戦闘に次ぐ戦闘、簒奪者へ剥く獰猛なる殺意の牙。疲労困憊した様子で歩を進め、階段を上ったダナンは仰々しい黄金の廊を瞳に映す。
真っ赤な絨毯と前時代的な西洋甲冑、煌めく電飾シャンデリア、歓楽区を一望出来る透明な硝子窓……。成金趣味を通り越した、それこそ下層街に似つかわしくない廊は鼻腔を刺激し、思考を奪い取らんとする強烈な腐臭に満ちていた。
言い表すのなら腐り果てた黄金の果実を食む蛆虫、腐食した羊水の中で揺蕩う胎児のような、人が本来生きるべきではない場所を進む悍ましさ。狂気に取り憑かれた聖母の腕に抱かれる禍々しさ。母体の中で麻薬に冒された羊水を、血を臍の緒で直接体内へ取り込んでいる不快感……。叫び、錯乱しようとする精神を必死に抑え、廊の奥にある金装飾の大扉に近づいたダナンは隙間から流れ出る臭いに嘔吐する。
「―――ッ!?」
吐瀉物の中に混じる鮮血と黄色い胃液。ゼラチン状に固まった食物残渣に蛆が集り、急速に成長すると黒い蝿へ姿を変える。耳元でブンブンと生まれたばかりの蝿が飛び交い、ダナンの頬に張り付き皮膚を剥ぎ、肉を食らって内側に潜り込む。青年は半狂乱になりながら機械腕で蝿を取り除くべく掻き毟るが、瞬く間に吹き出物が如く膨れ上がった矢先に白い粒……蛆虫が湧く卵が破裂した。
血が流れ、目玉が抉れるほど掻き毟る。水晶体から液が漏れ、涙と鮮血が入り交じる奇妙な色合いの血が顎に伝う。だが、そんなこともお構いなしに鋼の爪を皮膚に突き立てるダナンはもう一度胃の内容物を吐き出し、ハッと息を飲む。
何も無い。蝿も、卵も、飛び散った血肉も存在しなかった。其処にあるのは己が流した鮮血混じりの涙と吐瀉物のみ。頬には傷を修復する白い線虫が湧き出し、失った皮膚や肉を紡ぎ直していた。
夢? それとも、幻か? いや、だが……あの不快感と悍ましさは本物だ。蝿が頬に引っ付く感覚も、卵を産み付けられる感覚も、錯覚などではない。しかし、何故こんな……。
頭を振り、口に残った胃液を吐き捨てたダナンは深呼吸を繰り返し、一気に扉を開ける。
「あぁ……意外と早く来たのね、黒い人。別に待っていたワケじゃないけど―――」
連続した射撃音と空気を震わせる轟音。二丁同時に火を噴いたライフルは豪華絢爛なソファーに座すアェシェマの心臓を撃ち抜き、頭を木っ端微塵に吹き飛ばす。脳漿が純金の縁に飛び散り、潰れた眼球は砕けた歯に混じって革にへばりつく。
「……」
随分と……熱い思いを吐き出すのね。弾けとんだ肉が盛り上がり、黒い線虫で覆われる。胸を貫いた弾丸を体外へ排出し、溢れた血が塵となって空気に溶けると再び体内を循環する。
「ネフティス」
『はい』
「アレはルミナか? それとも遺跡の遺産か? お前はどう判断する」
『劣化ルミナと断定します』
「劣化ルミナだと?」
『はい、管理者コードを精査したところ、カナンによって移植された劣化品。ダナン、イブ、カナンに宿るルミナよりも数段性能が落ちるコピー・ナノマシンです』
ですが……。一呼吸、AIらしかぬ沈黙を置いたネフティスは『再生力、修復力、肉体強化の値は純正品と同等。劣化ルミナに存在し得ぬ機能はコードの適用、私のような戦闘支援AIの可否。油断なさらぬよう願います、ダナン』とダナンの心臓に蠢くルミナの出力を上昇させた。
「一人でブツブツと話すのね。いいわ、聞いてあげる」
「盗み聞きか? 趣味が悪いな淫欲の女帝」
「淫欲の女帝……あぁ、みんな私のことをそう呼ぶものね、えぇ知ってるわ。別にどうでもいいことなのだけれど」
煙管を口に咥え、淡い紫煙を吐き出したアェシェマはダナンなど脅威では無いと云った風に寝そべり、香炉に火種を入れる。
