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座標

 M区画中央制御室に満ちるは風化した死の静寂。軍服を着たまま椅子に座す無数の遺骨は互いに互いの銃を向け合って眉間を撃ち抜いたようで、だらりと首を後方へ垂らしていた。


 通路に蔓延るゾンビが一体も存在しない異常な様相。ダナンは銃を構えたまま蒼い球体から視線を逸らし、一体の死体に近づくと機械腕で頭蓋を砕き、身に纏っていた軍服を破り取る。


 「……」


 炭のように黒ずみ、塵屑となった滓溜まり。脳だった筋肉の塊は長い年月によって腐り、小さな肉塊となっていた。そして、脳と同様に心臓もまた塵滓へ帰し、軍服の裏側からサラサラと流れ落ちた。


 隔離扉でこの部屋と通路を遮断し、ネクロス・ウィルスによる過死感染を防いだのだろうか? だが、何故その行動を取る必要があった? 死体から目を離し、蒼い球体を見つめるイブへ視線を向けたダナンは「どうした? 何かあったのか?」と少女の視線を追う。


 蒼い球体……いや、星と評すべきだろうか。蒼穹と蒼海で覆われた球体の地表には幾つもの割れた大地が広がり、人型マークの横には九桁の数字が表示され、現在進行形で数が減っては増えていた。


 「……」


 歯を食い縛り、後悔と憎悪が入り混じった憤怒の顔。両手を握り締め、赤い点を凝視するイブは球体を映し出す投影装置へ修復された銀翼の一枚を突き刺し、七色の瞳に朧気な電子の光を宿らせる。


 「おい、これは」


 「地球よ」


 「地球? 何だそれは」


 「終わってしまった蒼い星。大獄に囚われた世界の残り滓。現人類が捨て去った大地の名前。どうしてそう不思議そうな顔をするのよ、ダナン」


 「聞いた事が無い」


 「……は?」


 「地球なんて言葉は聞いた事が無い。なんだそれは、お前は何を言っている」


 ありえない。驚愕と怒りが極限にまで煮詰められた表情を浮かべたイブと、何故彼女がそんな顔を浮かべているのか理解できないダナン。二人の間に立ち塞がる不可視の壁は、認識の齟齬と見ている世界のズレを表す視点の相違なのだ。


 「ちょっと、笑えない冗談は止めてよ。私達が生きている世界は、立っている大地は地球なのよ? 分かってるでしょう?」


 「違うだろ? 俺達が生きている世界は塔であって、立っている場所は下層街の筈だ。そもそも地球は……これが俺達が住んでいる世界なのか? 違うだろ、塔の外はこんなに青々とした大地は広がっていない」


 塔の外は荒れ果てた荒野が広がる死の世界。規格外の毒素……ガスマスクを一分で使用不可能にする程の致死量を超えた毒素が空気を穢し、茶褐色に焦げた大地を歩む生物は異常進化した危険生物。外界では人間など文字通り脆弱で矮小な存在、塵芥に過ぎない。蒼い球体のように……イブが地球と呼ぶ星のように、美しい大地は広がっていないのだ。


 一度……老人に連れられ塔の外に出た事があるダナンにとって、外界は正に終わった世界と言ってもいい有り様だった。急速に腐食するフィルターと悍ましい鳴き声を響かせながら叫び狂う外生物。山程の巨体を持つ大岩のような表皮を持つ生物と云っても良いのか危うい存在……。


 塔の下層街は辺獄であり、人間が人間を簡単に殺す殺伐とした世界。塔の地下に広がる遺跡は人と殺戮兵器、実験生物、侵入してきた外生物がお互いに殺し合う地獄。そして、外は一切の常識と理屈が通用しない死が蔓延る灰と赤褐色の世界。美しさとはかけ離れた大地を思い返し、球体を見つめたダナンは「ありえない……」と呟き、湧き上がる恐怖を飲み込んだ。


 「……ありえないなんて事は無いわ。地球は一度死んだの。だから私は使命を、計画を成す必要があった。いえ、私だけじゃない。カナンも……彼女も使命を果たす必要があったのに、あの愚妹は自分一人で諦めて……ッ!!」


