綺羅びやかな黄金の廊を往き、真紅の絨毯を踏みしめたダナンは壁に背を預け深呼吸を繰り返す。心臓が張り裂けるほど脈打ち、その振動に合わせて頭が割れるように痛む。まるで金槌を脳味噌に直接金槌を打たれているような激痛。視界が眩み、胃液を吐き出したダナンは纏わりつくアェシェマの甘い腐臭を振り払い、情報端末を脇に抱え直すと階段を下る。
目的のブツは手に入れた。後はコレを自室へ持ち帰り、死者の羅列の依頼報酬であるデッキに接続するだけ。重い足取りのまま宮殿の階下へ進んだダナンはシンと静まり返った廊に違和感を覚え、生身の左腕にアサルトライフルを構える。
飛行ユニットが発する羽根の駆動音の一切がしなかった。あれだけ空中を飛び回っていた蜻蛉の騒音が、唸る機銃の軋み一つ無い異常な静寂。銃を構え、脇に挟んだまま曲がり角へ花瓶を投げつける。しかし、廊に木霊したのは陶器が盛大に割れる音と濁った水が発する異臭。プラスティック製の花が茶けた雫を弾き、影に隠されていた枯れて萎びた生花に覆い被さった。
「……」
蜻蛉の機銃が、複眼レンズが己を睨んでいるかもしれない。ノコノコと踏み出してきた瞬間に弾丸が己を撃ち抜き、ルミナの蟲の再生修復速度を上回る勢いで死を齎すかもしれない……。生唾を飲み込み、壁に立て掛けられていた鏡を殴り砕いたダナンは比較的大きな破片を拾い上げ、通路の奥を映す。
敵の姿が見当たらない。あれだけ命を狙ってきた蜻蛉が存在しない。敵対者或いは侵入者を殺すまで追い続ける飛行ユニットの脅威が無いことを確認したダナンは喉に詰まる息を吐き、リルスへ通信を繋ぐ。
「リルス」
「ダナ―――の? う―――く―――!!」
ノイズが奔ってまともに声が聞こえない。リルスは通信越しで何やら叫んでいるようだったが、ダナンにはその内容が理解できなかった。途切れ途切れで綴られる言葉の切れ端を繋ぎ合わせ、正確に把握するには時間が掛かる。仕方無しに通信を切り、宮殿の通路を歩き出した青年は今にも消えそうな細い声を耳にした。
「……」
声は通路の奥……中庭へ出る一歩手前の扉から聞こえた。否、正確には聞こえたような気がしたと云った方が正しいだろう。隙間風から漏れる空気の音、耳鳴りに似た聴覚の異常、極度の緊張と疲労からくる幻聴か……。どちらにせよ、今はハカラを持って歓楽区から脱出する方が先だ。音を無視し、扉の前を通ったダナンの足音に合わせ、小さなノック音が木霊する。
「……て」
「……」
「誰か……助け、て」
吹けば消える蝋燭の炎のような、燃え尽き灰となった紙くずを思わせる弱々しい呻き声。一瞬だけ立ち止まり、扉を見つめたダナンは銃を構えたまま沈黙する。
助ける必要は無い。己と関係の無い人間を助け出したところで何かしらのメリットがある筈がない。声の主が宮殿に居て、こんな人目につかない場所に閉じ込められている。それが意味するのは此奴は肉欲の坩堝の所有物であり、商品として軟禁されている人間なのだ。助け出したところで声の主は身体に埋め込まれた管理用マイクロチップによって居場所を突き止められ、また此処に連れ戻される。助けても……意味が無い。
「誰か……居るの? お願い……此処から、出して」
「……」
「身体が痒いの……。誰か……」
ドアノブを握り、引いてみる。ガチン―――と錠の音が響いた。「少し離れていろ」ダナンはそう呟き、鍵を銃で撃ち抜くと壊れたドアノブを機械腕で引き抜いた。
咽返る程の死の臭い。目に染みるアンモニア臭と死臭、腐った血の臭い。鼻と口を手で覆い、涙でぼやけた視界に映った光景は地獄そのもの……いや、まだ地獄の方が生温い。
鎖で繋がれた首輪を掻き毟り、頸動脈を己が爪で掻き切った女の死体。腐肉に湧いた蛆が死した胎児に群がり、赤黒く変色した臍の緒には黒い蝿が集っていた。部屋の中央には解体用の手術台が鎮座しており、その上に横たわる男は腹を掻っ捌かれたまま絶命し、血塗れの手術衣を着た闇医者が「おいおい、まだ交代の時間じゃねぇだろ?」と溜息を吐く。
「……誰だお前、見ない顔だな。新入りか?」
「……」
「復興班じゃねぇなら保存容器を持って来てくれや。一応選別は終わってるからよ。たく……俺一人でコイツラを始末しろってのは中々骨が折れるな。そう思わねぇか? 新入り」
みっちりと詰まった臓器タンクを叩き、煙草を口に加えた闇医者は耳元で飛び回る蝿を片手で散らし、屍血に濡れた精密作業用機械義肢の先に火を点す。
