下水を進み、事切れた白骨死体の前を通り過ぎたダナンはテフィラを抱えたまま錆塗れの鉄梯子に手を掛ける。手に嵌めたグローブに赤茶けた錆が引っ付き、パラパラと紙屑のように剥がれ落ちた。
「ダナンさん」
「何だ」
「少し、待って貰ってもいいですか?」
「理由を言え」
テフィラの首が力なく胸元へ垂れ下がり、全体重が機械腕にのしかかる。僅かにバランスを崩し、ブーツの爪先が湿気と腐食で滑る梯子から逸れたが、間一髪……驚異的な反射神経で態勢を整えたダナンは奥歯を噛み締め「死んだか?」と呟く。
いや、死んではいない。僅かに上下する薄い胸と漏れる呼吸。意識を失ったのか、眠っただけなのか……。しかし、下水に漂う毒素による急性意識障害の可能性も否めない。鉄梯子にぶら下がりながら逡巡するダナンは器用に梯子を上り、テフィラを肩に担ぐとマンホールの蓋を開け、外の状況を確認する。
歓楽区の裏路地に変化は見られない。塵のように転がる浮浪者の死体と捩じ切られて尚五指を動かす麻薬中毒者の腕、弾け飛んだ機械の生首、鈍色に輝く空薬莢……。目の前を通り過ぎた六つ目のネズミを追い払い、マンホールの外へ這い出たダナンはゴミ箱に放り込まれた子供の死体を路地へ投げ捨て、脱力したテフィラと共に身を隠す。
「リルス、聞こえるか?」
「えぇ聞こえてる。ダナン、どうやって歓楽区を脱出するつもり? もうそこら一体は戦闘区域になってるわ」
「……ダモクレスの目的は何だと思う?」
「さぁ? 貴男とは無関係だと思うけど……みかじめ料とショバ代の未納料金を取り立てに来たんじゃないの?」
そうだといいが……。息が詰まりそうな程の悪臭と汚臭の中、鋼の指で顎を撫でたダナンは懐から煙草の箱を取り出し、一本摘むと口に咥え火を着ける。
煙草の臭いはゴミが掻き消してくれる。行動を起こし、銃弾と爆炎の中煙草を吸うにはリスクがあり過ぎる。ゴミ箱を開けて回るような酔狂な連中も此処には居ない。だが、それでもアサルトライフルの引き金に指を掛けたまま、銃口を蓋へ向けるダナンには油断など存在しない。いつ何時でも弾丸を発射し、中を覗き込もうとする輩を殺す準備は出来ている。
「ダナン? 大丈夫?」
「……あぁ」
「ダモクレスの電磁パルスで通信が不安定になる可能性があるわ。一応念の為に伝えておくけど、奴との戦闘は極力避けること。保護対象を守りながらの戦闘は不可能……もし貴男が抱える子が死ねば、死者の羅列も敵に回る事になる」
「理解ってる……」
「それと依頼人から連絡よ、臨時戦力を投入したから何としてでも守り抜け、だそうよ? どう? 出来る?」
「……」
「ダナン? ちょっと、聞いてるの? ダナン!?」
ゴミ箱の中は嫌いだ、厭なことを思い出す。この臭気の中で生き抜くことだけを考えている時、幼かった自分を思い出して気が狂いそうになってしまう。
手段を講じ、目的を達成する。それは生きて、生き抜いて、死を回避する為だけの思考。ぼんやりとした意識……溶けて消えゆき混濁する脳味噌。耳元で叫ぶリルスの声に生返事を返すダナンは胸の上で浅い呼吸を繰り返すテフィラに視線を向け、その透き通ったガラスのような白い柔肌を食い入るように見つめた。
犯せ―――無垢を穢し、欲望を吐き出してしまえ。この娘がいる故に己は苦悩し、要らぬ労力を割かねばならぬ。ならば犯して、食い散らかし、殺してしまえ。都合が良い方へ、非道の限りを尽くして嬲り殺せ。そうだ、己にはその権利がある。罪悪を成す権利が、その義務がある。あぁそうだ、鋼の腕を唸らせ白い肌に爪を立てろ。そうしたら―――。
「―――ッ!?」
