引き金に掛けられた鋼の指が引き絞られ、撃鉄が半分程下りる。ダナンの溝底を思わせる黒い瞳に明確な殺意が宿り、白い少女を睨みつけ一歩、また一歩とゆっくりと近づき、天蓋付きベッドの近くまで歩み寄る。
「何処で俺とイブを知った」
「歓楽区と商業区で見かけました。イブさんとは歓楽区の通りで少しだけお話しただけですけど、下層街での住人とはまた雰囲気が違う子でしたね」
「俺にはお前を見た記憶が無い。イブは―――」
「あぁ申し訳ありません。その時は実体が無かったものですから……電子情報で構成された虚像と云った方が分かり易いでしょうか?」
さっぱり分からない。瞼を閉じる少女へ銃口を向けたまま、鋭い目つきを崩さないダナンは頭を振るい、血が上った頭に冷静さを取り戻す。此処で少女を殺したとしても何の利益にもならないし、死者の羅列と敵対するには無理がある。彼女がイブと何を話したのか、何故己の事も初対面であるのに知っているのか……それらを問うのは後でもいい。
少女の身柄を確保し、宮殿を脱出する。その後は死者の羅列の構成員と名乗った男へ引き渡せばいい。ダナンとは明後日の方向へ顔を向ける少女を小脇に抱え、バリケードを張った扉が叩かれる音を聞いた青年は部屋の窓を開け放つ。
「あ、あの、いったい」
「少し黙ってろ。舌を噛むぞ」
冷え濁った空気と照り輝くネオンの光。眼下に映るは乱れ狂う全裸の男女の乱痴気騒ぎ。二階から地上へ飛び降りたとしたら、生身の場合足の骨一二本は覚悟しなければならないだろう。
だが迷っている暇は無い。扉の向こう側からは機械のエンジンが鳴り響き、タイルを削るキャタピラの軋む音が聞こえた。
生唾を飲み込み、馬鹿だと呟き深呼吸を繰り返す。頭の中で身体の動きを詳細に思い描き、可能かどうかを判断する。一度失敗したら足の骨はおろか、内臓の何れかが衝撃で破裂するだろう。ダナン一人だけなら無茶な行動が生存に繋がるのならば迷わず実行出来た。
しかし、少女の身体は青年の行動に付いて来られるのだろうか? この華奢で柔い身体は骨が折れる程の衝撃に耐える事は出来るのだろうか? 分からない……五体満足で目標を達成できる気がしない。もし此処で失敗したら、無惨に少女だけを死なせたら、死者の坩堝はダナンへそれ相応の対価を求める。命だけではなく、それ以上に悲惨な末路を辿ってしまう。それに……イブを助ける手段を失ってしまう。
「大丈夫ですよ」
逡巡するダナンへ少女が呟く。
「何かあったとしても、私が兄によく言って聞かせておきますのでご心配なく。貴男は貴男の好きなようにして下さい」
「……」
ならば、と。ダナンは窓の縁に足を掛け、扉が破られたと同時に飛び降りる。頬を吹き抜ける風と迫る黒。機械腕の超振動ブレードを展開し、壁へ突き刺すと次いでブーツの靴底を滑らせ、膝装甲から火花を散らす。落下速度を抑えるには未だ足りない判断したダナンは機械腕の指を立て、宮殿の外壁を破壊しながら地面へ降り立った。
「無事か?」
「え? 何がですか?」
目を閉じたまま呆ける少女を一瞥したダナンは、肝が座っているのかと呟き目の前で性行為に耽る男女を「邪魔だ、退け」と蹴り飛ばす。陰茎を熱り立たせ、怒りに満ちる男の首をブレードで斬り落とし、ゲタゲタと笑い転げる女の横を素通りしたダナンはゴーグルに映る地図へ視線を這わせた。
現在地と下水道へ降りる為のマンホールとは距離がある。だが、出入り口は正面ゲートか後門の二つのみ。正面ゲートには数百人の肉欲の坩堝構成員が武器を持って待機している。後門へ向かうには全力で走っても十分以上時間が掛かる。マンホールから下水道を通って歓楽区へ戻る他術は無い。一つだけ精製していた解毒剤を握り、薄いカルシウム・アンプルに満たされた紅い液体を見つめたダナンは、少女へ「お前、何処かおかしい所はないか?」と問う。
「おかしいところ?」
「そうだ、妙に熱っぽいとかあらぬ幻覚を見てしまうとか……。そんな些細な違和感でいい。早く話せ」
「えっと……特に無いですね、はい。何か困った事でもありましたか?」
