みんな狂っていて、ただ一人がおかしいワケじゃない。異常を正常だと思い込み、不可解さや理解不能と云った共通認識を捨て去った狂人達。首領であるアェシェマの危機を嘲笑う者と涙を流し慟哭する者、腹を抱えて正気を失ったかのように笑い転げる壊れた人間……。チェーンガトリングの弾丸に貫かれ、血肉を撒き散らす肉欲の坩堝構成員は混沌より這い出る人の形を象った繰り人形。己が狂っていると認識できぬ狂気の産物なのだ。
アェシェマが死のうともそれは群体を成す頭が無くなるだけ。代わりとなる存在が居れば肉欲の坩堝という組織はアメーバのように細胞……新たな頭を再形成し、無くなった部分を補い存続する。個が集団を成し、群体となった集団は強大な欲望を秘める頭の意志に従い驀進する。その組織形成と運営方針は組織と云うよりも、巨大な多細胞生物と表現した方が正しいだろう。
故に、アェシェマは笑う。周囲を取り囲む狂人達と同じように、嬌声をあげながら痛みを快楽へ変換し、脳が発する危険信号を甘美な液として味わい啜る。薄い桜色の唇を震わせ、腫れ上がる患部を艶めかしく擦るアェシェマは正に異常性の塊。常人では理解し難い思考回路を持つ狂人の頭目。艶やかに、艶やかに、妖艶な笑みを浮かべる女帝にダナンは戦慄を隠しきれない。
腕を圧し折り、今直ぐ命を奪える立場にあるのはダナンの方だ。機械腕の超振動ブレードを展開し、白い首を掻き斬ってやればいい。鮮血を宙へ迸らせ、この狂人を殺せば背に這う悪寒は排除できよう。だが、それは出来ない。不可能だ。アェシェマという盾を失えばダモクレスの凶弾は己へ向けられる。このまま撤退しようとしても、周囲を取り囲む狂人の群れが見逃してくれる筈が無い。浅はかで稚拙、肉欲の坩堝の狂気を甘く見ていた己が恨めしい。
「どうするの、黒い人。私を殺してしまうの? えぇいいわ……殺せばいい。殺して、私の温かい血を浴びてもいいのよ? ねぇ黒い人……どうするの?」
「黙れ……!」
「どうしてそんなに苦しそうな顔をしているの? 痛いのは私の方なのに、苦しいのも私の方よ? 貴男は何一つ痛くない。苦しくもない。そうでしょう?」
「黙れって言ってんだよ!!」
嫌な汗が全身から噴き出し、アェシェマの言葉が脳に突き刺さる。悪を是と認め、罪を呑み込む毒蛇……。善悪の意味、罪と罰の存在などアェシェマにとって無意味で無価値。彼女は全てを受け入れ、肯定し、否定の一つもしないのだから。
どうする、どうしたらいい? このまま八方塞がりで息絶えるのか? いや、息絶えるのならばまだいい。もしアェシェマの手に身も心も堕ちれば生きながらにして死ぬことになる。それだけは嫌だ。死んでも嫌だ。
荒い息が喉を焼き、早鐘を打つ心臓が痛む。修復された傷が疼いて仕方が無い。このまま刻一刻と時が進む度に心理的余裕は崩れ、後がなくなってしまうだろう。少しでも動かなければ、何かしらの行動を起こさなければ死ぬのは此方。八つ裂きにされる可能性だって否めない。
崩れたビルをブーツの底が噛み、コンクリート片が零れ落ちる。空中で凶弾を振り撒くダモクレスを一瞥したダナンはビルの屋上に複数人の影が蠢く瞬間を見た。
あの影は……死者の羅列か? いや違う、奴等がこの戦闘に介入する筈が無い。何の利益も生まない戦いに加わる程連中は優しくなどない。ならばあの影は何だ? 誰が『ダナン、熱源反応を感知。閃光弾です』刹那、ダナンの視界を眩い光が遮った。
「―――ッ⁉」
灼け付く網膜と空気に交る催涙成分。電子機器にまで影響を及ぼすチャフ効果が混ざり合った対機械体閃光弾はダナンの機械腕を一時的にダウンさせ、重い鉄屑へ変える。
「ダナン! 死者の羅列首領から連絡よ! 援軍を送った、後は全力で生き延びろ……逃げて! 早く!」
眩めく視界と平衡感覚を失った三半規管。閃光弾の効果はダナンだけではなく、アェシェマや狂人達にも影響を与え、ダモクレスでさえも照明の周りを飛ぶ蠅のような動きになっていた。
