歓楽区の路地裏は死臭と汚臭に満ちていた。箱形ゴミ箱の隣で眠るように死ぬ浮浪者や薬物の禁断症状に苦しみ喘ぐ痩せ細った女、在りもしない麻薬を探す麻薬中毒者達……。紫色の液体が付着した硝子片を踏み砕き、肌を必死に掻き毟る女を一瞥したダナンは湿気ったアスファルトに転がる注射針を蹴り飛ばす。
華やかで煌びやかなネオンに包まれる歓楽区は欲望渦巻く地獄の一丁目。其処から少しだけ外れた路地裏には区の最底辺に生きる者達が自分だけの世界に閉じ籠り死んで逝く。飢えに藻掻き、麻薬の離脱症状が齎す狂気に沈む落伍者は通りで身体を売る売春婦よりも格安で、後先考えずに危険な行為に耽るのだ。眼孔を性器の代わりにしては血を流し、麻薬とは呼べない合成薬物を売人から購入する。デソモルヒネ……簡単な材料から製造できる鎮痛剤の一種を静脈に注射し、路地裏の売春婦達は一時の安寧を得る。
微かに漂う吐き気を催す腐臭……頭を振り子のように揺らし、蹲って独り言を呟く女の腕は肉が溶け落ち腐っていた。白い骨に滑る血液、蛆が集る表皮、薄汚い体液が滲んだくすんだ金髪。ブーツの靴底が使用済みの注射器を砕き、金属が跳ねる音が木霊した瞬間女は全身を震わせ、甲高い声で叫ぶ。
他人……顔も名前も知らない人間がどうなろうと知った事では無い。思い出したかのように全身を掻き毟り、己の肉をも削り落とす女を撃ち殺したダナンは身に突き刺さる数多の視線に気付く。
浮浪者や売春婦全員がダナンを見つめていた。ずるりと割れた瓶を片手に立ち上がり、眼を爛々と輝かせた落伍者は荒い息を吐き、意味不明な事を口走る。
終末の時は近い。救世主は堕落した世を憂い、神の炎が市を焼く。まるで一つの意志に導かれるように、唯一の私物と呼べる銀メッキの彫像を握り締めた落伍者達がダナンを取り囲み、狂った戯言を吐く。
「……狂人共が」
アサルトライフルの銃口を前方の浮浪者へ向け、躊躇無く引き金を引いたダナンは的確に眉間を撃ち抜くと一気に走り出す。背後でアルミ製のゴミ箱が倒れる音が響き、次々と人が倒れる音も聞こえたが振り返る必要は無い。硝子の瓶程度ではアーマーを貫くことは出来ないし、肉身を抉られない限り脅威に成り得ないと判断したからだ。
襲い来る浮浪者の顎を機械腕で殴り潰し、立ち塞がった売春婦を塔振動ブレードで胴体から両断する。黒ずんだ鮮血が飛び散り、ダナンの頬に張り付いた。しかし、そんな事に構っていられない。此処を切り抜ければ歓楽区の出口は眼と鼻の先。足首を掴む上半身だけの売春婦を蹴り殺したダナンは強い刺激臭を感じ、その場で静止する。
濃い塩素系漂白剤の臭いと喉奥を突く柔軟剤の香り。耳障りなチェーンソーの駆動音を響かせ、背中に巨大な融解タンクを背負う真っ白い防護服を着た人間が「掃除の時間です」と合成音声を口にして、火炎放射器の銃口をダナンへ向ける。
掃除屋……!! 咄嗟に路地の脇道に飛び込んだダナンの背を紅蓮の業火が焼き焦がし、逃げ遅れた浮浪者と売春婦を一瞬で消し炭に変えた。宙に待った煤をチェーンソー付属の掃除機で吸い込み、文字通り塵一つ残さずこの世から消し去った掃除屋は脇道に横たわるダナンを見据えると「時間です。御用の無い方、外出の必要が無い方はご自宅へお戻り下さい」酸素チューブが繋がれている液晶マスクに怒ったような電子マークを浮かべる。
掃除屋と話すのは無駄の一言に尽きるだろう。彼等は人の話を聞かず、己の職務を確実に遂行する軍人の一端なのだ。防護服は対物ライフルの弾丸を通さず、おまけに毒物や薬物を感知して即座に浄化する散布型ナノマシン付きの特別製。中層街の治安維持兵以上の装備に身を包む下層民は存在せず、ダナンも例外ではなかった。
「今から帰るつもりだ。お前等と敵対する意志は無い」
「分かりました。では一刻も早く消え失せることを推奨します」
「あぁ……」
立ち上がり、よろめきながら通りへ視線を向けたダナンは舌打ちする。
鋼の音を響かせ女を侍らせる完全機械体、豪快に笑って電磁クローを軋ませるダモクレスが通りを歩いていた。肉体全てを機械に改造した人間が何故歓楽区で遊んでいるのか問う暇は無い。それよりも……冷や汗を流したダナンは掃除屋へ眼をやり刀剣へレスの柄を握る。
