闇を散らすネオンと空気に紛れる甘ったるい香水の臭い。煙に紛れ漂ってくるのは大麻香が燃える香りか、それとも催淫作用を孕んだ薬の残滓か。どちらにせよ、歓楽区に跋扈する壊れた人間が発する臭いは他の区とは全く別のものであり、女の甘さと男の饐えた汗が混ざり合った吐き気を催す文字通りの人間臭さ。アーマーを着込み、アサルトライフルのグリップを握り締めたダナンは踊り狂う娼婦を一瞥し、路地に座り込む男へ視線を寄せる。
腕に残る赤紫色の注射痕……関節の少し上を薄汚れたゴムチューブで縛り上げ、獲物を見据える昆虫のような目つきをした男は、震えながらも注射針を浮き上がる血管へ突き刺しシリンジに満たされた麻薬を注入する。一ミリずつ液が侵入するごとに男は恍惚とした表情を浮かべ、涎を垂らしながら白目を剥き、やがて全ての麻薬が男の体内へ注入されると全身を痙攣させ、小便と糞を緩んだ筋肉に任せ排出した。
壊れている。何もかもが、本能と理性がミキサーにぶちまけられ、切り刻まれながら溶け合っている。此処では己を制する理性は塵程の価値しかなく、欲望に煮え滾る本能こそ……我欲こそが至高と論じられようか。住人全員が欲望と肉欲を己に奉じ、その身に受ける快楽を、刻まれる苦痛を淫欲の女帝に捧げているのだ。故に、歓楽区は下層街の中で最も歪み、狂い、醜い生をネオンの下で咲き腐らせる。
女帝が統べ、支配する肉欲の坩堝とは、汚泥に咲いた腐った蓮の華と形容すべきだろう。溝底から沸き立つ腐臭を糧とし、弾けた水泡から発せられる腐敗した空気を吸収し、人を惑わせる狂気の香りを生む。歓楽区を牛耳る女帝、蓮の花の中に立つ堕ちた綺羅星、肉欲の坩堝首領……アェシェマに群がる蠅によって、この壊れた街は成り立っている。芳しき腐臭を放ち、奉仕と肉欲を至宝と断ずる女帝は、今日も歓楽区で一際異彩を放つ宮殿に座す。
売りに出される女と少年少女、舌を抜かれ、四肢の関節の先を切り取られ犬のように這う男。そして首輪を握って声高々に笑う醜女……。チラリ、と醜女の視線がダナンに突き刺さり、傍に立つスーツ姿の男へ耳打ちすると彼等は無言で電気ショッカーを懐から取り出した。
身の危険を感じる前に動いた腕はアサルトライフルの銃口を男へ向け、鋼の指が引き金を引いた。乾いた発砲音と共に飛び出した弾丸はスーツ姿の男の眉間を撃ち抜き、脳漿と鮮血を醜女の顔面に飛び散らせる。耳をつんざく悲鳴と鳴り響く首輪の鎖。四肢の先を捥がれた男……人犬の尻を叩き、樽のように太ましい身体を揺すった醜女は撃てもしないマグナムをダナンへ向ける。
彼女は恐らく中層街の富裕層。遊び感覚で人を買い、壊し、殺す真正のサディストだ。その証拠に醜女の首には色とりどりの宝石が散りばめられたネックレスがぶら下がり、指に嵌められている指輪の台座に子供の歯が嵌められている。勿論腕は一切機械化されておらず、老いて弛んだ皮膚と肉の厚みが贅沢な食生活を物語っていた。
下層街で中層街の住人に逆らう人間は余り居ない。否、何方も手を必要以上に出そうとしないのだ。相互不可侵条約を結んでいるワケでもなく、友好条約を締結しているワケでもない。何故なら、ただ単に無駄だから。下層街で死んだとしてもそれは自己責任。自ら危険な場所へ向かい、金にモノを言わせて好き勝手しても下層街は何も文句は言わない。だが、もし命を奪われたとしても、中層街の身分証明書を奪われたとしても、人攫いの被害にあったとしても、それ等は全て当人の自由意思による責任不足。下層体験ツアーで治安維持兵の傍を離れ、殺された中層民が居ても下層街は当たり前だと笑い転げ、死んだ人間が持っていた金品を嬉々として奪い取る。
