「……」
「黙っていても分からないわ。ねぇ黒い人、みんなの為になる事はとても素晴らしいものだと思わない? みんなはみんなの為に、一人は一人の為に……みぃんな自分の欲望を追求して、内に燻ぶる薪を燃やせばそれは巡り巡ってみんなの欲望を満たす事が出来ると思うの。だからお願い黒い人……その娘をこっちに寄越してくれない?」
額から流れた汗が頬を伝って口の端に流れ込む。舌先で雫を舐め取り、己に一歩ずつゆっくりと歩み寄るアェシェマへショットガンの銃口を向けたダナンは「来るな!!」と叫び、引き金を引いた。
歓楽区に鳴り響く幾重にも折り重なる銃声。ダナンのショットガンがスナイパーライフルの弾によって弾かれ、予想外の方向へ撃ち放たれた散弾はアェシェマを守るべく飛び出した男女の首と左目を貫く。傷口から溢れた鮮血が宙に散り、アスファルトに倒れた男女は痛みさえも快楽と感じているのか、狂ったように悶え笑う。
「一人、また一人……気持ちがいいのかしら? 散弾が肉を抉り、血の熱さに生を感じているの? 良かったわね……えぇ、本当に」
なら、もっと気持ちよくしてあげる。そう呟いたアェシェマは豊満な胸からデリンジャーを取り出し、悶える男の四肢へ弾丸を撃つ。一発撃ち込まれる度に弾頭に組み込まれた格納カプセルが弾け、中を満たす液体麻薬が血液に混じり髄液を侵し穢す。麻薬に冒された髄液は脳へ快楽物質を要求し、脳神経と細胞は狂ったようにドーパミンを噴出する。
陸に打ち上げられた魚の様……。血を垂れ流しながら身体を跳躍させ、焦点が定まらない瞳で更なる傷を乞う男。その様子を涎を垂らしながら羨ましそうに見つめ、アェシェマに縋る女は潰れた左目を掻き毟り激痛による快楽を貪り喰らう。究極的なマゾヒズムの権化……アェシェマが振り撒く狂気と破滅的な快楽は容易に人を壊し、命を塵屑同然に消費する。
この光景を容認してしまえば終わる。人間的に……否、生物として終わりを迎えてしまうだろう。闇の底で光り輝く歪んだ綺羅星に群がる亡者の一員……アェシェマという溝底に咲く一輪の蓮の花を求める壊れた人間達は、次々と彼女のドレスに縋りつき、生物的な終焉を願う。それは何と悍ましく、禍々しいものか。
恐怖を感じていないと云えば嘘になる。現に、ダナンは凶行をモノともしないアェシェマが恐ろしい。人を人と思わず、己が組織の構成員をも欲望を満たす為の道具として見做す美女は地獄の釜を掻き回す悪魔そのもの。人の皮を被った何か。いや……彼女にとって個人は個人であり、個が成す集団は群体であるのだ。故に、個人は個人の為に、みんなはみんなの為に……欲望を成す。
まるで曼荼羅のようだ。アェシェマを中心にして欲望の渦を巻く歪んだ曼荼羅模様。上下関係無く、彼女を取り巻く人間と環境が歓楽区……強いては肉欲の坩堝という組織を体現しているのだ。だが、淫欲の女帝として君臨するアェシェマであろうとも、己が唯一欲している存在を手に入れる事は出来やしない。その欲望は満たせない。何故なら、彼女が求める者は狂人そのものなのだから。
「耳障りの良い事ばっかり話すなよ、売女が」
「……なにが?」
「お前は決して、絶対に自分の欲望を満たせない。あぁ俺が保証してやるよ肉欲の坩堝首領アェシェマ……。ダモクレスはお前を求めちゃいない。奴が求めているのは……俺だ」
一瞬アェシェマの目つきが憤怒に染まり、薄い桜色の唇に憎悪の色が宿る。麻薬で脳が焼かれ、正常な判断能力を失っている人間には知り得ない僅かな機微。それを見逃さなかったダナンは肩を竦め、ショットガンを地面へ放り捨てると静かに笑う。
