天井に組み込まれた人工照明の一切が消え失せ、最低限の電力で動くM区画情報集積場は、情報媒体の駆動音と書き込み音に満ちた墓場の様。床に降り積もる塵や埃を吸い込み、可燃性燃料として半永久的に駆動する小型自動掃除機はサーバーラックを守護する管理者か。
イブに支えられ、重い鉄扉を押し開けたダナンは緑と赤のランプが明滅する情報端末を一望する。大小様々な端末機器はどれも情報の価値を理解する遺跡発掘者であれば。涎を垂らしてしまう程の宝の山。だが、ダナンはそれらを無視して他の機械よりも二回り大きい情報端末に近づくと、機械腕のハック・ケーブルを引き延ばす。
今回の仕事はM区画の探索調査だ。情報を抜き取り、精査する前にバックドアを仕込み、情報データの解析と照合を容易にしなければならない。危険に満ちたM区画を何度も往復する事は己の命を削り、生存を脅かす。
故に、今はリルスのPCと情報集積所のメイン機とネットワークを繋ぐべき。ハック・ケーブルをコネクトソケットへ差し込み、機械腕とメイン機を繋いだダナンはハッキング・プログラムを奔らせ暫し待つ。
『黒鋼・零式が居住区主要情報端末と接続されました。管理者名、名無し。ネットワークの接続を確認。バックドア・プログラム及びエノクとの回線共有を設立。完了まで暫しお待ちください』
ネフティスの声が脳に響き、一息ついたと固い息を吐いたダナンは地べたに座り込む。
これで一つの仕事が終わり、後は下層街……地上へ戻るだけ。リルスから金を受け取り、また新たな仕事が舞い込むまで変わらない日々を過ごせばいい。プログラムを走らせる機械音へ意識を向け、ふとラックの上に腰かけるイブへ視線を向けたダナンは彼女の姿に瞳を奪われる。
闇の中で仄かな明かりを放つ神秘的な佇まい。何処か憂いを帯びたような、悲哀を噛み締めているような、儚い横顔。片膝を抱え、銀翼で己を包み込んだ少女は白銀の長髪を指先に絡め、重い溜息を吐いていた。
吊り橋効果……。命の危機を分かち合い、窮地を脱した際に芽生える感情の錯覚。彼女に瞳に奪われるのも、その横顔へ声を掛けたいと思ってしまうのも、全ては気の誤り。頭を振るい、瞳を閉じたダナンは機械の唸りに混じる綺麗な歌声を耳にする。
悲し気な曲調の細い声。歌詞を聞き取る事は出来ないが、聞いた事のある曲に耳を傾けたダナンは「……良い歌だな」無意識に口を開く。
「……聞いてたの?」
「……別に盗み聞きをしようとしたワケじゃない」
「そ、別にどうでもいいけどね」
「……イブ」
「なに?」
「お前は……」
何を知っていて、何を求め、どうして俺に手を貸す。その言葉を呟いたダナンはハッと己の口を塞ぎ、奥歯を食い縛る。
これは甘えだ。簡単に相手の考えを得られると思ってしまった愚行。他人を信じようとせず、信じられない己へ彼女が簡単に口を割るものか……‼ 冷汗を掻き、珍しく焦った様子を見せたダナンは銃を握る。
イブは眉間に銃弾を撃ち込まれても死にやしない。いや、そもそもダナンの心臓は少女が握っているも同然なのだ。弱さを見せ、それが束縛と支配へ繋がる現実を知る青年は皮肉な笑みを浮かべ、馬鹿馬鹿しいと笑う。
信じてと言われ、イブを信じた。信じると話したのに、未だ完全に彼女を信じられずにいる矛盾。下層街で生まれ育ち、悪意と罪悪の中で生きてきたダナンにとって信用と信頼はハリボテの腐れ板。少しでも足を乗せ、身を任せてしまえば破滅へ至る脆弱な心情に他ならない。