ハカラは何処だ……いや、先ずはデッキを見つけるべきだろう。部屋の中へ視線を巡らせ、アェシェマの背後に鎮座するキングサイズ・ベッドの傍、接続端子とヘッドギアが繋がれたモニター・ディスプレイ一体型のデッキを視界に収めたダナンは、動く気配の無い女帝から距離を取りつつベッドへにじり寄る。
「なぁに? ハカラ・デッキが欲しいの?」
「……」
「勝手に持って行きなさい」
「……なに?」
「必要無いもの。例えハカラがあろうとも、私が求めるモノは手に入らない。だから貴男にあげるわ黒い人。そうね……遺跡発掘者、組織外の人間が分かる言葉に当て嵌めれば、恩を売っておこうと思っただけ。中層街風に言うなら、持つ者は持たざる者へ施しを授けるのみ。実に分かり易いと思わない? 黒い人」
サッパリだと、黙るダナンにアェシェマは妖艶な笑みを浮かべ、艶めかしく輝く瞳を向ける。綺羅星を飲み込み、溶かし、己が輝きとする黄金。黒白のドレスを脱ぎ捨て、白磁のような肌を曝したアェシェマはダナンへ歩み寄ろうと歩を進め、一歩踏み出す度に撃ち込まれる弾丸の痛みに身を捩る。
弾丸で肉を貫かれ、痛覚を刺激されるのに人間は堪えられない。戦闘に慣れているダナンでさえも皮膚を斬り裂く弾丸に呻き、腹を撃たれたら血を吐き喘ぐ。いや、そもそも真面な精神であれば銃口を向ける相手に裸を晒さないし、撃たれているのに恍惚な表情を浮かべない。アェシェマの豊満な胸と傷一つ無い肌、シミの無い陶磁器を思わせる滑らかな曲線美から、彼女は戦闘と云った行為から最も離れていると予想がつく。なのに何故足を進めることが出来る。何故恐れを抱かない。
狂人を相手にしている暇は無い。デッキへ駆けたダナンは機械腕のハックケーブルをソケットに差し込みハカラを探す。這い寄る悪寒と女の狂気……。デッキのデータ群を粗方精査し、背後を振り返ったダナンの瞳にアェシェマの黄金が重なった。
「溶けて、崩れて、解けてしまえばいい……。私は貴男を受け入れる。だから貴男も私を受け入れて。苦しみから逃げることも、痛みを避けることも、何も間違っちゃいないわ。だから……ほら、触って? 私の肉身を、熱を感じ取って? 黒い人」
離せと叫ぶ前に唇を塞がれ生温かい舌が捻じ込まれる。柔い肉が足の隙間に滑り込み、態勢を崩したダナンはアェシェマと共にベッドへ倒れ、胸の温かさをアーマー越しで感じ取る。
甘い腐臭と精神を狂わせる生花の香。女の香りに混ざった大麻の匂い。機械腕がダナンの脳から発せられる電気信号を拒絶し、生身の左腕の先にある指がピクピクと震え、重なり合う細い指と絡み合う。その姿は正に蛇のまぐわいの様。さらりと頬に触れる髪が、粘膜を交換する濃厚な接吻が、青年の正気を金属鑢で削るが如く粉微塵に変え、強烈な快楽の奈落へ誘う。
目が回る。思考が纏まらない。どうしたらいいのか分からない。どうやって抵抗したらいいのか、逃げればいいのか、正解を見失う。だが……このまま淫欲の渦に呑み込まれてしまってもいい。辛く、厳しく、痛みを伴う人生に別れを告げても、誰も攻めやしないだろう……。
「そう……そうやって、私に全部任せて頂戴。もう貴男は戦わなくてもいい。争いに身を委ねなくてもいい。誰かが赦さなくても、私が受け入れてあげる。だから……一緒に、気持ちよくなって? 何もかも忘れて……生きることさえも」
生きることを忘れて……? 刹那、アェシェマの側頭部に刀剣へレスが突き立てられ、機械腕から展開された超振動ブレードが胴体を両断した。
「生きることを……忘れろだと? お前が、俺の生き死にを決めるのか……? 馬鹿言うんじゃねぇ‼ ふざけるな‼」
激昂し、アェシェマの誘惑を振り払ったダナンはふらつきながら立ち上がり。
「俺の命は俺のものだ!! テメェの好き勝手に出来ると思うなよ⁉ 売女が!!」
綺麗に整った顔面を踏み躙った。