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アェシェマ

 人間という生物は、飽くなき欲望と底無しの淫欲を貪り喰らう獣。美しい存在を眼に映せば穢さねばならぬと牙を剥き、他者を利用価値がある存在と認識したら舌なめずりして涎を垂らす。人間は我欲を満たす為に時間を浪費し、命を磨り潰しながら生きている。欲望の大海に人心の小舟を流し、全てを飲み込み粉砕する個我に狂う。


 胴体を両断され、血を吐き出したアェシェマは笑う。狂ったように、聞く者全ての精神を逆撫でする奇怪極まる狂笑が部屋に響き渡り、鮮血を噴き出し、臓物を垂れ流す己が下半身を抱き締める。


 白磁のような艶めかしい肌が紅に染まり、無垢を象徴する白いシーツが血に濡れる。その姿は見るに堪えないグロテスク。痛みよる叫びは存在し得ず、苦痛による悲嘆もまた存在しない。己が顔面を踏み躙るブーツの固さも、灼け付く熱を持つ傷口も、全ては彼女の快楽欲求を満たす促進剤に過ぎず、それはまるで料理に振りかけられる香辛料のような、主菜を彩る前菜のよう。


 本気の殺意を向けられ、誰もが屈した誘惑を振り払った青年に興味が湧いてしまう。アェシェマの強烈無比な淫欲を拒絶出来た人間はダモクレスだけだった。だが、今此処に新たにもう一人加わった。黒いアーマーに身を包み、褐色の肌と灰色の髪を持つ青年……ダナン。彼の殺意に触れ、身を割かれたアェシェマはダモクレスと似た死の雰囲気に喜びを隠せない。否、禁じ得ないのだ。肉を焼き、溢れる鮮血に交じり合う情熱が黄金の瞳に欲を宿らせ、もっと、もっと、と荒い息を吐く。


 アェシェマという女の本質はマゾヒストに違いない。痛みを快楽と認識し、苦しみは性欲を満たす為の手段なのだ。苦痛を是として、喜びや楽しみと云った感情も欲望を成す為の手段。アェシェマの最終的な目標は個人が己自身の欲望を満たし、みんなの欲を解放すること。それは彼女が首領として属する肉欲の坩堝の組織としての願いであり、祈り。アェシェマが何もしなくても構成員が勝手に彼女の意志を噛み砕き、組織が歩むべく道を整え奉仕する。妄信的な信奉は狂信へ変わり、アェシェマを頂点とした欲望の名を冠する生物は間違いを認めないまま、罪に燃え、悪に狂う。


 構成員はアェシェマの為に尽くし、彼女が求める欲望こそが正しいと信じ切っている。その為に他者を踏み台にしたり、麻薬漬けにして売春宿へ放り込む事も構わない。自分達も痛みや苦しみでアェシェマが喜ぶならば四肢を切り捧げ、産まれたばかりの赤子を臓器タンクへぶち込む凶行も平然とやってのけるだろう。債務者や無関係の一般人を拉致し、子を増やす機械にして臓器売買の材料にする犯罪行為も悪と思わず、犯した罪からやってくる罰の報復を理解し得ずに死に絶える。肉欲の坩堝構成員、そして組織が支配する歓楽区に生きる者達は狂人……壊れた人間なのだ。壊れている故に、罪悪の炎に燃えて羽虫が如く落ちて死ぬ。死んでは増えて、増えては殺され、また命尽きる。一個完結した異常な世界はアェシェマの為に在る。


 だが……アェシェマの為に構成員がどれだけ尽くそうとしても、彼女には何故彼等が付き従うのか理解できない。その感情と思考は自己肯定感の低さからくるのでは決してない。本当に理解できないのだ。行動からくる心が読めないし、奉仕する意図も知り得ない。アェシェマにとって組織構成員や歓楽区の住人は己に縋る可哀そうな人達で、苦痛の中で喘ぎながら生きているから己と同じように痛みが欲しいのだと自分勝手に解釈する。


 縋りつき、涙を流すのなら麻薬を詰めた弾丸で相手の腹を撃ち抜き、痛みと快楽に壊れる姿を視界に映す。自分の欲望に素直になれず、性欲に抵抗があるのなら股を開いて受け入れる。罪を告白し、罰を求められてもその身に宿る欲望があるのなら、全てを受け入れ許してあげる。みんなが求めるのなら、アェシェマはサディストにでもマゾヒストにでもなるし、己の欲望がみんなが求める欲望になるのなら、罪悪を推奨し性欲を信奉させる。


