湿ったコンクリートと泡立つ汚水。闇の中を駆けるネズミの群れが闇の中に響き渡り、追い立てられるように足元に這ったゴキブリをブーツの靴底で押し潰す。柔らかい内容物が溝に挟まり、虫の体積然の乳白色の膜に包まれた卵が辺りに飛び散ると他のゴキブリが群がり共食いを始める。その様子を一瞥したダナンはアサルトライフルのグリップを握ったまま歩を進め、ゴーグルに映し出された下水道の経路図へ視線を寄せる。
右左と入り組み、ありとあらゆる場所から地上へ上ることが出来る下水道は広大な地下迷宮と例えられようか。悪臭を放つ汚水の中には腐った臓物が紛れ込み、黒い水面に浮かぶ赤黒く変色した血液は特殊な薬液……致死量以上の体液凝固剤を使ったプレイのせいか黒黴を集らせながら流れに身を任せる異常な光景。劣悪極まりない環境を進み、行き止まりの袋小路に辿り着いたダナンは対岸に見える細い通路を視界に収めた。
「リルス」
「経路はそのままで合ってるわ。何か問題でも?」
「行き止まりだ」
「行き止まり? おかしいわね……少し待ってて、調べ直すから」
通信が途切れ、周囲をぐるりと見渡したダナンはアーマーの装甲を齧るゴキブリを払い、ガスマスクのフィルターを交換する。カートリッジ式の細長いフィルターはボタン一つで使用済みのフィルターを外し、マスクの両端にセットされた予備フィルターへ交換することが出来る。使用済みの汚染フィルターを汚水の中へ投げ込んだダナンは機械腕の装甲を指先で叩く。
普通なら……それこそ一人で行動し、支援もない状態なら下水道を進む無茶はしない。ここは迷宮、姿なきミノタウロスが跋扈する暗闇の底なのだ。リルスの通信と多機能ゴーグルの暗視装置、毒素を除去するガスマスク、各種武装……それらはアリアドネの糸と云っても間違い無いだろう。恐怖、狂気、怖気の名を冠する化け物を遠ざけ、脱出する為の光明。虫の羽音を聞き、ネズミの鳴き声を黙って聞いていたダナンは「ねぇ、目の前に鉄格子とかない?」リルスの声を通信越しに聞いた。
「ある」酷く錆びた赤茶色の鉄格子を握り「破壊して、前に進んで」少女の指示に従って機械腕を唸らせた青年は、格子を引き千切ると残った鋭い錆鉄を超振動ブレードで切り取った。
「オーケー、音声で確認したわ。ダナン、ナノGPSの反応が近い。もうすぐよ」
「あぁ」
千切った格子をまた下水の中へ放り捨て、暫し闇を歩いたダナンは不意に尋常でない程の甘い匂いを嗅ぎ取った。ガスマスクを顔に被り、フィルターで隙間なく鼻と口を覆っているのにそれでも尚鼻腔が感じ取った強烈な臭い。それは完熟した果物のような……腐る一歩手前の甘美な腐臭。カサブランカの花弁を煮詰め、シンセミアを少量垂らしたような奇妙な香り……。腹の底から込み上げてくる吐き気を抑え、壁に肩を押し当てたダナンは目の前に白い影を見る。
何者だ? いや、こんな場所に……下水道に何の対策も無しに立てる筈が無い。ならば、これは幻覚か?