 奥歯が噛み砕かれる音が響き、イブの口角から血が流れる。一つの線を描いた血を拭い、投影装置をハッキングするイブが片目を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。


 『管理者イブ、貴女にアース・ホログラムを操作する権限は与えられていません。方舟の管理者は現在も名無しのまま。今すぐにハッキングを止めて下さい』


 「黙りなさい、AIの分際で指図しないで」


 『アース・ホログラム強制切断を実行。同時に信号受信。アース・ホログラムへ座標を表示します。また、メッセージを受信。送信者はDr.カミシロです』


 バツン―――と、銀翼から電流が迸りイブが白目を向いて痙攣する。口から泡を吹き出し、四肢を硬直した少女を抱き留めるダナンは、アース・ホログラムに重なるように浮き上がった丸眼鏡の男を見る。


 疲労困憊と云った様子で頬が痩けた白衣の男。齢は四十代半ばと云ったとろこだろうか。いや、見た目以上に若い可能性もあるが、皺と無精髭で隠された素顔からは正確な年齢を推測するのは不可能な事。


 だが「……」ダナンはカミシロと云う名と、ホログラムで浮き上がった男を何処かで見たような気がした。「……」思い違いか、それともただの気のせいか。記憶の奥底に降り積もった原初の記憶―――その断片に彼と同じ顔をした科学者の顔があるのは何かの間違い。脳の誤作動による混乱。青年は……カミシロなんて男と会った事すらないのだから。


 『あ、あー……聞こえてるかな? シェロ、マイクとカメラの準備は出来ているかい? あんまり笑わないでくれよ―――、笑っていないって? 長い付き合いだ、君の僅かな表情筋の動きでどんな表情を浮かべているのか理解できるよ。だけど……まぁ、うん。久しぶりだね、イブ、カナン、それと―――』


 映像メッセージのカミシロが申し訳無さそうな顔を浮かべ、乱れた髪を掻き毟る。データの一部が破損しているせいか所々ノイズが奔り、音声が飛んでは映像が乱れ、虫食い状態のフィルム映画を見ているよう。


 『君たち―――が揃っているということは、――E―計画を実行に移す時が来たという事だ。だけど、それは失敗する。確実にね。だから盟友の―――が別の場所に希望を隠してくれた。ネフティスに座標を残し、信号キーによるセキュリティ解除で私のメッセージと希望の在り処を送る。これ以上の記録は上層部に嗅ぎつけられる可能性がある。故に、一つだけ伝えておく。……私もシェロも、君達姉妹を愛している。親として何も残して―――』


 ぷつりと映像が途切れ、カミシロと銀髪の女性……シェロと呼ばれた女性が笑顔のまま消える。メッセージが終わると同時に、ダナンの機械腕に座標番号が記された画像データが送られた。


 他人事の筈なのに、何故か胸を強い衝動が駆け巡る。彼の名と声に懐かしさを覚え、銀髪の女性に焦がれる心がダナンの精神を掻き乱す。ぐるぐると回る思考と明滅する視界。機械腕の鋼に爪を立て、言い得ぬ吐き気を覚えた青年は冷静さを取り戻す為に一頻り叫び、意識を取り戻したイブの瞳を一瞥する。


 「ダ……ナン? ……ッ!?」


 全身を引き攣らせ、大きく目を見開いたイブは息を荒げ肩呼吸を繰り返す。


 「……」


 不要な感傷に浸るのは後だ。少女を背負った青年は「ネフティス、最短経路で脱出ルートを探せ。下層街へ戻る」指示を下す。


 『了解しました。信号受信、メッセージ確認による本人確認を完了。緊急脱出エレベーター起動権限取得。ダナン、中央制御室から塔へ移動する準備が整いました。脱出口、開きます』


 金属が折り畳まれた壁の先に在るのは、大人三人分のスペースが確保されたエレベーター。イブを背負ったままエレベーターに乗り込んだダナンは操作パネルに指を這わせ、上昇コマンドを入力する。


 「……イブ」


 「な……に?」


 「俺とお前は」


 何処かで会った事があるのか? 少女に残る銀の女性の面影を見たダナンは小さく呟くと、揺れるエレベーターの振動に身を委ねた。


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