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第2話 魔法薬調剤師の朝は騒々しい

 からん、からん。


 魔法薬局の玄関扉が、大人しめのベルの音を立てて開く。


 ノクタニア王国最古の魔法薬を取り扱う専門薬局であるルカ=コスマ魔法薬局に、新聞配達の少年が毎朝八時を知らせにやってくる。


「おはようございまーす! 今日の新聞、カウンターに置いとくよ!」


 そう言って、新聞配達の少年は次の配達場所へと駆け出していった。


 薬局の壁という壁の棚に無数のガラス瓶が並び、動植物由来の魔法薬の材料が天井から隙間もないほどに吊り下げられ、大きな木製カウンターには年季の入った天秤と木の匙が綺麗に拭かれて出番を待っている。


 ルカ=コスマ魔法薬局の開店は朝八時半だ。奥にある温室兼調合室では、すでに魔法薬調剤師が何人も作業に入って、いや、昨夜から作業を継続中だった。そのせいで店頭には誰もおらず、新聞を読むために配達を頼んでいるというよりも、開店前の八時を知らせてもらうためという役割が大きい。


 新聞配達の少年が去って数分後、カウンターの奥に一人の白衣姿の女性がやってきた。


 カウンター奥にある天窓開閉用の鎖を引き、十分に天窓が開いて店内が明るくなったところで、女性は新聞を手に取る。


 女性の黒髪は朝日を浴びてエメラルドのように輝き、几帳面にも高めのポニーテールに結われている。可愛い系の顔立ちだが、貴族学校時代も魔法学院時代も特に外見を他人から褒められたことはなく、本人もそれは望むところではない。


 広げた紙面を見つめて、女性——二十歳になったサティルカ男爵家令嬢エリカ・リドヴィナは、はあ、と感嘆の吐息と独り言を漏らした。


「ノルベルタ家、ティンバー宮中伯から買い取った大豪邸で連日パーティ三昧。そりゃまた、ベルナデッタも大変ね。そろそろお茶会にでも誘っとこうかしら、お嬢様の不満が爆発する前に」


 新聞記事は、ノクタニア王国一の大富豪ノルベルタ家の贅沢を批判する意図で書かれたものだろうが、そんなことで巨大財閥ノルベルタ家の権勢は揺るがない。それどころか、ノクタニア王国の王侯貴族の誰もがノルベルタ家と関係を持とうとその連日のパーティに足繁く通っているだろう。


「まあ、サティルカ男爵家我が家は貧乏すぎて誰も通えないけど。おっと、ドミニクス王子が宮中晩餐会に顔を出した? へえ、体調が安定してきたのね。薬が効いてよかったわ」


 ふむふむ、とエリカはドミニクス王子の記事を読み、安堵した。


「となると、次の薬は南洋シーサーペントの第二肝を足しても大丈夫かしら。材料を取り寄せとかないと。薬局長、仕入れの話ですけどー、追加入りまーす」


 エリカは薬局の奥、調剤室へ誰が聞いているかも定かではない声がけをしてから、カウンター下の帳簿の一冊を取り出して、最終ページの余白にペンを入れる。


 エリカの仕事は、魔法薬調剤師としての魔法薬の調剤の他に、とても大事な役目を与えられている。


 ルカ=コスマ魔法薬局の顔とも言える、受付嬢だ。ただし、そんじょそこらの受付嬢と同じではない。


 魔法薬学を知り尽くしたエキスパートとして、本来であれば薬局長が客の要望を聞き、適切な魔法薬を処方する。ルカ=コスマ魔法薬局の処方責任者を務められるほどにその能力が認められた、魔法薬調剤師としての最上級の国家資格『金冠魔法薬調剤師ゴールドクラウン』としてカウンターを任されているのだ。その証拠に、エリカの白衣の左胸には金冠とフラスコのワッペンが貼り付けられており、二十歳の若さで魔法薬調剤師の頂に登ったことを示している。


(そりゃあ、前世の記憶にプラスして、この世界の魔法薬学が未発達もいいところだったのが助かったわ〜。ミニゲームの魔法薬作成もやり尽くしたから、魔法薬の生成ルールが分かってるのも大きかったかも)


 エリカ自身の才能もさることながら、『神芝えりか』の持つこの世界の知識はかなりのアドバンテージとなった。貴族学校時代も、今も、前世があるからこそ——。


 からんからん、と慌ただしくルカ=コスマ魔法薬局の玄関扉のベルが鳴った。


 エリカが驚いて新聞から顔を上げると、入ってきたのは客、ではなく、フリルブラウスとふんわり紐飾りが揺れる巻きスカートの似合う豊かな金髪の美女だ。


 エリカは営業スマイルを作りかけて、ああ、と瞬時に柔和な笑みを浮かべた。


「ベルナデッタ、おはよう。ちょうどよかった、今度お茶会でもしない? 誘おうと思ってたところに来てくれたから」


 ベルナデッタと呼ばれた美女は、カウンターにツカツカとやってきて、エリカの言葉を遮る。


「もー! 毎日毎日、疲れた! 何とかして、エリカ!」


 子どものように地団駄を踏んでもなお、ベルナデッタは美しい。むしろ、愛嬌があって好ましいくらいだ。


 エリカは少し背伸びして、このご令嬢——本来であれば乙女ゲーム『ノクタニアの乙女』主人公メインヒロインである——巨大財閥ノルベルタ家令嬢ベルナデッタの頭を撫でて、慰めてやる。