「空気中に散布されている麻薬の症状を聞いている。いいか? 少しでも」
「あ、それなら大丈夫です」
「何故だ」
「えっとですね、一応分解剤を飲まされているので大丈夫です。兄が毎日薬と一緒に飲ませてくれるんですよ。だから、それに関しては心配しなくても問題ありません」
分解剤……。肉欲の坩堝、アェシェマの居城に満ちる強力無比な気体麻薬を無効化する薬剤など存在すのだろうか? いや、中層街と独自のツテを持つ死者の坩堝なら持っていても可怪しくはない。彼等の常識を下層民の物差しで測ってはならない。だが……解毒剤を己の首筋に打ち込み、ガスマスクを外したダナンはそれを少女に被せ、甘美な腐臭に咽る。
「あの、必要ないんですが……」
「これから下水を通る」
「下水?」
「そうだ、分解剤を飲んでいようとも毒素は別……。ガスマスクを外すなよ」
どんなに高性能な分解剤を飲んでいようとも、下層街に漏れ出す遺跡の毒素は別問題。ナノミクロン単位で肉体に入り込み、臓器と血液を損傷せしめる毒は体外へ排出するまで蓄積する。ダナンはルミナの蟲により毒素を分解、無効化出来るが少女は違う。彼女のみの安全を優先する場合、己のガスマスクを与えた方が効率的で合理的だと判断する。
『ダナン』
「何だ」
『リルスより通信です』
「繋げ」
『了解』
ネフティスの声の後に「ダナン、悪い知らせと良い知らせ、どっちが聞きたい?」とリルの声が鼓膜を叩く。
「悪い知らせだ」
「そ、なら先に言っておくわ。ダモクレスがそっちへ向かってる」
「最低最悪だな。タイミングが悪い。良い知らせは?」
「死者の羅列の首領からメッセージを受け取ったわ。デッキは確保した、彼女を回収した後デッキを送る……だそうよ」
「なら」
ダモクレスをどうにかするしかない。重々しい鋼の音が歓楽区に響き渡り、激しい銃撃戦の様相を見せ始める。遠くで電磁パルスの閃光が炸裂し、区の一角を吹き飛ばす。
ダモクレスの狙いは己ではない筈。肉欲の坩堝首領アェシェマか歓楽区そのものか。そもそも奴に歓楽区を崩壊させるメリットがあるのか? いや、無い。ある筈が無い。無頼漢と肉欲の坩堝は殺し合いながらも互いに経済的利益を貪る関係性。ならば何故……。
「あの」
「何だ」
「何処かで花火でもしているんですか? 凄く大きな音がしたので……」
「皮肉のつもりか?」
「え? でも兄は爆発音があったら花火だと言っていました。違うんですか?」
馬鹿馬鹿しい。ダナンは少女を脇に抱えたまま器用に鉄梯子を下り、ゴキブリとネズミが這う下水道に立つ。
「爆発があったら花火だと? 馬鹿が、下層街でそんなものが見れる筈が無い」
「でも、兄は」
「黙れよ」
「……」
「お前の兄の事なんざ知るか。死者の羅列が会社だと? 何も知らないのなら、他人から言われた事を阿呆みたいに信じるのなら、俺の神経を逆撫でする言葉を吐くな。何だ? 少しその綺麗に閉じた瞼を開いてみたらどうだ? 下水の悪臭に顔を歪ませたらどうだ?」
「……すみません、本当に、花火だと思ったんです。あの、気に障ったら謝罪します。申し訳ありませんでした……」
「……」
苛立つ心と少女の心を突き刺す刃。小さな身体を抱えたダナンは溜息を吐き、下水に籠もる臭気に眉を歪ませる。
調子が狂う。普段ならばこんな馬鹿な事を話す人間が居ても気にも留めなかった。夢を鼻で笑うことも無く、無視を決め込んでいた筈なのに、何故こうもムキになって言葉を返した。阿呆めが……。
肩を竦め、闇を見据えたダナンは小さく、絞り出すように「名前を言え」と呟き「言い過ぎた、悪い」早足で歩き出す。
「……テフィラ」
「ダナン」
「……え?」
「ダナン、俺の名前だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「ダナン……」
「何か言いたいことがあるのか?」
「いえ、良い名前だなと思いまして」
「そうか」
育ての親……老人から貰った大事な名前。名が無かった己を個として認識するための呼称。少しだけ笑みを浮かばせた少女……テフィラは青年の名を脳に刻み込むように、繰り返し呟くのだった。