのではないか、と。
それゆえに、ベルナデッタと知り合い、親しくなっている事実は、エリカにとっては得難い武器、自身の推論の証明なのだ。
そこまで変えられることがあるのなら——この世界は、すでに定まっている結末のすべてを知るエリカならば、降りかかる悲劇を回避していけるはずだ。
ある意味では、それはエリカがこの世界に転生した使命のようなもの、エリカが行動する大義名分だった。モブキャラの人生にだって意味はあると、己を奮い立たせる。
それに、希望はある。