目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
98−85−1

 ナイロン製の緑の葉が頬を掠め、プラスティックの枝がアーマーの装甲に触れると勢いよく跳ね返る。自然界の物質とは到底言い難い歪な茂み、地面を覆う黄緑色の鮮やかな人工芝。ジャリジャリとした音を立て、身を這い蹲らせて茂みを進んだダナンは下水道へ続くマンホールを開ける。


 こうして一日に何度も地下へ潜ると昔を思い出す。死体から内臓を抜き、機械義肢や機械体の人間から部品を外して売り捌いていた時代……。遺跡発掘者として生計を成り立たせている己と、汚らしい盗人として生きていた過去の己。双方とも自分自身に違いないが、もし一つだけ相違点をあげろとしたら名前があるか無いかの違いだろう。


 老人から貰った名前……ダナン。それは自分だけの名前であり、命の次に大切なものである。名など個人を特定するための言語的シリアルコードであり、母体から生産される不特定多数の人間を区別する商品札。名前を貰わず、ただの個人であろうとも人間は生きていける。家畜や栽培品に名前を付ける必要が無いように、人は死なない限り生き続ける。青年がダナンと名乗り、その名で己を呼ぶのは老人という恩人がくれたモノだから。既にこの世を去った老人を偲ぶ為の……一種の儀式めいた供養方法と云っても過言ではない。


 故にダナンは己の名を呼んだ後、それ以上でもそれ以下でもないと言う。ダナンという名前が持つ意味は個人的な記号であり、特定するシリアルコード。個人情報保護の概念が希薄化し、誰もが他人を利己的な欲求を満たす道具として見る下層街。弱肉強食の理に本能が従い、理性が司る部分と云えば損得勘定の計算か、状況に依っての一時的な偽善。自己保護の為に他者を殺し、自己利益を追求する為に他者を貶め貪り喰らう……。名前が持つ意味など、下層街では個人を言い表す記号に過ぎないのだ。


 だからだろうか……下層街で自分の名を他人に名乗る人間が極端に少ないのは、皆が皆名前を持っていると限らないからで、もし名前を教えてもそれが後々の死に直結する可能性を孕んでいると無自覚に理解している。実際ダナンも己の手で殺した人間の名前など知らない場合が多く、名前を知っていて殺した人間の数は圧倒的に少ない。人間を男か女で区別して、それから相手の装備を見て職業を分析し、殺せるか否かを判断する。利益になるか、損益を生み出すかを己の中の天秤で推し量る。それは鬼畜外道の所業、人間未満の悪鬼の心。殺さなければ、袋小路へ追い込まねば、死ぬのは此方。生きるために、他人を喰らう。無慙無愧を抱かねば生き抜けないと知っている。


 下水道を進み、歓楽区の通りへ抜ける通路に踏み込んだダナンは壁に寄り掛かって息絶えた白骨死体を視界に入れる。抜け落ちた赤い髪が地面に散らばり、虫や鼠に齧られた穴だらけの衣服。急ぎ歓楽区から脱出し、イブの下へ向かうべきだと頭では理解している。だが、ダナンは死体に近づくと深い溜め息を吐く。


 「……お前は、どう思っていたんだ」


 ポケットに押し込んでいたロケットを開き、写真に映る家族写真と死体を見比べる。


 「結局、俺はお前の事を忘れていた。こうしてロケットの中身を見るまで、何も思い出せちゃいなかった……」


 銃器屋の娘……。名前も知らない過去の残照。少年時代、遺跡発掘から帰って来る度にダナンは娘が居る銃器屋で弾薬を補充していた。明るい笑顔と眩しい赤髪が印象的な、不用心さが隠しきれていない少女。


 一言二言会話を交わし、仕事が休みの日には店の前で合成飲料水を飲んで時間を潰す。当時のダナンにしては珍しく……極めて希少な気を許していた相手であったのは確かだった。鋼鉄板に覆われた空を眺め、電子の海に濡れる路を見つめる。淡く、儚く、脆く、今にも崩れ落ちそうな平穏の一コマ。仏頂面で飲料水を飲み下すダナンとは対象的に、娘はよく笑い、よく話す少女だったことを青年は思い出す。


