爆炎、混乱、騒音、狂乱……。影に導かれ、人の波を掻き分けながら駆けるダナンはぐったりと項垂れるテフィラを一瞥し、立ちはだかる淫欲の坩堝構成員を斬り殺す。迸る鮮血が彼のアーマーを真紅に染め、少女の白い頬に散る。
ダモクレスの足止め……人間爆弾による生体センサーの混乱は一時的なものだろう。下層街最凶最悪の完全機械体の動きを完璧に封じ込め、無力化させる手段には成り得ない。飛び散る肉片と生温かい血の雨、脳の信号を受け取ったまま蠢く心臓。高性能最先鋭化された生体センサーは僅かな生体反応を機敏に受け止め、半機械化した融合脳は視神経へ直接情報を伝えている。端的に言えばダモクレスと云う狂人から逃れ、見逃されるには死を待つ他術は無い。
四散し、跡形もなく爆死する影……死者の羅列に属する構成員と同じ刺青を施された人間が我先にとダモクレスの電磁バリアに焼かれながら張り付き、起爆スイッチを押して死に至る。雪崩のように押し寄せる影全員が興奮剤を服用しているせいか、瞳孔は極限にまで開かれており死を恐れる気配がまるで無い。いや、それ以上に喜びを見出しているようにも見える。
「気にするな」
「……」
「奴らは俺達が所有する債務者に過ぎん。取引に応じた愚者の死は無価値、無意味な代物。遺跡発掘者、貴様は自分の仕事を熟せ」
「お前は―――」
死者の羅列の増援か? ダナンが口にしようとしていた問いかけは影が言う通り無意味なものなのだろう。何故なら、債務者の身体及び精神的自由を手にしている存在は死者の羅列そのものなのだから。
何と唆し、甘言を嘯いたのだろうか? 絶望の縁に立ち、希望の絶壁に齧り付く債務者へどんな言葉を吐いたのだろう? そんな事を一々考えていても仕方がない。恐らく……いや、確実に死者の羅列は不条理で不平等な契約を迫ったに違いない。彼等のやり方は究極的な拝金主義から形成される秘密主義。影のように足元を嗅ぎ回り、金脈を探し回る金の亡者達。下層街の経済体系を握る組織に人道的観点を問う程無駄なことは無い。
「テフィラは」
「……何だ」
「その娘に傷は無いだろうな?」
「あぁ」
「もし少しでも傷があってみろ、貴様は下層街で最も厄介な存在を敵に回すことになるぞ」
「そうか」
影の怒気が孕んだ声を聞き流し、歓楽区の出口に差し掛かったダナンは背後で燃え上がる鋼の巨人を視界の端に収め、思わず息を飲む。
赤熱する電磁バリアと焼け付く屍肉。血肉が張り付く電磁クロ―を唸らせ、背部ブースターを展開して迫るダモクレスが歪な笑みを浮かべ、狂気に染まった咆哮をあげていた。そして、彼を追うのは淫欲の女帝アェシェマ、彼女は己が支配する歓楽区が焼け落ち、灰燼に帰すのも居に返さず構成員の神輿に担がれる。
「……おい」
「何だ? 奴らのことなど」
「違う」
あの二人……狂乱を是とする敵を排除しなければならない。殺害に至らずとも、力を誇示して迂闊に手が出せないと認識させねば己が死ぬ。無惨に、尊厳を砕かれ、命を失ってしまう。だから戦う他道は無い。ダナンは影へテフィラを預け、ネフティスと回線を繋ぎ「ルミナの蟲を起動しろ、戦闘だ」と呟く。
「馬鹿な真似は止せ、貴様程度の遺跡発掘者が奴らに敵う筈が」
「そうか」
「いいのか? 俺にコイツを預けてしまっても。貴様の味方……死者の羅列とは限らないんだぞ? 確信があるのか?」
『ダナンさん! 兄の言う通りです! ダモクレスとアェシェマさんと戦うなんて馬鹿な真似は』
兄……脳内回線を通じて叫ぶテフィラが答え合わせを完了させた。影は少女の兄であり、ダナンの依頼人。故に、彼が害を成す可能性は低い。
