下水道の暗がりから錆びた鉄梯子を上り、マンホールの蓋を開いたダナンが目にした光景は甘い腐臭が残る広場だった。人っ子一人存在せず、人工芝とナイロン製の茂みが無風であるのにざわつく異常。鼻の奥を刺激する異臭に咽込んだダナンは空中に漂う飛行ユニットのカメラから逃れる為に、近くの茂みに飛び込んだ。
飛行ユニットの視野は虫の複眼と似た性質を持ち、敵と認識した生物或いは設定された存在を見つけ次第即座に排除行動に移る。四枚の半透明の羽根を器用に動かし、長い尾の先にぶら下がる9mmパラベラム機関銃を地上へ向ける様は攻撃対象を探す蜂か、高い機動力で空中を泳ぎ回り、二つの複眼カメラで侵入者を探知する姿は蜻蛉を思わせる。いや、飛行ユニットの正式名称は蜻蛉であるのだから、そう思わない方が可怪しい。
どうするべきか……。息を殺し、アサルトライフルの照準を蜻蛉に合わせたダナンはふと視線を宮殿の屋上へ向ける。破壊された歓楽区を見つめ、無表情のまま大手を広げる美女……アェシェマが其処に居た。
「……リルス」
「どうしたの? ダナン」
「アェシェマを見つけた。今なら殺れる」
蜻蛉へ向けていた銃口をアェシェマへ向け、通信越しにダナンが呟く。
「アェシェマが? 本当に?」
「あぁ間違いない。殺そうと思えば直ぐに殺せる。いや、確実に殺すなら対装甲ライフルの使用も考えるべき……使うべきだ」
アサルトライフルを背負い、対装甲ライフルを抜いたダナンは機械腕で銃身を支え、生身の左手を引き金に添える。電子照準器のコネクトケーブルをゴーグルのソケットへ差し込んだダナンは各種弾道計測と反動抑制をネフティスへ一任し、機械腕の自動照準機能をセミオートへ切り替えた。
狙うは頭部か心臓が位置する胸だ。一度のミスも許されない狙撃は本当に久しぶり……それこそダモクレスと初めて殺り合った一瞬の間隙のみ。指を二度三度引き金にくっつけては離し、また触れる動作。疾る心臓を落ち着かせる為に呼吸回数を最低限に保ち、ゴーグルに映る計器へ目をやったダナンは『ダナン、何時でもどうぞ』というネフティスの声を聞く。
「……蜻蛉の動きは?」
「旋回、対空、索敵態勢を維持」
「アェシェマの様子は?」
「同じだ、動かずに、その場に居る」
「……生体反応を確認するわ。少し待って頂戴」
あぁ……。頭頂部が上に引っ張られる奇妙な感覚。ブツリ―――と、糸が切られたように途切れた通信から、鼓膜を叩くはリンパ液が流れるぼんやりとした音。無意識に繰り返される瞬きと汗が滲む額、粒となって垂れる顎を伝う生温かい液体、じんわりと口腔内に広がる鉄の香り……。緊張のせいか、障害を排除できる喜びのせいか、ダナンは知らず知らずの内に唇の端を犬歯で噛み切り、血を流していた。
殺せる時に殺すべきだ。どんな状態であれ、緊急性を要する状況であれ、千載一遇のチャンスを逃すべきではない。「生体反応はアェシェマだけよ、後は」リルスの通信を耳にしたダナンは何の躊躇いも無しに引き金を引く。
空気を震わせる射撃音。目にも止まらぬ速さで撃ち放たれた弾丸はアェシェマの頭を木っ端微塵に吹き飛ばし、首の付け根から大量の血を噴出させる。そして、轟音を察知した蜻蛉の群れは主人の頭を撃った狙撃手……ダナンへ一斉に機関銃の砲身を向けた。
茂みから飛び出し人工芝の上を駆ける。弾丸の雨に身を貫かれながら、宮殿へ侵入したダナンは重い合金製の扉を閉めると、僅かな隙間を掻い潜って飛び込んできた三機の蜻蛉と対峙する。
扇風機の羽根と酷似した飛行音。直線的な動きは単純で、次の移動先を予測しやすいものだが、厄介なことに動作が早いなんてものじゃない。機体を捉えた矢先に姿を消し、また違う場所で機銃を唸らせる機械の羽虫……。アーマーで覆われていない部分を生体融合金属で補強したダナンは武器をアサルトライフルに持ち替え、周囲を高速で旋回する蜻蛉へ黒鉄の銃口を向ける。
