ダナンという青年はリルスの知る限り決して他人を信用しない心を閉ざした男だった。彼と長年交流しているライアーズや老婆を完全に信じず、顔見知りとなった武器屋の店主の死も当たり前だと一蹴する冷血漢。牡蠣の貝殻のように固く、隙間なく、他人が入り込む余地など無い程に閉じた心は超高密度の炭素鋼とも例えられようか。
腕を組み、紫煙を燻らせるダナンは痛みに歪むイブを見つめ、機械腕の装甲を指で叩く。その様子を傍目に、少女の診察準備の為にアタッシュケースを開いたライアーズは「どうしたのよダナンちゃん、産気づく女を待つ男みたいにそわそわして」と軽口を叩いた。
「別に焦っちゃいない」
「そう? 何か心配事でもあるの?」
「何でも無い」
嘘だ。キーを叩きながらダナンを一瞥したリルスは二人の会話に聞き耳を立て、彼の言葉の間にある違和感に気づく。
一見してみれば淡々と、興味が無いように聞こえるダナンの言葉は彼自身の冷たい人柄が滲み出ているとも捉えられるだろう。しかし、リルスは青年の煙草を吸うペースが通常よりも少しばかり早くなっていることを見抜いていた。
「ダナン」
「何だ」
「遺跡……M区画で何があったの?」
「さっき言った通りだ。後は特に何も無い」
「本当に?」
「あぁ」
M区画で何があったのか、それはダナンとイブ以外知る由も無い事。異常な毒素数値を叩き出し、常に命の危険が付き纏う区画をリルスは知り得ない。青年の機械腕に組み込んだ通信機器も、ローカル・ネットワークを利用した個人間回線も、遺跡の毒素と通信距離が遠くなる程役にたたなくなるのだから。
イブとダナンを交互に見つめ、膝を抱えたリルスは溜息を吐く。何かと考えなければならない事が多すぎる。依頼主へ探索結果を報告する前にダナンの機械腕とPCを繋ぎ、バックドア・プログラムの動作確認作業をしなければならない。情報データの処理、価値のある情報の解析と精査……。イブが倒れていなければ今日か明日にも終わる予定だった作業の山を頭の中で整理したリルスは精密検査機器で繋がれた少女へ視線を這わせ、ライアーズの言葉をダナンと共に待つ。
連続した短い電子音、アタッシュケースの内側から伸びるモニター・アーム、そして画面に映る電子暗号化された情報群……。コネクトケーブルと機械眼を接続し、イブの身体データを眺めていたライアーズは手元のメモ用紙にゴチャゴチャとした文字を書き殴り、暫く沈黙すると深い溜め息を吐いてケーブル接続を解除した。
「……ダナンちゃん、リルスちゃん」
この娘、何者? と、感嘆したように息を吐く。
「何者って、どういうこと?」
「先に言っておくわ。アタシじゃこの子の身体を治すのは無理よ。技術力に天と地の差があるもの」
「ライアーズ、理由をハッキリ言え」
「……ダナンちゃん、動物が人間の身体を手術出来ると思う? 下層街で走り回る野犬が白衣を着て、手術台の前でお行儀よく完璧な施術が出来るとでも? イブちゃんの中で動き回ってるナノマシンは未知の技術……それこそアタシ達が遺跡と呼んで、遺産として扱う技術に似通ってる性質を持ってるわ。今の人間には手が出せない代物なのよ、この子の身体は」
「だが」
何と言っても無理なものは無理。不可能を可能にするなんて神様じゃなきゃ……遺跡の遺産じゃなきゃ出来ないわ。道具類をアタッシュケースの中へ押し込み、立ち上がったライアーズは奥歯を噛み締めるダナンを一瞥し、手をヒラヒラと振る。
「けど」
「……」
「治療する方法が無いとは言わないわ」
「話せ」
「ハカラ・デッキを探しなさい。それさえあれば、私でも何とか出来るかもしれないからね」
「何だそれは」
「デッキよ。まだ下層街に一台は残ってると思うわよ? アェシェマの売女のところにね」
デッキ……。神経接続型精神没入機器。現実世界の苦行に耐えきれなくなった弱者が仮想の世界に没入する為の機械類をデッキと言い、用途に合わせてソフトウェアを組み替える逃避物。個人購入するためには莫大なクレジットが必要であり、金が無い弱者は肉体全てを担保にして一時的な安らぎを得る。