腹から迫り上がる胃液が食道を焼き、苦く酸っぱい臭いが鼻腔を刺激した。眼を見開き、胃液を飲み込んだダナンが嗅ぎ取った香りは甘美なる腐臭。知らぬ間にゴミ箱の蓋が開かれ、外から中を覗き込んでいた絶世の美女……アェシェマが妖艶な笑みを湛え、ゴミに囲まれる青年を見下ろす。
「犯してしまえばいいのに」
アサルトライフルの銃口が火を吹き、飛び出した弾丸がアェシェマの頬を薄く斬り裂いた。一筋の鮮血が傷口から流れ落ち、真っ赤な口紅と混ざり合う。
「誰も、だぁれも貴男を責めないわ。罪を成しても、悪に染まっても、それは他者の瞳に映る虚像ですもの。だからいいの、黒い人。貴男が成す罪悪を貴男自身が否定しても、私も罪悪として見ない。みぃんな好きなように生きればいい。好きなことをしたらいい。私は全部見なかったことにするから」
泥濘に咲く蓮の花、誰も彼をも受け入れる地母神と錯覚させる美貌、嘘偽り無い薄汚れた無責任。ダナンの頬を撫で、黒白のドレスの裾を煤で焼いたアェシェマは彼のドス黒い瞳を自身の黄金の瞳と照らし合わせ、柔らかく微笑む。
闇に輝き蠢く一番星。アェシェマという美女に当て嵌めるべき言葉はそれ以外見つからない。彼女の圧倒的なカリスマ性、否定を非ずとする甘い言葉、他人の意識を飲み込み、絡め取ろうとする全肯定……。何の武力も持たず、雰囲気と言葉だけで強大な牙を見せつけたアェシェマにダナンはダモクレス同等の脅威を感じ取る。
殺さなければならない。この女は、この場で殺すべきだ。肉欲の坩堝全体が敵になろうとも、己の命を脅かす存在は抹殺する。アサルトライフルを機械腕に持ち替え、照準をアェシェマの眉間に定めたダナンは躊躇なく引き金を引く。
炸裂する火薬と甲高い金属音。ライフルの銃口が折れ曲がり、詰まった弾丸が破裂した。咄嗟にテフィラを抱き、飛び散る金属片から身を呈して庇ったダナンの背中と脇腹に欠片が深々と突き刺さる。
「どうして守るの? いいじゃない、殺しても。構わないでしょう? その娘が死んでも。だって貴男と無関係……他人なんだもの。嗚呼……でもそれじゃ駄目ね。みんな、みぃんな支え合って生きていかなきゃ駄目なの。みんなはみんなの為に、自分は自分の為に……人と人との繋がりって大事だと思わない? ねぇ……黒い人」
言っている事が滅茶苦茶だ、何一つ筋が通っていない。一貫していない言葉ほど不快に感じるものは無い。激痛を訴える身体に鞭を打ち、一瞬だけ輝いた光を視界の端に捉えたダナンはスナイパーの存在を溶ける思考に加え入れる。
迂闊に動けば狙撃される可能性が否めない。テフィラの身の安全を保証出来ない。頬を撫で回され、首筋を這うアェシェマの指に不快感を覚えつつもゴミ箱の中から身動きを取れないでいるダナンの耳に、聞き覚えのある重々しい機械音が響く。
その音は全ての命を踏み潰す最凶最悪の全身機械体が発する駆動音。雷雨のように降り注ぐ銃弾をものともせず、ミサイル弾の爆撃など蚊に刺された些細なものだと一蹴する重装甲。個人が持つ力として常軌を逸脱した、最早笑うしかない馬鹿げた暴力の化身……ダモクレスが肉欲の坩堝構成員を叩き潰し、斬り飛ばし、撃ち殺しながら路地へ突き進んで来る。
「ダァナァぁアン!! テメエは俺以外に」
殺されるんじゃねぇ!! スナイパーが存在するビルへ小型ミサイルを発射し、憤怒と憎悪に満ちたダモクレスが立ち塞がる数十人の人間を木っ端微塵に切り刻む。
「ダモクレス……」
アェシェマが小声で呟き、瞳を潤ませ恍惚とした表情を浮かべ。
「無頼の人……久しぶりね、貴男はやっぱり私を探していたのね」
荒れ狂う鋼と生身のまま対峙した。