「ご自宅へお戻りください。三、ニ、一」
「―――ッ!!」
ダモクレスは殺さなければならない。だが、何の準備も無しに身を曝け出すのは無策以外の何物でもない。掃除屋へ牙を剥く行為もまた愚行。しかし……ダモクレスと真正面から戦うリスクを考慮し、掃除屋と敵対するリスクも取ることが出来ないのならば、逃げる他術は無い。
目の前の掃除屋が持つ火炎放射器の銃身をへレスで断ち切り、渾身の力で押し退けたダナンは白い煙を噴き上げながら頭上を飛ぶもう一人の掃除屋を一瞥する。背負った融解タンクの底には高圧縮空気噴射器が取り付けられており、短い時間ならば空中を飛ぶことも可能。コンクリート壁を焼き、アスファルトをも溶かす火焔が銃口から放射され、紙一重で躱したのにも関わらずダナンのアーマーの一部を焼き溶かす。
耐え難い熱と溶解した鋼鉄が肌に張り付く痛み。皮膚が焦げ、肉が焼ける不快な臭いよりも脳が発した反応は気が狂う程の激痛だった。叫び、火柱が立つアーマーを手で払ったところで赤熱した鋼は手を焼き、爪を割り、神経を切りながら骨に達し無痛を呼ぶ。混濁する思考の中、脇に抱えた情報端末だけは必死に守り抜こうとするダナンは無数に分岐する路地の横道へ逃げ込み黒煙に咽る。
「Ω‐1掃除道具の破損を確認。支給ゲートへ向かい、交換して下さい」
「了解。後の掃除は任せましたΩ‐2」
「Ω‐1冗談は仕事の後に仰って下さい。サイレンティウム上層部へ報告しますよ?」
「Ω‐1、Ω‐2、Ω‐3個人対象の掃除は我々の任務ではありません。先ずは路地裏の清掃を優先して下さい。未だ商業区、居住区の清掃が終わっていませんので」
「新人は随分と真面目ですね、爪の垢でも煎じて飲んだらどうですか? Ω‐1」
「不衛生極まりないのでお断りさせて頂きます。では、我々の任務を優先する事にしましょうか、Ω‐2、Ω‐3」
ダナンという下層民は掃除屋にとって社会の一芥に過ぎず、興味や不快感を抱くに値しない存在。Ω‐1と呼ばれた掃除屋は肩を竦めて頭を振るい、破壊された火炎放射器を焼くよう他二人に指示した。
「運が良かったですね下層民」
「……」
「貴男個人を掃除するように私達は指示されていません。正規ルートに則り、路地の浄化と死体掃除を行います。では、さようなら」
「Ω‐1」
「何ですか? Ω‐3」
「支給掃除道具を受け取りに行って下さい」
「Ω‐3、良い事を教えてあげましょう。先輩からの言葉です、よく聞きなさい。程々にやって、程々にサボる。それはそれ、これはこれ。いいですか?」
「Ω‐1、新人に碌でもない事を教えないで頂けますか? それは貴方の悪癖です」
「それもそうですね、Ω‐2」
くぐもった合成音声を発したΩ‐1はダナンから視線を逸らし、二人の背を叩くと先へ行くよう促す。呆れたように溜息を吐いたΩ‐2と無言で歩き出すΩ‐3、三者の間には明確な上下関係があるようで、三人一組のチームを纏めるのがΩ‐1と呼ばれている掃除屋なのだろう。
ルミナの蟲による修復を待ち、掃除屋達が立ち去ったことを確認したダナンはやっとの思いで立ち上がり、情報端末を抱えながら路地の横道を進む。
もう路地裏を進むことは不可能だ。掃除屋の掃除に巻き込まれたら幾らルミナの蟲の回復力を以てしても立ち上がれない。しかし、通りを行くにしてもダモクレスが闊歩する場所を進むのは無謀。勇気とは言えない蛮勇は身を滅ぼす。
コンクリート壁に背を預け、地べたに座り込んだダナンは疲労に微睡み重い瞼を閉じようとする。此処で眠ってしまえば死以外存在しないというのに。
「君」
「……」
「やぁ君、少しいいかい?」
「……何だ」
「いや、少し道に迷ってしまってね。道案内を頼みたいんだが、いいかい?」
闇に浮かぶ綺羅星のような、尾を引いて落ちる流星を思わせる美しい金髪。中性的な顔立ちをした美青年がダナンへ手を差し伸べ、笑いかけると。
「私の名はグローリア。手を貸してくれないか?」
凛とした声色で、そう云った。