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悪性腫瘍

 ヒドロ・デ・ベンゼン……アェシェマが歓楽区を蝕む癌細胞とするならば、ヒドロ・デ・ベンゼンと呼ばれる娯楽施設は悪性腫瘍を生み出す発がん性物質の役割を担っている。穢れ無き無垢を堕落させ、人の意志を泡飛沫が如く弾き飛ばす淫欲の楽園、大人の遊園地とは良く言ったもの、その実態は命を弄ぶ罪悪の檻に他ならない。


 アェシェマの宮殿に満ちる甘美な腐臭とはまた別の……鼻腔を掠めるだけで精神が溶け落ち、爛れて泡立つ甘い女の匂い。全身の感覚が研ぎ澄まされ、物体が皮膚を少し撫でただけで絶頂に至る許容量を超えた媚薬香。浄化剤を服用するか薬物分解ナノマシンを肉体に組み込んでおかなければヒドロ・デ・ベンゼンで正気を保つことは不可能で、ルミナの蟲をフル稼働させていたダナンでさえも施設から漂う淫気に目が眩む。


 「すごい匂いだねダナン、大丈夫かい?」


 「それはこっちのセリフだ。さっさと事を終わらせろ」


 込み上げてくる胃液を飲み下し、顔面を真っ青にしたダナンが大粒の汗を額に滲ませるグローリアを睨む。中層街の富裕層に位置する人間は毒素を自動的に分解除去するナノマシンを肉体に組み込んでいると聞くが、グローリアも例外ではないのだろう。ナノマシンが毒と名の付く物質を分解し、体外へ排出しているせいか生理的反応として絶えず汗が流れ続けている。


 立っているだけでも気が狂れそうだ。一歩進む度に果てしない欲望が身の内から溢れ出し、思考を奪うべく精神を削り取る。こんな場所で正気を保てるのは元から狂っている狂人か、既に壊れてしまった人間だけ。幾ら浄化剤を服用し、毒物分解ナノマシンを仕込んでいようとも耐えられない。周囲を全裸で踊り狂い、身体改造を施した複乳を弾ませる売春婦を視界に入れるだけで、淫欲に負けてしまう。


 「ダナン」


 「……」


 「気を張り巡らせるのも大事だが、緩めることも時には必要だ。見たくなければ見なければいい、聞きたくなければ聞かなければいい……。耳を塞いで瞼を閉じて、俯いて進むのも偶にはいいじゃないか」


 「……馬鹿を言うな」


 己が目を背けても、鼓膜を破っても、身体に絡みついてくる悍ましい感覚は消えやしない。機械腕の鋼に指を這わせ、黒鉄のアーマーに抱きつく売春婦が消える筈がない。これは紛れもない現実で、夢や幻などではないのだから。


 ダナンは乳房を四つぶら下げる売春婦を振り払い、蛇のように長い舌をチラつかせる女の頭を鷲掴みにする。そして、そのまま機械腕の駆動系を唸らせ握り潰すと生温かい鮮血を浴び、僅かに痙攣する死体を通りへ放り捨て。


 「そんなことをしても、痛みは骨の髄まで染み渡る。呪詛のように、ゆっくりと、命を蝕むんだろうよ。グローリア、お前のその言葉は逃げているだけに過ぎない。俺を甘く、偽善で整えた道へ引きずり込むとするな。そんなもの……ただの言い訳に過ぎない」


 グローリアと同じように大粒の汗を流すダナンは奥歯を噛み締め頬の付着した血を機械腕で拭う。汗と混じり、薄い赤の帆が彼の頬に描かれ、濃い鉄の匂いを香らせた。


 逃げ続けて、拒否し続けて、グローリアの言う通りに耳を塞いで瞼を固く閉じようと、背を向け続けていた過去は必ず現在に追いつき肩を叩く。その時に逃げ続けていた存在と対峙しても残るのは後悔と苦痛だけ。ならばと……ダナンは今立ち向かう他術は無いと断ずるだろう。痛みを背負い、後悔という棘で覆われた道を進むよりずっとマシだと言い放つ。