勿論デッキを購入する資金などダナンとリルスに在る筈がない。それも、聞いた事も無いソフトウェアを所持している存在が下層街を取り仕切る三組織の一角、肉欲の坩堝の首領ならば最早望みは薄いとも云える。燃え尽きた煙草をゴミ箱へ投げ捨て、暫し逡巡したダナンは「少し出てくる」とリルスへ言う。
「ちょっとダナン、少し落ち着きなさいよ」
「俺は冷静だ」
「冷静な奴はそんな言葉を吐かないわ。理解ってるの? 相手はアェシェマよ? 冗談じゃないわ、馬鹿げた行動は」
「奪わなければ奪われる。殺さなければ殺される。奪うんだよ、失いたくないから」
「でも―――ッ!!」
止めたとしても彼は納得しないだろう。納得しないから制止を振り切ってでも行動に移す。手を伸ばすリルスの声を遠ざけ、玄関へ向かったダナンは銃を構え、何も無い空間へ向かい銃弾を撃ち放つ。
「……」
気のせいか? いや、違う。濃い血の臭いが青年の鼻孔を刺激し、首元に当てられた冷たい刃の感触。
「取引だ遺跡発掘者。デッキが欲しいんだろう? くれてやる。だが、先ずは商談といこうじゃないか」
視界にノイズが奔ったような奇妙な感覚。アナログ回路のノズルを滅茶苦茶に捻り、明滅と砂嵐を同時に見せられた不快感。一切の気配を遮断し、部屋に居る三人に存在を認識させなかった全身黒づくめの男は闇の中に映える豆電球を思わせる瞳でダナンを見据え、首の皮と肉を薄く斬り裂いた。
「死者の羅列……」
ライアーズが呟き、男は溜息を吐く。
「それ以上話してくれるなよライアーズ。何も喋らず、知らず、見えず、気付かない方がお互いの為だと思わないか? えぇ? だから、黙っていてくれよライアーズ……俺は大切なお友達を無暗矢鱈に失くしたくない」
合成音声のような、男と女、機械と肉が入り混じるような声を発した男はナイフを懐に仕舞い込み、空気に掻き消えるが如く姿を消す。足音も、息遣いも、気配さえも遮断してみせた男が再び姿を見せた頃、彼はリルスの背後に立ち指先でナイフを弄ぶ。
何らかの強化施術、或いは遺跡の遺産か? 銃口を男へ向け、視線を用いてリルスを呼んだダナンは「取引だと? 死者の羅列が何の用だ?」と照準器を覗き込む。
「なぁに簡単な仕事さ遺跡発掘者。歓楽区へ行って、俺の妹を連れ戻して欲しい。それさえ出来たらデッキをくれてやると言ったんだ」
「釣り合いが取れていないし、何の脈絡も無い」
「そうとも、俺が提示している条件は云わば不平等契約に近い。いや、そのものだと言っても差し支え無いだろうさ。だから、破格な仕事だと思わないか? ダナン」
「何故俺を知っている。仕事なら他の遺跡発掘者や無頼漢の連中に押し付ければいい」
「それが出来ないからお前を選んだんだよ。本当はこの小娘に用があったんだが、動けないなら近くに居た人間を使うまで。依頼主は俺じゃなく、妹なんだからな」
「言ってることが滅茶苦茶なのを理解して口を動かしているのか? 死者の羅列」
「疑って貰っても結構。俺達は取引に関しちゃ嘘を吐かないし、双方に利益が出るやり方を好む。何を迷う必要がある? デッキを買うクレジットがあるのか? 中層街へのコネはあるのか? お前が必要なモノを何でも一人で調達出来る術はあるのか? 答えはノーだ。お前達の経歴と仕事歴をざっと調べてみたが、とてもじゃないがデッキを手に入れる事は不可能だと思うぜ、俺は」
「……」
考えている暇は無いという事か。今にも男の指先から零れ落ちそうなナイフとリルスへ皇后に視線を巡らせたダナンは、小さく「引き受けよう」と呟いた。
「取引は成立だ。妹の身体にはナノGPSと電気ショッカー発生装置が付いている。後で追跡コードと解除キーを送付するから、リルスから受け取れ。じゃぁな、遺跡発掘者」
男は瞬く間に姿を消し、部屋から去る。胸につかえた重い息を吐き、落ち着いた様子を見せるダナンは装備を整え「後は頼んだリルス。それと、ライアーズは彼女を守ってやってくれ」リルスとライアーズ、横たわるイブを残して部屋を後にした。