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悪性リンパ腫

 滴る血がソーチェーンの先から雫となって垂れ落ち、巨漢の足元に広がる血溜まりに波紋を描いた。ゲラゲラと笑い狂う血塗れの女は四肢を失った狂信者の胴体で踊り狂い、噴き出す血を片割れの男が瓶に溜めて一気に飲み下す。異臭を放ち、鮮血に濡れたモノクロタイルと薄暗い幅広の廊下にはべっとりとした屍血の跡が引かれ、其処ら中に投げ捨てられた誰の物かも分からない手足が転がっている。


 狂笑が求めるは狂気に冒された血の香り。血が生み出すは残忍なる獣性を帯びた人間の殺戮衝動。生命を冒涜し、命を消耗品として消費するヒドロ・デ・ベンゼン二階は極度のサディストが集まる血肉の園……罪悪を糧に人間性を捧げ、人間の内に潜む残虐な悪魔を呼び出すサバトであった。


 目の前で繰り広げられる狂宴に暫し圧倒され、身動きを取れずにいたダナンとグローリアは互いに互いの顔を見合わせ、小さく頷くと恐る恐る廊下に歩を進める。視界の端では産まれたばかりの胎児の腹をナイフで掻っ捌き、臓物を食んでは血の温かさに喜び震える女が蹲り、半裸の男が五寸釘と槌を手にして狂信者の関節へ釘を打つ。泣き叫び、許しを求める狂信者は薬物によって強制的に精神を狂気に冒されぬよう固定され、男が満足するまで終わらぬ苦痛に絶叫する。


 悲鳴、悲嘆、叫喚……。凄惨な責苦を受ける人間はカルト集団震え狂う神の狂信者だけではない。肉欲の坩堝からクレジットを借り、返済義務を怠った債務者達や突然拉致された一般的な下層民。全員が全員特殊配合された薬物を血管に注射され、感情と痛覚を常人の倍以上に増幅させられている。感じる恐怖は死の間近に見るものと同じであり、受ける痛みはアキレス健を切られた時と同等かそれ以上。命乞いをしようとも、泣き叫ぼうとも、彼等を待つ運命は死以外に在り得ない。ヒドロ・デ・ベンゼン二階に配置された瞬間から、悪魔の贄とされるのだ。


 悪魔など架空の存在で、聖書の一部や古代の本にだけ存在を許された妄想の産物。だが、この場には確かに悪魔は存在していた。人間の皮を被り、人間の苦痛を餌として増大する加虐願望の化身。必要の無い殺しに恍惚し、他者を甚振る罪悪に心身ともに穢された人間の精神は悪性リンパ腫の如く躊躇うサディストの背中を押す。


 圧し潰されそうな切迫感が精神を削り取る。逃げ出してしまえば楽になれると恐怖が囁き、此処を受け入れ同じように狂って壊れてしまえと狂気が嘯いた。鼓膜を叩く女の狂笑は背筋を這い上がる百足のような不快感をダナンへ与え、助けを求めながら死ぬ狂信者の悲痛な声はグローリアの心を強く握り締め、足を止めさせようとする。見てみぬフリをして、声を無視し続けようとも血に濡れた床から漂う血の臭いと死体が発する死臭が二人に現実を叩きつけていた。


 「た、助け……て」


 不意にグローリアの足首を目玉を抉り取られた狂信者が掴んだ。双眼から流れる血が頬を伝って床に滴り、赤黒い窪みの奥はポッカリと穴が空いていた。


 「君、大丈夫か―――」


 瞬間、ダナンが狂信者の頭を蹴り飛ばし、痛みに藻掻く腕を圧し折った。歪な笑みを浮かべ、狂気に染まった風でボロボロに欠けた歯を殴り折り、機械腕からブレードを展開すると躊躇ないなく首を断つ。