「お前の中身を言い当ててやろうか? なぁ売女。欲望に身を焦がされているクセに何も見出せず、答えの一つすら出せていないんだろう? 笑えるよなぁ塵屑女が。だから自分に正直な存在……ダモクレスを求めている。だけど安心しろよ屑、アイツはお前を小指の先程も求めちゃいない。可哀そうだなぁ……空っぽのお人形さん」
「……少し」
黙ってくれない? デリンジャーの銃口が火を噴き甲高い金属音が木霊する。間一髪……予めアェシェマの銃撃を予測し、照準の先を見据えていたダナンは機械腕の装甲を用いて弾丸を弾き飛ばしたのだ。
やっぱりだ、この女の執着と偏愛は異常の一言に尽きる。他者を取って喰らう発言の裏には脆い自我が存在している。その自我は無痛の肉に包まれ簡単に見えやしない。しかし、ダモクレスという無頼の刃がアェシェマの無痛へ感覚を与え、痛みを引き出し感情を露出させた。
だが……襲い来る構成員の波を斬り殺し、ショットガンを拾い上げて弾丸を撃つダナンは唇を噛む。まだ手札が足りない。アェシェマを殺す為の手段が少なすぎる。ダモクレスを引き合いに出したところで、次も同じ手が通じるとは限らない。危機的な状況に陥っているのには変わりない。
「……テフィア」
『はい!』
「ダモクレスのシステムハックを解け」
『け、けど、それじゃ』
「使える手は使う。アェシェマにはそれが最適解だ」
鬼札を切り、諸刃の剣を抜くべきだ。脳内回線を通じてテフィラに指示を下したダナンは、路地の奥から突貫する鋼の巨人を一瞥し、頬を斬り裂く弾丸を紙一重で躱す。
「ダぁナァン……やっと俺と遊ぶつもりになったか?」
「……」
「黙るなよダナン‼」
肉片と臓物、夥しい量の返り血に染まるダモクレスが歪な笑みを浮かべ、狂喜乱舞したように肉欲の坩堝構成員を叩き潰しながらダナンへ迫る。刀剣へレスを抜き放ち、生体融合金属を起動したダナンは電磁クローを受け流しながら恍惚とした表情を浮かべるアェシェマを視界の端に収めた。
「嗚呼ダモクレス……無頼の人、私に会いに来てくれたの?」
「肉欲の坩堝の糞便器がまぁた俺とダナンの邪魔をするかよ!!」
「お前等二人とも此処で殺し合え、俺に構うなよ」
ダナンはダモクレスの攻撃を躱しながらテフィラを抱え逃げ惑い、ダモクレスはダナンを殺すべく死を振り撒き、アェシェマはダモクレスとダナンの間に立って鋼の熱を求め彷徨う。三者三様の混沌とした様相。だが、ダナンにとってこれが最善たる手段であり、己と少女の命を守る脆弱な盾であった。
次の手を模索しろ。生きる為の、生き残るための手段を講じ続けろ!! 電磁クローの熱と脇腹を貫くチェーンガトリングの弾丸、アーマーに飛び散る血潮と臓物に滑る足元。荒い息を吐き、人混みの中に紛れた影を視認したダナンは舌打ちする。
これだけ馬鹿みたいに戦って、命の綱渡りを続けているのに新たな敵が湧いて来る。そもそもあの影は何だ。何故接触を図ろうとするのか。影の一つが視界から消え、次に現れた瞬間ダモクレスの装甲に張り付き爆発四散すると、それが合図であったかのように幾人もの影が死に向かうが如く自爆特攻を繰り返し、血肉と臓物の雨が降り注いだ。
「来い」
不意にダナンの肩を掴んだ影、それは他の影とは全く違う雰囲気を纏う漆黒。
「何者だ」
「つべこべ言わず来い。これ以上の戦闘は損失の方が遥かに上回る。奴等の債権を捨てでも俺達はお前の為に動かざるを得なくなっている。貴様の依頼人から指示……そう言えば理解出来るな?」
「死者の」
シィ……と。影は指を唇に当て、ダナンへ黙るように促すと混乱の中を駆ける。
死者の羅列の援軍か? 爆音と叫喚の中、迷う暇は無いと判断したダナンは影を追うように走り出した。