逃げる……逃げろ? 違う、これはチャンスなのだ。ダモクレスの機械体が混乱しているうちに、アェシェマと狂人達が倒れている隙に全員殺す。逃げたとしても敵は際限なく追って来る。追って来るならば、殺せ。
「ダナン、何をやってるの⁉ 早く」
「殺すんだよ……‼」
「何を言って……今が、これが最後のチャンスなのよ⁉ 今逃げないで何時」
「あぁチャンスだろうよ‼ 奴等を、二人の首領を殺す千載一遇のチャンスだ‼ リルス、お前も知ってるだろ⁉ こっちが殺さなきゃ、追って来る連中を全員殺さなくちゃ生き残れないんだよ‼ だから」
殺す‼ ルミナの蟲がダナンの視界を補い、波動砲を展開したダナンはネフティスへ指示を下す。
「波動砲を撃つ‼ 目標はダモクレスだ‼ ネフティス‼」
『エラー』
「な―――」
『熱エネルギーが足りません。波動砲を撃つには負傷が必要です。波動砲の発射は不可能。それでも撃つのならば、イブの補助が必要となります』
機械腕から伸びる波動砲が格納され、舌打ちしたダナンの足元にアサルトライフルと大口径対装甲ライフルが投げられる。
「中層街から仕入れたばかりの新品だ。上手く使え」
「お前は」
「聞くな、聞かない方が、知らない方がいい事もある。だが……これはテフィラの頼み。俺の感情など一切込められていないし、貴様のことなど心底どうでもいい。助けてくれと頼まれたから、助けるまで」
影……メテリアはそれだけ話すと空気に溶けるように姿を消す。武器を拾い上げ、弾丸の有無を確認したダナンはビルの影へ飛び込むと機械腕の自動照準機能を起動する。
『照準補正―――完了。反動制御―――完了。何時でも撃てます』
ネフティスの声が脳に響き、耳元ではリルスの深い溜息が聞こえた。引き金を引き絞り、強烈な反動と共に射出された対装甲ライフルの弾丸はダモクレスの電磁バリアによって防がれ、紫電を奔らせると融解する。
やはり通常の弾丸では電磁バリアを突破することは出来ない。強力無比な絶対防御を打ち砕き、ダモクレスを死に至らしめるにはコード・オニムスを使う他術は無い。だが……もしコード・オニムスの制限時間内に仕留めきれなかった場合、手帳を焼くだけに過ぎなかった時、肉欲の坩堝との連戦にもつれ込む。
下唇を噛み、弾倉から空薬莢を弾き出したダナンは「リルス、閃光弾の効果時間の計測を頼む」と呟き「アェシェマはどうするつもり? 何時殺すの?」リルスの問いに逡巡する。
アェシェマは今も閃光弾の影響を受け、藻掻きながらも喜んでいるように感じられる。弾丸を撃ち、頭部を撃ち抜けばそれで終わるが有用な盾……持ち手にも棘が張り巡らされている肉壁は扱い辛い。
「あ、ちょ、ライアーズ! 何を」
「ダナンちゃん、無事?」
「……何とかな」
鼓膜を叩く太い男の声。ライアーズは血液混じりの濁った声を出すダナンを笑い飛ばし「ハカラは見つかった?」と聞く。
「……」
「その様子じゃ未だ見つけていない……忘れていたようね? んもぅイブちゃんを助けたいんでしょ? ならハカラ・デッキを持ち帰らなきゃいけないわよね? ダモクレスとアェシェマの売女を相手にしてる場合じゃないでしょ? 違う?」
そうだ、ライアーズの言う通り。先ずは依頼を片付け、その後でハカラを回収するつもりだった。だが、ダモクレスの乱入と過熱した戦闘に本来の目的を見失っていた。深呼吸を二度繰り返したダナンは二丁のライフルを背負い、ビルの隙間を縫うようにして駆ける。
「それとリルスちゃん? ダナンちゃんの手綱を握るのは通信相手の貴女なのよ? もっとしゃんとしなさいな!」
「う……。ダナンが私の言うことを聞いていたら、こんな面倒な事になんなかったし……」
「それでも男の手綱を握るのは女の役目なの! ほら、膝を抱えてないでしっかりやりなさい?」
「……ダナン、聞いた通りよ。ハカラはアェシェマの居城にあるわ。一応ライアーズから見取り図を貰ったから案内するわね」
「……頼む」
そう言ったダナンは、光に包まれるビル群を背に黒い煙が上がる歓楽区へ走り出した。