 「行くぞ、さっさと終わらせて帰らせて貰う」


 「君を待っている人が居るのかい? ダナン」


 「さぁ……どうだろう。待っているよりも、俺が個人的に成すべきことをしたいだけだ」


 「成すべきこと?」


 「……助けたい奴がいる。お前とは関係の無い、俺とも関係の無い他人だ」


 「それは」


 君が持っている情報端末と何か関係があるのかい? グローリアの視線がダナンの脇にある情報端末に向けられる。


 「お前とは関係の無いことだ」


 「そうだね」


 「行くぞ」


 情報端末……ハカラのことをグローリアに言う必要は無い。これはイブを救う為に必要なモノ。ダナンは死に無関心な売春婦の間を抜け、入場ゲートまで進む。


 「お客様」


 「……」


 「当店は下層民のご入場には制限を設けております。機械腕の貴男は下層民とお見受けしますが、横に立つ御人は」


 「通して貰えるかい? バーに用事があると云えば分かるかな? あぁそれと彼は私の友人だ。まさかと思うがヒドロ・デ・ベンゼンが私の友人を通さないなんて……言うはずが無いだろうね。杞憂だったよ」


 入場ゲートを塞ぐバイザー型機械眼を持つ黒服はグローリアを値踏みするように見つめ、彼が差し出したカードをスキャンした途端顔を青褪め背筋を正す。


 「お通り下さい」


 「感謝する。さぁダナン、行こうか」


 「……」


 「ダナン?」


 全身の毛を逆立たせた猛獣を思わせる警戒心。得体の知れない存在を射抜くドス黒い瞳を見つめたグローリアはカードを指先に摘み「金持ちの特権さ」と笑顔を浮かべ、電子が奔る黄金扉の先へ歩を進める。


 金持ちというだけでヒドロ・デ・ベンゼンの黒服が顔色を変える筈が無い。下層民が来た場合、彼等は厳しいチェックと理不尽に近い審査を行い金の有り無しを見極める。金がある場合は相場の五倍以上の金額を提示し、無い場合は言葉巧みに誘導して歓楽区の商品にするべく罠に嵌めるのだ。中層民相手には幾らか彼等の審査とチェックが緩くなるが、取る行動は一つ。食えるか、食えないかの吟味だけ。


 だが、グローリアのカードを見た黒服は明らかに動揺していた。触れてはいけない、言葉を掛けてはならない、邪魔をしては殺されると云わんばかりの狼狽さ……。その感情は一重に畏怖と呼べるものであり、それ以外には何一つとして表現できない純粋なる恐怖。俯き、ガタガタと震える黒服を一瞥したダナンはグローリアから視線を外さず扉を潜る。


 「ビックリしたかい?」


 「……」


 「そんなに警戒しなくても大丈夫さ、君は私の友人なんだからね」


 「……今この瞬間だけな」


 「そう冷たいことを言わなくても……。私はこれからも友人として付き合って欲しいと思ってるんだけどね」


 「ふざけたことを言うな」


 軽く笑うグローリアを尻目に、機械腕の通信機能を起動したダナンはリルスとの通信を繋ぐが相変わらず耳障りなノイズが木霊した。


 「どうかしたのかい?」


 「……何も」


 「何か困ったことがあったら」


 「必要無い」


 短い言葉と素っ気ない態度。気を許すつもりもなく、一時も警戒を絶やさないダナンの様子を見たグローリアは暫し立ち止まり、僅かに溜息を吐く。


 「ダナン」


 「何だ」


 「一応私達は友人という関係性で此処に居るんだ。怪しまれたら困るのは君の方だと思うんだけね」


 「脅しのつもりか?」


 「脅しもなにも事実を言っている迄さ。まぁ、君が困っていても私には関係の無いことだが」


 「見捨てればいい。自分の身は自分で守れよ、お坊ちゃん」


 「見捨てるつもりは一欠片も存在しないよ、私の中にはね。言っただろう? 私は君とこれから先も友人として過ごしたいんだ。だから助ける。これは脅しでも何でもなく、ただの助言……私と君が効率良く事を進める為の提案さ」


 「……どうだか」


 聞こえの良い言葉を吐く人間は信用できない。こういった手合は必ずと云っていい程肝心な場面で裏切り、最悪な結果を招くのだから。煙草を口に咥え、紫煙を吐き出したダナンは突き出された二本の指を見つめ、仕方無しに残った最後の一本をグローリアへ渡す。


 「ありがとう、後で返すよ」


 「どうでもいい」


 「どうでもいい事なんか一つも無いよダナン。友人同士であっても、貸し借りは無い方が健全的だからね」


 笑顔を浮かべ、ライターも借りたグローリアは薄い紫煙を燻らせ、ヒドロ・デ・ベンゼン内部へ続く扉を開け放つのだった。


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