色とりどりのネオンに濡れる下層街商業区。偽情報を垂れ流す仮想の美女は今日もネオンと闇夜の狭間で踊り狂い、見る者を惑わす妖艶な笑みを労働者へ投げかけていた。
曰く、本日は晴天なり。株価指数は死者の羅列の手により下方修正を強いられ、歓楽区で起きた小規模戦闘は肉欲の坩堝が仕切る性産業に多大な損害を与えました。また、居住区のゲート機構の故障により、遺跡へ繋がるエレベーターは地獄への片道切符。遺跡発掘者及び労働者の皆様、今日も良い一日をお過ごし下さい。
仮想の美女がニュースを読み上げ、広告を流す。無免許医による歯科手術、違法機械義肢の取り付けを生業とする機械狂……メカニカル・カルトの広告等。鋼鉄板の空で覆い隠された下層街の天気予報を空間映像の隅に映し、虚偽に塗れた情報を商業区全域に流し終えた美女は、投げキッスをすると、ネオンの明かりに溶けるかのようにして消えた。
商業区には昼が無ければ夜もない。此処に存在するものは長針と短針が刻む時間だけであり、二十四時間三百六十五日ネオンに彩られた区は宛ら電子の海と例えられようか。
区の建物全てに繋がる電子LANケーブル、地中を這うインターネット回線、死者の羅列の眼となる無数の監視カメラ、給料を振り込む為に刻印される労働者コード……。区に生きる全員が死者の羅列が整備したインフラを活用し、不可視の海に身を浸す。電子の海を泳ぎ回るヒレが無くとも、クレジットという酸素を得るエラが無くとも、小波に揺蕩う藻屑になることは出来る。流されるままに右に左に揺れ、経済の海流に身を委ねる泳ぎ方を忘れた小魚。それが、下層街商業区に生きる……電子の海で溺れる労働者なのだ。
そして、不可視で美しい死海で飾られた商業区を二人の少女が歩を進めていた。白衣のポケットに両手を突っ込み、HHPCの液晶に光を灯すリルス。美しく輝く銀翼を身体に密着させ、煌めく銀髪を片手で掻き上げたイブ。通りを歩く労働者の殆どがオイルで作業服を汚し、身体の至る所が黒ずんでいるのに二人は清潔を通り越して何処か……そう、全くの別次元から姿を表したかと思わせる程に、全てが整い過ぎていた。
「リルス、テフィラとの待ち合わせ場所は何処?」
「もう少しよ、そう焦らなくても彼女は逃げないわイブ」
リルスが肩を竦め、軽く笑う。彼女の言葉を聞き流すように街路を眺めたイブは、至る所に設置された電子看板を横切る文字を追った。
臓器欠損保険やら四肢切断保証、機械義肢修理保険の広告と時折流れる大衆商店のブラックユーモア溢れる広告……。人肉団子が生産されていることは知っているが、羽虫のかき揚げやゴキブリの姿揚げの割引クーポンなんてものは見るに耐えない悍ましさ。
売れるモノは何でも売り、金さえ払うことが出来れば何でもある。商業区の路地裏の奥、裸電球がポツンと灯る仄暗い闇の先に在る商店を思い出したイブは、電子看板を横切る広告が嘘では無いと知り、深い溜息を吐き出した。
「どうしたの? 随分と呆れているように見えるけど」
「……何処も変わらないと思っただけ。歓楽区も、此処も」
「そう? 私は商業区の方が良いと思うけど」
「へぇ、理由を教えて頂戴」
「だって、面倒な客引きや私の身体を狙おうとする輩が居ないもの。イブ、貴女も知ってるでしょう? 歓楽区の酷さを」
無論知っている。区全体を包み込む甘い腐臭も、少年少女が商品として売買されている異常性も、身体改造を施された娼婦が麻薬欲しさに身体を売る現実も……この目で見た。だからこそだろうか、リルスの言っている内容に内心頷く己が居るのもまた事実。