「ダナン! 止めておきなさい! いい? 二大首領を相手にして生き残れる筈が無いわ! 此処は素直に退きなさい! 対策なら後で幾らでも」
「……違うんだよ、リルス。此処で戦わなきゃ、奴らをこの場で退けなければ意味が無い。一時的に生き残れたとしても、後々生きられる保証が何処にある? 無いだろう? 死ぬか生きるか二つに一つ……。なら、奴らを殺すしかない。殺すんだよ、あの狂人どもを」
通信越しに叫ぶリルスへ静かに、だが語気を強めて言い放ったダナンは「行け、お前はテフィラを連れて俺と正反対の方向へ逃げろ。ダモクレスとアェシェマは俺が相手をする」と仄暗い闇に沈むビル群へ駆ける。
「……」
あの遺跡発掘者は己の命の為なら、生き残れる選択肢に他者の犠牲が含まれている場合、迷わずそれを選択する人間じゃないのか? ダナンという青年を長らく監視し、彼の生き方を調べ尽くしていた影は怪訝な顔を浮かべ、眉を顰める。
『……兄さん』
「……」
『あの、お願いがあるんですけど、いいですか?』
回線を切り替えたか。影は脳に響く妹……テフィラの声に耳を傾け僅かに頷く。
『ダナンさんを助けて下さい、お願いします』
愛する妹の頼みならどんな事でも叶えてあげようとする覚悟がある。最愛のテフィラの願いは至高の意思であり、影の行動を左右する程の影響力を持つ無垢なる祈り。彼女の流す涙を見るだけで影は苦痛にのたうち回り、血涙を流しては歪んだ世界へ溶鉄のような憎悪を向ける。
『兄さん、お願い。ダナンさんを』
「……あぁ、お前の言葉は理解できるよテフィラ。俺も同じ気持ちだ』
『兄さん……!!」
嘘だ、あの遺跡発掘者の命など塵屑に等しい紙くず以下の矮小なもの。奴が死んだところで己の懐は傷まないし、あわよくば下層街最優の情報技術者を手にすることだって出来る。ダナンは正に金の成る木の前に立つ鉄条網。影にとって好ましくない疎ましい存在だった。
ダナンが死ねばそれで丸く収まる筈だ。醜い褐色肌と痛ましい灰色の髪、憤怒を滾らせ憎悪を燃やすドス黒い瞳、力があるクセに臆病この上ない腐った性根……。生き残りたいと、生きていたいと願う分際で危険に足を突っ込む矛盾した行動が実に腹立たしい。影はダナンという存在を嫌悪し、気色悪いとさえ思っているが、簡単には殺せない厄介さを知っている故に手をこまねいていた。
しかし……至高の無辜、至上たる無垢と称すべきテフィラが助けを願っているのならば話は別。彼女の為ならば影は己の生き方を捻じ曲げ、粉々に破壊することだって出来る。視覚、嗅覚、触覚を産まれた瞬間から喪失し、中層街の医者でなければ命さえも危うい妹の為ならばプライドだってかなぐり捨てる事が出来る。たった一人の肉親の為ならば……泥水を啜っても、傲慢な中層民の尻穴や靴を舐めても構わない。
己の全て、煤に帰した焼け野原に咲いた一輪の白百合、我が妹テフィラ……。お前の為なら兄は犬にだって成り下がろう。そう、死者の羅列首領、メテリアは自分自身を変える術を心得ているのだから。
メテリアは懐から通信機を取り出し「俺だ、ありったけの武装を仕入れろ。ダナンという遺跡発掘者を援護する。債務不履行になった債務者を順次動員し、俺が指定する場所へ移動させろ。いいな?」組織構成員へ指示を送ると深い溜息を吐く。
『ありがとう兄さん、えっと、後で肩を揉んであげる!』
「ありがとうテフィラ、けどお前は先ず休め。今日は色々とあったからな、疲れたろう?」
『けどダナンさんが』
「いいんだ、後はお前が心配することじゃない」
そう言ったメテリアは少女の首へ安定剤と情報混濁症の薬液を注射し、轟音が鳴り響くビル群へ視線を向けた。