 「ダナ」


 「何も話すな」


 「だが」


 「周りを見ろ。それと、一応其処らへんに転がっているマチェットか何かしらの凶器を持て」


 グローリアの耳元で囁いたダナンの視線が自分達をジッと見つめる悪魔達を巡り。


 「見られている。連中は俺達を同族か否かを見極めている。誰でもいい、一人殺せ」


 「殺すだなんて、そんな」


 「死にたいのか? 自分の身は自分で守れよお坊ちゃま」


 冷酷に、それでいて冷徹に……。グローリアの肩に手を添えたダナンは地べたを這いずりながら進む女を指差し「アレが丁度良い。生きたければ殺せ」と冷たく言い放つ。


 「……」


 「殺せないなんて言わせない。生きたければ、死にたくないのなら、誰かを踏み台にする覚悟を持つしかない。お前と俺が居る場所は……何も失わずに、何かを得られる程甘くない」


 生唾を呑み、女に歩み寄ったグローリアは青紫色に腫れ上がった女の顔を見据え、血塗れの棍棒を拾い上げる。合金製の棍棒は今まで持ったどんなよりも重かった。


 「いやぁ……もう、嫌だぁ」


 心臓が張り裂ける程に高鳴り、息が切れる。手が震え、頭に血が上る。この手で人を殺したことも無ければ、命を奪うことに身体が追いつかないのもまた事実。場に満ちる狂気がグローリアの背を押し、ダナンの言葉がぐるぐると脳内を駆け巡っている間に青年は棍棒を振り上げ、大量の汗を額から滲ませる。


 殺すことは悪ではない。己は生きる為に命を奪うのだ。虐げられ、絶望に染まった心を救うには命を断つ他術は無い。幾ら思考を重ね、倫理的問題を理屈で捩じ伏せようと、直面する問題……現実は変わらない。故に……己は罪を侵すのではなく、苦痛からの解放という名目で女を殺す。これは救済なのだと、覚悟を決める。


 「―――」


 頭蓋骨を砕く感触と棍棒の先端が脳を抉る柔い感触。飛び散った血がグローリアの白い頬に付着し、純白のダブルスーツを返り血で染めた。何度も棍棒を振るい、女を滅多打ちにしたグローリアは誰かの笑い声を聞き、それが己の声であることに気付く。


 「もういい」


 「……」


 「行くぞ」


 「……ダナン」


 「何だ」


 「私は……あと何人殺せばいい」


 「これ以上必要無い」


 「……」


 「周りの連中は俺達にもう興味が無い。だから後は俺が殺す。お前はもう殺すな」


 「どうして」


 「殺し慣れていないんだろう? 見れば分かる。だから効率を考えれば、俺が殺して回った方がいい。それだけだ」


 そういう事じゃない……。グローリアの呟きは狂宴の雑音に掻き消され、醜悪なる欲望に噛み砕かれる。


 死は人間に訪れる平等なる絶対者。誰も死を免れることは出来ないし、神でさえも死を畏れ回避する術を探している。細く、狭苦しく、絶望という柵で閉じた世界を未来永劫存続させようと醜く足掻いているのだ。


 この世界には希望だけが存在しない。次の命よりも、今ある命を優先する歪んだ社会構造。子飼いにされる人間は神にとって微小なる数字の動きに他ならず、増えては減って、減っては増えるデジタル計器の針が示す数合わせ。

 「どうした? 進まないのか?」


 「……すまない、少し考え事をしていた。行こうか」


 「あぁ」


 次々と命を奪うダナンは下層街のルールに適応した人間で、中層民の己とは根本的に考え方が違う。自分の命を守る為には平気で他人を殺し、状況に応じては冷徹な意志を以て事を成す。その生き様と行動は尊敬に値するものではない。


 中層民は命を守り、死を忌避する人間だ。罪を侵せば罰を与え、悪意にはルールを以て立ち向かう。グローリアが生きる世界……中層街は下層街よりも整った環境で人は産まれ、死に至る。殺人を犯すなどもってのほか……もし中層街で人を殺せば、死よりも辛い罰が課せられるのだから。


 死は怖い……でも人間は一人で産まれ、一人で死ぬ。誰かに囲まれて生を終えようが、家族に看取られて死のうが、個人的主観で見れば死ぬのは己一人だけ。みんなを巻き込んで死ぬのではない。故に……中層街では震え狂う神の教えが横行している。


 絶望を賛美し、死は栄光なる一歩とする教え。みんなで死ねば、怖くないと。


 辺りに散らばる死体と血痕を一瞥し、口元を手で覆ったグローリアは一つ咳払いをしてダナンの後を追った。


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