故に―――迫り来る黒服を斬り捨て、撃ち殺し、醜女の腕を吹き飛ばすマグナム弾を僅かに身を逸らすことで回避したダナンは刀剣へレスを抜き、顎と首を断ち切り命を奪う。ゴロリと転がった醜女の頭を蹴り、身に付けていた金品を巻き上げた青年は虚ろな眼で見つめる彼女の所有物達を一瞥し、再び歩き出す。
救う必要も無ければ義務も無い。この区で首輪を嵌められたら最後、死ぬまで誰かの所有物で生きねばならない。物理的な枷を外そうと、精神を縛り付ける鎖と麻薬への依存は取り除けない。其処まで面倒を見る責任は無い。唖然とする所有物達は通りを走る自走機械に身を委ね、新たな商品名と番号を振り分けられると値札を提示し通りを往く。
『ダナン、リルスより通信です。繋ぎますか?』
「頼む」
脳内にネフティスの声が響き、ノイズが奔ったような音が鼓膜を叩く。次いで「調子はどう? ダナン。声、聞こえる?」と、リルスの声が機械腕の無線通信機能を通して聞こえた。
「あぁ」
「良かった。ナノGPSの反応は近いわ。どうやら通りの奥……肉欲の坩堝本拠地から流れているみたい」
ダナンの瞳が金と銀、鮮やかなネオンに濡れる宮殿を見据え、頷く。
「で」
「……」
「どうやって侵入するつもり? ドンパチでもするの? 止めておきなさい、多勢に無勢。兵隊の練度は無頼漢よりも数段格が落ちるけど、貴男一人で千単位の敵を相手に出来る? 無理よね?」
リルスの言葉に足を止め、その隙を見計らっていたかのように腕に抱き付いてきた娼婦を振り払ったダナンはブーツに吐かれた唾を地面へ擦り付け、通り一帯を見渡す。
踊る娼婦と買う男、路地の裏で盛る男女、薬が寄越す快楽に身を委ねる構成員……。喧騒が熱気を生み、醜悪な光に照らされるマンホールに近づいたダナンは足先で蓋を叩き、中が埋め立てられていない事を確認し、機械腕を唸らせ軽々と持ち上げた。
マンホールの先……悪臭が漂い、ゴキブリとネズミが這う闇の底。腰ベルトに吊っていたガスマスクを被り、ゴーグルを装着したダナンは手にグローブを嵌め、身を屈める。
「地下から行くつもり?」
「その方がお前も納得するだろう?」
「まぁそうだけど……。案内は任せなさい、貴男は自分の事だけに集中して」
「助かる」
「そ、ありがと」
ゴーグルの暗視機能を起動させたダナンは錆びた梯子に足を掛け、身体が完全にマンホール内へ入ると蓋を閉じる。密閉されていた地下……下水道は酷い臭いで満たされており、最低最悪な環境である為か毒素数値の上昇率も地上と比べて高い数値を示していた。毒素に冒された人間の老廃物と汚物が流れる場所だと考えたとしても、明らかに異常な値……。耳に這うゴキブリを払い、一気に梯子を滑り落ちたダナンは地面に群れていたネズミを散らす。
糞と尿、娼館から流れる泡立った汚水、正気を保ったまま下水道へ逃げ込んだ娼婦の死体。虫に集られ、ネズミに骨の髄まで齧られた死体は白い骨を剥き出しにした白骨体。くすんだ金メッキのロケットを握り締め、それを手に取り蓋を開いたダナンの眼に家族と思わしき写真が映る。
「……」
昔、まだ老人が生きていた時代。銃器店の一家が借金を返せずに歓楽区へ売られたという話しを聞いた事がある。その頃、ダナンはまだ子供で遺跡発掘者としてまだまだ駆け出しの未熟者だった。
「……」
深い溜息を吐き、写真に映る少女……老人から仲が良いと言われていた娘の姿と死体を見比べたダナンは地面に散った赤い髪を拾い上げ、ロケットに押し込めると蓋を閉じ、ポケットの中へ突っ込む。
意味の無い感傷だと理解している。こんなことをしても自己満足にしかならず、死者が喜ぶとは到底思えない。だが、何故か、これが正しい行動だと錯覚した。死者を弔う作法や礼儀も知らず、後悔先に立たずと云う言葉が脳裏に過ったダナンは白骨死体の頭を撫で、下水道の闇を見据えた。