「はいはい、偉いわ、ベル。あなたがそうやって働くからこそ、少しずつこの国はよくなっていくのよ。きっとそう、平民だとか何だとか言ってくる人はもういないでしょう?」


 今のノクタニア王国で、ベルナデッタの実家を口さがなく罵ることができる王侯貴族は存在しないと言っていい。それだけの資産と影響力を持ち、国や王族、貴族たちに多額の援助という名の大きな貸しがあり、財閥一門の活発な商業によってこの国の経済を豊かにしてきた。


 ただ、それは本来、だ。


 正確には、ノルベルタ家という大商家を規格外の財閥まで押し上げたのは——十年以上前に貴族学校でベルナデッタと友人になったエリカだった。


「はあ、それもこれも、お姉様のおかげよ。私にお金の使い方を教えてくれて、銀行や商家の買収合併の仕方を教えてくれて、財閥クリークと呼ばれるようになって……ノルベルタ家は貴族なんかに見下されない権勢を手に入れた。お父様だってお姉様のことは知っているのよ、私に入れ知恵した天使はどこにいるのかっていつもしつこいんだから!」


 ベルナデッタの口からそれを聞くたび、エリカは苦笑いしてしまう。


 本来のゲームシナリオであれば、エリカはただの魔法薬局の看板娘キャラ、貴族学校や魔法学院に通っていた経歴すら付随していなかった。主人公メインヒロインであるベルナデッタとの交流はそこ一点だけだったのだが——ことになるのであれば、話は違う。


 正直、モブキャラだったエリカがベルナデッタと幼少期からの友人関係になるのは半ば賭けだったのだが、貴族令嬢なのに貧乏性なエリカを見てベルナデッタが憐れみつつも感心したことがきっかけで知り合った、などとは口が裂けても他人に聞かせられない。他にも色々とまああるのだが、それゆえに、ベルナデッタの父にも馴れ初めは教えないよう口止めしていた。表向きは取り繕いつつも、内情は赤貧極まるサティルカ男爵家の名誉に関わる。


 それはさておき、頭を撫でられて上機嫌になっていたベルナデッタが、思い出したとばかりに両手を軽く叩いた。


「あ、そういえば、サティルカ男爵家の人が昨日パーティにいたわ」

「え!? うちは誰も行ってないと思うけど」

「男爵の弟だって言っていたわ、お姉様の叔父上? ルーパートと名乗っていたけれど」


 その名を聞いて、エリカの口の端が少しひきつった。苦手な人物、できれば名前も聞きたくないし本人にも会いたくないその人物は、確かにサティルカ男爵の弟、つまりエリカの叔父だった。


 出しゃばりの叔父が、貴族も出入りする上流階級のパーティで何をしたか、考えるだにエリカは頭が痛くなってくる。しかし、貴族は名誉やメンツが重要だ。身内の恥とはいえ、できるかぎり悪評を立たせたくはない。


「た、多分、我が家は社交界の出入りが少ないから、見かねた叔父様が色々と気遣ってくれているのかもしれないわ。私は知らなくても、お父様が把握してるだろうから」

「そう? お姉様がそうおっしゃるなら……」

(叔父様〜……勝手に私に婚約者をあてがった挙句、爵位を乗っ取ろうと男爵家代表みたいな顔して社交界で既成事実積み重ねてるわ……あーもー)


 それは友人ベルナデッタには言えない、貴族の家の悲しき事情だった。


 エリカはサティルカ男爵家の爵位に興味はない。だが、叔父に爵位が奪われれば、実家が丸ごと乗っ取られるとなれば話は違う。


(父は温厚な人だし、母は病弱、私は一人娘だから他に兄弟姉妹もいない。普通に考えればサティルカ男爵家の継承は私の婿になるんだけど、叔父はそれを自分のものにしたい。だからって……ニカノール伯爵家嫡男を私の婚約者に仕立て上げて、事後承認を迫られるなんて思ってもみなかったし……それに……)


 最悪なことに、こんなところでエリカがゲームシナリオを改変したことの『揺り戻し』のような作用が発生するとは、まったくもって予想外だった。


 その最悪の一端が、ルカ=コスマ魔法薬局に出現した。

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