それぞれの瞳に映る世界とは、どのような姿で象られているのだろう。
荒涼とした血の臭いと蛆が集る腐乱死体、煌びやかなネオンの下で独り言を呟きながら蹲る浮浪者達。下層街に蔓延する死の香りは、健全な細胞を食い散らかす癌細胞のようであり、終わりの見えない絶望を体現した凄惨な光景だった。
赤子を貪る奇妙な造形をした野犬の群れは見るに堪えず、腐った死体から臓物を抜く弱者の瞳は濁った泥水を連想させる亡者の色。下層街という街は生きる死体が這い蹲り、強者が弱者を虐げる辺獄の檻なのだ。
あの混沌とした街で子供が生き残るのは難しい。幼い頃に植え付けられる生存の摂理、気丈に生きて尚精神を圧し折ろうとする虐の音色、齢を取るにつれて激化する生存競争……。ダナンが知る下層街とは、常に命と力を試される蟲毒に他ならない。
だが……下層街は多少なりとも力があれば人間として生きられる。力を誇示し、弱者を踏み躙り、全てを奪えば生存の許諾権を得ることが出来るのだ。最底辺であろうとも人の姿形を保って生きられる世界は、拙い光で照らされた闇……井戸の底のようで、弱肉強食の井戸水に腰まで浸かる冷酷な世界。自分達が進む遺跡と違い、理解が及ばぬ理不尽が命を奪わない。
奇怪な生物が跋扈する地獄の底は闇に濡れ、違法改造された殺戮兵器のキャタピラが静寂の中に木霊する。遠くで聞こえる肉が弾ける音と、それに合わせて響く叫喚。半分だけ機械化された生首が、影を思わせる生物に頭蓋ごと脳を咀嚼される狂気。遺跡に流れる血の量は、下層街の路地裏で流れる血の量と比べれば遥かに少ないが、死の質は遺跡の方が遥かに低い。
命のサイクルが存在せず、一方的に消費される世界は無秩序な地獄だ。多くの人間を殺し、自分が生き残る為に力を誇示し続けなければならない下層街は生温い。奥歯を噛み締め、金喰い百足の頭に刃を突き立てたダナンは、闇の奥でエンジンの駆動音を響かせる殺戮兵器『林道』を見据えると熱い息を吐く。
戦って、戦って、殺し続けた先に何がある。ステラへ視線を投げ掛けたダナンは無言で指を回し、曲がり角へ身を隠せと指示を飛ばす。
命を擦り減らし、真っ赤な血が体内を駆け巡る。狂った機械には血が巡っていない。装甲の下に在るのは駆動系統を司る動力回路と、敵を察知し攻撃するようにプログラムされた電子基盤だけ。
腸が垂れ下がるチェーンソーを躱し、へレスを抜いたダナンは林道の腕部を一太刀で斬り落とす。眩いばかりの火花が切断面から溢れ出し、古びたオイルが血の代わりに溢れ出た。
人を殺すのも、機械を壊すのも、変わらない。無機物であるか否か。細胞を斬るか、鋼を斬るかの違いだけ。電子基盤が機械の脳であるのなら、人間の脳も所詮はたんぱく質の塊……思考というプログラムを組む生体部品。故に……何も変わらないのだ。人も、機械も、何もかもが。
へレスを薙ぎ、林道の武装を全て叩き斬ったダナンは機械腕から超振動ブレードを展開し、機械の動力部を貫き破壊する。黒煙を噴き出しながら停止した林道の装甲板を剥ぎ、ステラを呼び戻したダナンは基盤を指差すと「ステラ、使える部品を教えてやる」ゴーグルのレンズに火花を反射させた。
「兵器……でしょ? 使える部品なんて」
「あるから教えるんだ。そう時間は掛からん」
動力回路から制御基盤、電子部品をなぞったダナンの目は真剣そのもの。破壊された林道に危険は無いと知っている彼がこう言っているのならば、信じてみる価値がある。
「遺跡の遺産の他に、こういった殺戮兵器を破壊できればクレジットになる部品が手に入る。下層街で死体を解体したことがあるだろ? あれと同じだ」
「工具は」
「使え」
手の平サイズの工具一式がステラに手渡され、小型制御基盤に鋼の指が向けられ。
「ネジを回せば簡単に外すことが出来る。やってみろ」