「ネフティス! ルミナの蟲の使用率を!」
『ルミナ使用率六十五%。生体融合金属の使用及び、肉体の損傷修復に主なリソースを割いています』
ルミナの蟲の使用率には大分余裕がある。弾丸を弾き、鈍色の表皮から飛び散る火花の中、ダナンは「リルス! 宮殿の中……武器庫の場所を調べろ!」と叫ぶ。
「直進三百メートル、右折して三番目の扉!」
まともに銃を撃っても蜻蛉は落とせない。群より個を相手取った方が対処が難しい飛行ユニット。下手な鉄砲数撃ちゃ当たると云う言技があるように、蜻蛉は群れを成している場合、機動に制限が付けられる。今の三機の蜻蛉は制限が外された状態……高機動高出力状態、通称オニヤンマ・モードへ内部状態が自動的に切り替わっているのだ。
走り、牽制し、リルスの言葉に従いながら無機質な鉄扉にぶち当たったダナンはピクリとも動かないドアノブに業を煮やす。鍵を探している暇など無い。蜻蛉の弾丸が生体融合金属を貫けなくとも、ルミナの蟲の使用率が先に限界を迎える。その前にこの状況を切り抜けなければならない。
刀剣ヘレスを抜き、扉の隙間に差し込んだダナンは一気に下まで滑らせる。錠が断ち切られた音を確認し、息も吐かずに開いた扉の先には鎖で手首を繋がれた白骨死体と、弾痕が無数に残る腐乱した死体……。溶けた肉と黒ずんだ屍血、部屋に充満する死臭に思わず息を詰まらせたが、壁に掛けられた銃器を視界に入れたダナンはショットガンを手に取り、同時に鍵が掛けられた戸棚の錠を破壊すると中に仕舞われていたチャフ・グレネードを掴み出す。
「ネフティス! 生体融合金属を解除しろ!」
『推奨できません。非合理的な判断です』
「いいから早く!」
『了解、不承不承ながら了承しましょう』
無機質で無感情な戦闘支援AIの声……その中には理解不能と云った思考回路が存在した。ダナンの指示を受け、使用者の肉体を守る生体融合金属を解除したネフティスは青年が握っていたグレネードから次の行動を予測する。
『ルミナ制御、機械腕を生体融合金属で保護、訂正します。いい判断です、ダナン』
「そうかよ……!」
抜かれたピンが地面に落ち、電子機器を破壊する強力なチャフが空気中に飛び交った。ナノマシンの動きさえも低下させるチャフは見事蜻蛉の電子回路を破壊し、三機ともアームを丸め死んだ虫のように転がる。
動き回らない蜻蛉などただの鉄屑に過ぎない。ショットガンの銃口を向け、引き金を引いたダナンは三機の蜻蛉を破壊すると武器庫の棚から弾薬とグレネードを回収する。
「ダナン」
「何だ……」
「アェシェマを撃った筈よね?」
「あぁ、頭を吹き飛ばした。それは間違いない」
「死体は確認した?」
「いや……」
死体を確認する暇は無かった。リルスの言葉に怪訝な表情を浮かべ、眉を顰めたダナンは「生体反応が……一つ」という少女の言葉に戦慄する。
馬鹿な……ありえない。頭を木っ端微塵に吹き飛ばされて生きている人間など存在するはずが無い。それこそ人外……己の身体に蠢くルミナの蟲を持つ人間しか存在し得ない筈。アェシェマの体内にもルミナの蟲が巣食っていると云うのか? まさか……奴もあの男、カァスと同じ存在なのだろうか?
「ダナン……」
「……案内しろ」
「……」
「アェシェマが居るのなら、まだ生きているのなら、もう一度殺す。生きている事を後悔させてやる。俺と同じような状態なら、命を奪えずとも精神的に殺してやる。だからリルス……アェシェマの場所を教えろ」
「……分かった」
溜息の中に混じる疲れた声。ダナンの殺意に応えるように、アェシェマの居場所を伝えたリルスは通信越しでもう一度溜息を吐いた。