ふと、白い影が音も立てずに移動する。ダナンに付いて来いと、彼の歩調に合わせて進む影は鉄梯子の前で立ち止まると掻き消えるよう空気に溶けた。早鐘を打つ心臓を装甲の上から掻き毟り、頭を振ったダナンは「丁度この上よダナン。どうしたの? 一人でブツブツ何か言っていたようだけど」と、リルスの声を訝しむ。
「何って……俺は何も話しちゃいない」
「え? いいえ、確かに話していたわ。違うとか、俺じゃないとか……歓楽区で頭がおかしくなっちゃったの? 止めてよね、薄気味悪い」
「……」
リルスの冷えた声を聞き、口を噤んだダナンは梯子に手を掛けると重い蓋を押し開ける。その瞬間、青年の鼓膜を叩いたのは、けたたましく鳴り響く高音と腹に響く重低音。視界に映った光景は滅茶苦茶に練り合わされた音楽に合わせて踊り狂う全裸の男女の群れ。悪魔を奉ずるサバトを連想させる魔宴に大きく目を見開いたダナンは、素早い身の熟しでマンホールから身を這い出すと近くの茂みへ身を隠す。
頭が痛い。目が色とりどりの光線でチカチカする。喉が溶鉄を無理矢理飲み下されたかのように焼け付き、水を求めている。そう……丁度近くの男が手にするグラスに満たされた透明な水を、肉体が欲している―――。
『ダナン、ルミナを起動します。空気中の麻薬成分及び催眠複合麻薬の除去開始。体内に存在する毒物の解毒分解処理を開始』
脳内に響いたネフティスの声に我を取り戻したダナンは瞳孔が開ききった男が差し出すグラスを叩き落とし、首根っこを機械腕で握りしめると茂みの中へ引きずり込む。
「俺に何を飲ませようとした」
男はゲラゲラと笑い、スキットルに入っていた水を一気に飲み干した。だらりと舌を垂らした男の蟀谷にマグナムを押し当てたダナンはもう一度「俺に何を飲ませようとした。答えろ」と話すが、返ってくる言葉は嬌声のみ。男の首を圧し折り、茂みから外の様子を確認した青年は一人居なくなっても知らぬ顔で踊る狂人の群れを見据える。
「……ネフティス、空気中に漂う薬の成分と薬効を確認しろ」
『了解』
「リルス、聞こえているか? 現在地の詳細情報を頼む」
「分かったわ。けど、ネフティスって誰? 協力者?」
ルミナの蟲に組み込まれている戦闘支援AIだ。そう一言呟き、茂みの中を移動したダナンは段々とリズムを上げていた音楽がピタリと止まったことに気づく。そして「神は居ない世界に人は居る!! ならばその世界で生きる者こそは皆神と同じであろうか!? いぃや違う!! 我等に法を説き、生を与える御方こそただ一人!! その名も」壇上で声高々にマイクを握る半裸の男を一瞥し「アェシェマ!!」と叫ぶ狂人達を素通りする。
連中の行動に一々反応などしていられない。これはパフォーマンスの一種なのだろう。激しさと静寂を以て人心を惑わし、熱狂させる手法。暴力を用いない支配方法。ネオンに光り輝く宮殿の柱に身を滑り込ませ、背をピッタリとくっつけたダナンは白い影が中へ入っていく様子を目にする。
導かれているのだろうか? 走り出そうとした瞬間、鋭い視線がダナンを貫いた。
その視線は無色透明な色を持たない不自然なもの。産まれたばかりの赤子のような、無垢なまま己を無辜と云わんばかりの傲慢不遜。目を向けられただけで心臓がキュッと握り締められた感覚を覚え、視線の主へ瞳を向けたダナンは反射的にアサルトライフルの銃口を向ける。
「貴男はだぁれ?」
全身の毛が逆立つ悪寒。息をするのも忘れ、心理的な束縛を仕掛けられたかのように動かなくなる身体。
「可怪しいわねぇ。誰も、だぁれも呼んでいないのに、どうしてみんな此処に居るのか分からないわ。あぁ、呼んでいるせい? 誰が? 私が? それともみんなが? そんなこと……どうでもいいと思わない? ねぇ……黒い人」
黒白の薄手のドレスに身を包み、首に枷を嵌めた絶世の美女。四肢に嵌められた宝石が散りばめられた爆破枷。艶めかしく、麗しく、闇に沈んだ一番星。淫欲の女帝アェシェマは怖気づくダナンに近づくと無精髭が伸びる頬を撫で、その横を通り過ぎる。
異質。人間とは到底思えない異常な存在。誰もが罪を犯し、悪に染まる下層街において一切の罪悪を成した事が無いと思える程に綺麗な女。だが、無色透明な空気に紛れる熟れた果実のような腐臭はその印象からかけ離れた矛盾の塊。
「何処へでも行けばいいわ。欲しいのなら勝手に持っていきなさい。私は貴男の為に、貴男は私の為に、みんなはみんなの為の欲望を剥き出しにしたらいい。みぃんな、自分の欲望に素直になるべきじゃない? それが一夜の夢であろうとも、ね」
脱兎の如く走り出す。アェシェマの視線から逃れるように、宮殿の中へ駆け込んだダナンを彼女は何時までも、姿が見えなくなるまで見つめると「ダモクレスみたいに、みぃんな好きに生きればいいのに」と呟いた。