「うん」
ダナンの言う通りにステラの握る工具がネジを回す。
一度、二度、三度……始めは固かったネジが僅かな力で緩み、基盤は容易く外すことが出来た。小型制御基板を手に取り、感嘆の息を吐いたステラは「出来た」と小声で喜びの声をあげる。
「ポーチに仕舞っておけ。林道の低スペック基盤だが、クレジットに成ることには変わりない」
「分かった。えっと、遺跡の遺産は」
「それも歩きながら教える。今俺達がやろうとしている仕事と関係が無いからな」
歩けるか? ダナンの差し出した手を握り、立ち上がったステラの目が揺らぐ影を捉えた。
蜃気楼を思わせる影.......全身の毛を逆立て、血肉が滴る牙を剥いた影の獣。それは音も無くダナンの背後に忍び寄り、鋭利な爪を振り上げる。
「ダナン! うし」
「知っている」
連続した射撃音と鼓膜を震わせる金切り声。黒い血液を噴き出しながら闇へ逃れようとする獣へ、ダナンはアサルトライフルの引き金を引き続け、倒れた隙を見計らってへレスを影の頭部に投げ捨て貫いた。
「影狼だ」
「かげ……ろう?」
「雑食の生物兵器。発情期と繁殖期以外は、共食いすら辞さない悪食の獣だ」
ダナンの目が周囲一帯を見渡し、ステラを抱き寄せる。
心臓が跳ねるように脈動していた。血が身体全体を駆け巡り、恐怖の感情を増幅させる。焦っているのに、命の危機に晒されているのに、ステラの身体は熱を発するよりも先に体温を急激に低下させ、震えを呼ぶ。
「もう一匹居る」
「……」
「番で行動しているのか、群れを形成して餌を探しているのか……。ステラ、俺から絶対に離れるな。何があっても、絶対に」
「わ、わか」
言葉を言い終える前に、吐き気を催す程の死臭がガスマスクのフィルターを通してステラの鼻孔を突く。ゴーグルに映る視覚情報が更新され、熱源感知機能を起動した瞬間、少女は死の権化……否、遺跡とは名ばかりの地獄が吐き出す悪夢を見る。
四肢を切断されて尚生きたまま引き摺られる遺跡発掘者と、それを貪りながら闇を歩く二足歩行の影狼。死んだ番を探しているのか、新しい生餌を求めて彷徨っているのか……無貌の黒面に幾つもの眼球がギョロリと開き、ダナンとステラを見据えた影狼は歓喜の叫びをあげた。
闇に紛れて音も無し。遺跡発掘者から流れ出る血の濁音が鼓膜を叩き、静寂に波紋を描く。突如として飛来した血達磨の遺跡発掘者を超振動ブレードが真っ二つに両断し、生温い鮮血がステラのゴーグルに飛び散った。
狂ってしまえたらどれだけ楽だろう。死の香りに惑わされ、遺跡の闇と同一の存在になれたら一瞬ではあるものの、救われるような気がした。死地を往く為に必要な精神は強靭であれば在る程利に近づき、脆く崩れる薄硝子のようなステラの心は今にも発狂寸前のどん詰まり。だが……彼女は目を覆いたくなる凄惨な光景を前にしても、ダナンの戦いから目を逸らさない。
アサルトライフルの射撃音と、空薬莢が地面を叩くある種の協奏曲。へレスの刃が影狼の爪を削ぎ落し、ステラに向かう牙はダナンの機械腕がブレードを展開して喉奥に刃を突き立てる。
これは狂騒曲だ。命と命がぶつかり合い、互いに死を与えようとする幾重奏。自分達の武器を指揮棒に例え、それを振るって曲を奏でる二つの命。何故ステラが狂いもせず、ダナンと影狼の戦いを真面に見ることが出来たのか……理由は簡単、其処に生き残る術が在ったから。
「……」
炸裂する火薬と滴る血の音色。
「……」
心臓と脳を同時に潰され、短い金切り声を響かせ絶命した影狼を蹴り飛ばすダナン。
地獄のような遺跡でも、彼はその歩みを止めない。その後ろ姿に圧倒的な強者の雰囲気を感じ取ったステラは、生唾を飲み込むとダナンが指差した通路の奥……朽ちかけた電子ドアを視界に収めた。