 どうして笑えるんだと、どうしてそんなに話すことがあるんだと、ダナンは聞いた。少女はよく分からないと話し、でも笑っていれば必ず良い事があると言った。その良い事の結果が一課諸共借金のカタに売られ、最低最悪の歓楽区で命を終えることに繋がったのか? こんな下水道で命尽きて、一人孤独で死ぬことが少女にとっての良い事だったのか? ……ふざけるな。


 下層街で人が死ぬのは珍しいことでも何でもない。左を向けば銃で頭を撃ち抜かれた死体が転がっていて、右を向けば誰かが嬲られ弄ばれている。肥大した悪は癌細胞のように正常な細胞を侵し、膨れ上がった罪は無辜を穢して悪逆に染める。そんなものは稚児でも知り得る下層街のルールであり、唯一定められた法。ダナンもその法に従って生きていたし、疑問の一つも抱いた事が無い。だが、彼の胸に燻る憤怒が過去の記憶を薪にして再燃し、湧き出す憎悪が半ば八つ当たりと化していた復讐心を駆り立たせる。


 あの娘は……良い奴だった。絶望と死の臭いが充満した下層街であっても、笑顔を絶やさず面白みの無いダナンの身の安全を、遺跡からの帰還を喜んでくれていた。それが例え商売の為の行動であっても、ダナンの心一つが救われていたことに違いはない。下層街という一つの世界しか知らず、塔上層の世界を知らないダナンであろうとも、彼女の死は間違っていると思わざるを得ない。


 内で暴れ狂う獣性が吼え叫ぶ。肉欲の坩堝を殺戮せしめろと血に濡れた牙を剥き、彼女を殺した歓楽区を破壊せよと死を欲する。アェシェマを殺す方法を探り、彼女の敵を執る。この復讐は自分勝手な我儘で、死者が喜ぶとは思えない。殺し続けた先にある、未来からの弾丸に身を貫かれる日まで彼は気付かないのだろう。復讐は復讐を呼び、死を振り撒いていた人間はそれ同等の命を繋ぐまで許されないことを。決して安寧は訪れないことを。


 「……アェシェマを殺す。ダモクレスも殺す。アイツらが奪うのなら、俺もまた奪う。それが下層街なんだよ……。お前は優しすぎたんだ、お前一人が生きられるのなら、家族を見捨てられる冷たさを持っていたら、生き残れた筈だ。そう思わないか? なぁ……」


 友人……そう呼べるかも怪しい関係性。白骨死体の乾いた頭を撫で、殺意と激情を滾らせたダナンは下水道を進む。ブーツの靴音が暗い通路に木霊し、青年の孤独を強調していた。機械腕の鋼の軋み、アーマーが奏でる鋼の音色……。ゴーグルに映る縮小地図を頼りに歓楽区へ続くマンホールを見上げたダナンは情報端末を抱えたまま器用に鉄梯子を上り、頭を使って蓋を開き外の状況を確認する。


 相変わらずというべきか、欲望によって歪んだ狂気が織り成せる御業というべきか……。ダモクレスによって破壊され尽くした歓楽区は驚異的な速さで半分以上の復興を遂げていた。通りには何時も通り娼婦が立っており、煌めくネオンの下で裸同然で踊り狂う。中層街では禁制品である非合法薬物を求め、下層街に降りて来た中層民が薬をキメて齢一桁の幼子を買い漁る。堕落と欲望の区は破壊と死をものともせず、今日も今日とて人を商品として扱っていた。


 「……」


 スルリ―――と、マンホールから身を滑り出したダナンは己を見ていた浮浪者を視界に収め、アサルトライフルの銃口を向ける。浮浪者はニタニタとした焦点の合わない眼で懐から麻薬アンプルを取り出し、使い古した不衛生極まりない注射器のシリンジに液を満たす。


 弾丸を一発眉間へ打ち込み、浮浪者の殺したダナンは下水の悪臭に塗れたまま路地裏へ歩き出した。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?