 狂った聖母の鏡像、堕ちた怠惰な母、狂人の母体……。彼女を畏れ、貶す言葉が数あれど淫欲の女帝に勝る名は無い。狂っていると、壊れていると自己を認識しても、その間違いを矯正しないどころか肯定するアェシェマは狂人達を統べる女帝。常人であればたちまち彼女の言葉と魅力に個我を取り込まれ、盲目の羊に成り下がろう。アェシェマの名を声高々に叫び、彼女こそが至高と吼え狂って罪に穢れてしまう。なればアェシェマは最も人間らしく、獣に近い存在だと云える。


 しかし、彼女を人間というには無理がある。人は赤子であろうとも欲を持ち、自分が何を求めているのかぼんやりとでも理解している。腹が減れば泣き、不快さを感じても喚くもの。それは成人しても同じことで、絶えず我慢していてもいずれは決壊し、欲望を伴った濁流は凶行を生む。何故アェシェマを人間と云うには無理があるか……それは、彼女は自分が何を求め、何がしたいのかハッキリと分かっていないから。曖昧で空虚、空っぽの虚像、伽藍洞の体現者。彼女が誰かを求めても、それが真実であるかとは限らない。非人間的な……矛盾の塊でありながら狂気に染まる虚無。アェシェマという女は壊れ、狂っている。


 クスクスと笑い、痛みに嬌声をあげるアェシェマを蹴り飛ばしたダナンは表現し難い恐怖が背に這うのを感じ、刀剣へレスで彼女の胸を突き刺し抉る。血飛沫が舞い、傷から鮮血が溢れるもそれは直ぐに劣化ルミナが塞ぎ、硝子を思わせる半透明な刃を黒い線虫が這い侵食する。


 これ以上付き合ってられるか……! そう吐き捨て、慌てて刃を抜いたダナンは機械腕から鳴り響くアラームを耳にするとハックケーブルを抜き、デッキに差し込まれていた拡張情報端末を引き抜く。見た事も無い情報端子……透明なパッケージの中に電子粒子が飛び交い、回路を走る様子は海に揺蕩うバクテリアの光のようだ。


 「黒い人……いいえ、ダナン」


 「話す必要は無い」


 「貴男……とっても、とぉっても似ているわ。彼に、ダモクレスに似てるわね」


 「奴と俺が似てるだと? 馬鹿馬鹿しい、頭だけじゃなく眼もぶっ壊れているのか? 売女が」

 「狂っているのはお互い様でしょう? 私達は狂っていて、下層街は壊れている。狂い、壊れているからみぃんな可笑しい笑い転げ、悲哀や悲嘆に耳を貸さない。あぁ……貴男も私達と同じ、普通じゃないから人を簡単に殺すことが出来る」


 「それは」


 「殺さなければ、奪わなければ、全てを失ってしまうと言いたいんでしょう? 自分の命を守りたい……誰かを守るんじゃなくて、自分だけを大切にしたい。えぇ間違っていないわ。貴男の思考を私は否定しないし、認めてあげる。だからダナン……私のものになれば、全部受け止めてあげる。そのハカラもあげるし、貴男の身近な人も守ってあげる。いいじゃない……私の手を取って? さぁ……」


 乾いた発砲音が響き、空薬莢が宙に舞う。滅茶苦茶に撃ち込まれたショットガンの銃弾がアェシェマを木っ端微塵に吹き飛ばし、ショットシェルの薬莢が絨毯の落ちて白い煙を上らせた。


 「少し黙れよ売女が……。これ以上何か言うつもりなら」


 「どうするの? ねぇ……ダナン」


 黒い線虫に覆われた悍ましい姿。絶世の美女の面影は其処に存在し得ず、ダナンの目の前に立つ存在はコピーナノマシンによって再生修復される異形の存在。通常兵器では殺し切れず、これ以上は時間の無駄と判断したダナンはグレネードのピンを抜き、後方へ走りながらアェシェマへ投げつける。


 鼓膜を貫く爆音と広がる業火。その中でも彼女は笑い、ダナンへねっとりとした視線を向け呟く。


 必ず……ダモクレスと貴男を手に入れる。


 と、呪詛のような言葉を振り払い、ダナンはハカラを手に宮殿からの脱出を試みた。


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