それに比べて、商業区は漠然とした秩序が構築されているように見えた。規則正しく歩を進める労働者と時刻を告げる空間投影型の大時計。皆が皆虚ろな目で前を見据え、誰かが過労によって倒れても歩き続ける言い得ない違和感。暴走する自動車に轢かれ、血飛沫を撒き散らしながら吹き飛ぶ労働者を誰も助けようとしない人間性に多少驚きつつも、何時も何処かで銃声が鳴り響く他区よりはマシだ。
「……」
鼻腔を擽る機械の排熱臭と労働者の汗の匂い。
「……ダナンは」
「ん?」
「彼は今、遺跡に潜っているのよね? ステラを連れて」
「そうね、順調に進んでいれば今頃」
「あの娘、大丈夫かしら」
暴走車両のクラクションが鳴り響く。掠れた白線が並ぶ横断歩道を歩いていた労働者の内、十人程が跳ね飛ばされる。
「多分大丈夫じゃない?」
「その保証はあるの?」
「無意味には殺さないでしょ、ダナンだって」
「……」
そうだと信じたいが、ダナンがどんな行動に出るかはイブやリルスにも分からない。殺意を焚べてステラの首を叩き切るか、狂気に精神を苛まれ凶刃を振るうのか……。
「……もしもの話よ、貴女の見解を聞いておきたかっただけ」
「そう、貴女でも不安になることがあるのね」
「私だって人間よ? 年は貴女よりも上だけれど」
「年の話はしていないわよ? イブ」
「コミュニケーションじゃない、そう真面目に突っ込まないでよリルス」
クスクスと……誂うような笑みを浮かべ、自分達に突っ込んできた暴走車を銀翼で薙ぎ払い、大破させたイブは電子の海を眺め、目を細める。
このネオンはただ空間を明るく照らすものではない。常人の目には映らない情報がネオンを彩る電子に乗って流れ、商業区全域にネット回線とは別の通信網を構築しているのだ。
アクアリウム……そう例えた方が分かり易い。人工的に造られた小規模生態系。商業区そのものが一つのアクアリウムであり、経済活動という海流に身を委ねる存在が労働者。空気の役割を成すクレジットを得る為に対価として時間を差し出し、アクアリウムを管理する死者の羅列が商業区を観察する。
何故他の区とは違い、此処までインフラが整っているのか。答えは簡単、管理の効率性と合理性を高める為だろう。発達したネット回線を通じて区の状態を把握し、完璧に調整したアクアリウムを破壊しようとする事態が発生する可能性があるならば、それに対し迅速な対応を行えるよう監視カメラを配置する。
管理、観察、調整、対処……。空虚な人間性を残し、仮初の秩序を維持する商業区は情報化社会を突き詰めたアクアリウム。其処に人間的な温かさは無く、機械的な冷えた空気が場を占める泡飛沫とも思えようか。
肉眼では視認出来ない回線をイブの七色の瞳が追い、電子に泳ぐ少女を見る。空を飛ぶ鳥のような動きで宙をくるりと舞い踊り、地面に降り立った少女は労働者の波を掻き分けると。
「こんばんわ、異邦人」
イブにしか聞こえない、凛とした声で薄い笑みを浮かべた。
「異邦人、そうね。この街じゃ私は異邦人以外の何者でもないわ。貴女……誰?」
「貴女のパートナーに仕事の連絡を送っていたと思うのですが、自己紹介が必要ですか?」
「ちょっとイブ、どうしたのいきなり。前に誰か居るの?」
「誰かって……あぁ、そういうことね」
笑みを絶やさない少女と、困惑した表情を浮かべるリルス。
電気信号模擬体。イブの目の前に立った少女は、彼女の七色の瞳にしか反応しない虚構の存在なのだろう。電子で象られた存在故に肉眼で視認することが出来ず、触れる事も叶わない。
「リルス、貴女の眼鏡に情報解析機能はあるかしら?」
「HHPCと繋げば可能だけれど?」
「ならその機能を使った方がいい。この依頼は」
確かに、貴女と私じゃなきゃ達成不可能なんだもの。そう言ったイブは、腕を組むと銀翼を広げ、宙に揺蕩う少女……テフィラを見つめるのだった。