何度も助けを呼んでいた声の主は痩せこけた女だった。白目には黄丹が表れ、白い皮膚も少しばかり黄ばんでいる。他にも青あざや顔面骨の陥没、頭蓋の損傷があるせいか酷く歪んでいるように見える。
「あぁ兄ちゃん、その女には気をつけな」
「……何故だ?」
「何故って……HIV。後天性免疫不全症候群、所謂エイズに罹ってんだよ。まぁソイツは末期症状みたいなもんだ。脳癌と肝臓癌、子宮筋腫、乳癌、白血病……。病のデパートみたいな女だな。だから」
一発の銃声が部屋に木霊し、眉間を撃ち抜かれた女は力なく倒れ、絶命した。アサルトライフルの銃口を女から闇医者へ向けたダナンは「死ね」と冷たい声で言い放つ。
「おいおい何だぁ? お前、肉欲の坩堝の構成員じゃねぇのか?」
「あんな連中と一緒にするな」
「なら何だ? 俺みたいに雇われたのか? ハッ……雇われ同士殺し合いは止めとこうや。アレだ、黙っておいてやるよ」
「……」
「無口だねぇ兄ちゃん。おい名前言ってみろよ、俺の名前はチクアンってんだ」
「……」
敵対する気は無い。だが、味方になる気もさらさら無い。チクアンと名乗った闇医者は煙草の紫煙を吐き出し、赤い光を奔らせるワンラインの両眼統一型機械眼でダナンを見据えた。
「……ダナン」
「……何だって?」
「ダナンだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……何だぁ? 俺の前に亡霊でも現れたのか? ダナン……ダナン、ダナン。おい兄ちゃん、お前は本当にダナンなのか? もう」
死んだと聞いていたんだがなぁ……。チクアンの機械眼が妖しく光り、インプラントの真っ白いセラミック製の歯が剥き出しにされる。
「……お前、何を言っている」
「それを聞きたいのは俺の方だぜ兄ちゃん。巫山戯るのも大概にしろよ? 俺ぁお前を探すのに大枚を叩いたんだぜ? 死んだと信じられなくて、答えを聞かして貰っちゃいないんだ。おいサーシャはどうした? テネブラエは? お前が迷惑を掛けた人間に会ったのか? 若返って、知らぬフリをしてんのか? 俺がちょいとばかし中層街へ戻ってる間に何をしていたんだ? 言えよ、ダナン」
この男は何を言っている。捲し立てるように質問し、煙草の火種を死体の血で消した男はダナンに近づき、警告も無しに発射された弾丸を軽々と躱す。
「いや違うな。可能性がまだ残されているな……。そうだ、この可能性が一番高い。アイツは確かに死んだ。あの馬鹿は……理想を掲げた大馬鹿野郎は、屑で愚鈍な阿呆は死んで当然。ならそうか……お前は後継か? えぇ? どうなんだ兄ちゃん」
「……言っている意味がまるで分からない。何だ? 俺はお前に会ったことすら無いのに、サーシャは婆さんの……商業区の商店で働いている子供の名前だ。それにテネブラエなんていう名前も聞いた事が無い。気でも狂ってるのか? それとも麻薬で頭がヤラれているのか?」
「……」
ジッと……ダナンのドス黒い瞳を覗き込んだチクアンは期待外れだと言わんばかりに溜息を吐き、肩を竦めると「行きな、その様子じゃお前は俺の知ってるダナンじゃない。だが、借りは返す。俺の腕が必要になったらテネ……ライアーズの店に来い」と話し、電子名刺を投げて寄越す。
「お前は」
「早く行け。死体は俺が何かと理由を付けて処分しておいてやる。だから、もしダナンから伝言を貰ったら……遺言か何かあったら教えてくれよな。頼んだぜ、兄ちゃん」
鼠でも追い払うかの如く手を振るい。
「あぁそれと」
「……」
「歓楽区に長く居ることぁあんまりオススメしないぜ兄ちゃん。此処はな、発がん性物質に塗れた区なんだからよ」
「発がん性物質?」
「細胞が癌細胞に成るように、区に長く住めば、入り浸れば肉欲の坩堝っていう組織……癌細胞に心身ともに冒される。華やかな花を絞り、香油にする物質……異常性と狂気がのさばってやがるんだ。兄ちゃんも分かるだろう? 甘い腐臭が漂ってるのをよ」
「……」
「だから早く行け。まともな内に離れなよ、兄ちゃん」
そう言ってダナンの肩を押して部屋から押し出したチクアンは「お前がどおう生きるか見ものだな、えぇ?」と話し、皺だらけの頬に笑顔を浮かべた。
「……言われなくとも」
こんな街に最早用は無い。閉められた扉を一瞥したダナンは銃を構えたまま宮殿の中庭へ歩を進めた。