イブは甘えや依存と云ったダナンの弱さにつけ込んでくるのかもしれない。これ見よがしに彼の弱点をほじくり返し、心理的強者の位置に立とうとするだろう。それが恐ろしく、心身を縛る枷を嵌めてくる。頭を踏み付け、二度と立ち上がれなくなるのなら―――生きる為に全身全霊の抵抗を見せつける他術は無い。
「イブ、今の言葉は」
「……どうしてかしらね」
「……」
「実際、私は到の昔に失敗しているのかもしれない。自分自身の使命さえ達成できずに、全てを無くしたのに醜く、みっともなく足掻いているだけなのよ。……ねぇダナン、一度の失敗は取り戻せると思う? いえ……終わってしまった、何もかもをもう一度握り締める事が出来ると思う? 私には……それが分からないの」
へレスの柄に手を掛け、刃を抜き放とうとしたダナンをイブの瞳が射抜き、問い掛ける。疲れてしまった少女から透明な雫が頬を伝って流れ落ち、銀翼に弾かれた。
一度の失敗を取り戻そうと足掻き、藻掻いた末に後戻り出来ぬ場所まで沈む。下層街ではそれが一般的で、稚児でさえも知る生物的本能だ。右腕を潰され機械の腕に挿げ替えても、老人に命を救われたダナンは恵まれていると言っても過言ではない。
自信が無ければ、不確定要素が多い質問に答えられる筈が無い。イブの言う失敗が何であるのか、何故彼女が涙を流しているのか理解出来ないダナンは頭を掻き、項垂れる。
己は強くない。強く見せる為に感情を殺し、下層街の生き方に従っているだけ。それはダナンが最も忌み嫌う支配と服従、束縛に屈している姿そのものであり、彼の唯一絶対なる願い……生きたいと云う欲求に反する姿勢。生きながらに死に、飼い殺しにされている弱肉強食の奴隷なのだ。
下層街に居る限り……否、塔で生きているダナンに元より自由なんて言葉は存在しない。他人を信用せず、信頼も出来ない青年は人間以下の畜生。塵や屑と言われても反論すら出来やしない半端者。死にたくないから他人を殺し、奪われたくないから何かを奪い、生きていたいから牙を剥く。己は弱者にも成り切れず、強者にもなれない臆病者なのだろう……。
「……昔」
「……」
「昔、爺さんは青い空と緑の樹々を見たと言っていた。今じゃ塔の外は荒れ果てた荒野だけだが、昔は青空と森ってのがあったんだろう?」
「……えぇ、そうね。昔って言っても数百年も前の話だけど」
「……本当にあったんだな?」
「そう言ってるじゃない」
機械腕から短い電子音が鳴り響き『作業完了。帰投して下さい』ネフティスの声を聞いたダナンは小さく頷き、ゆっくりと立ち上がる。
「イブ、お前の使命とか計画は何を目的にしている」
「なに? 興味があるの?」
「……俺は生きていたい。けど、生きるだけじゃ意味が無い。……青空が見たいんだ、俺は。爺さんとは違う、本物の青空と緑の樹々が見たい。お前は俺に手を貸すと言ったな? 俺もお前を手伝う。だから……一緒に空を探してくれないか? お前が失敗したと思っていても、それはまだ間に合うかもしれない。まだ……失敗したと決まったワケじゃない」
「……」
少女の瞳が見開かれ、青年の黒い瞳を見据えるとクスリと笑う。
まだ計画の内容や、使命の意味を話してさえいないのに手を貸そうとするダナンはお人好しの甘ちゃんに見えるかもしれない。これまでどんな言葉を掛けても協力の話しを出さず、疑惑と猜疑に眩んでいた青年は、初めてイブの意を汲み上げ手を差し出す。
「……厳しい道程よ?」
「そうか」
「私だって明確な答えを持ち合わせていないのよ?」
「俺達なら……俺とリルス、イブならきっと見つける事が出来る」
「私は何も話していないのよ?」
「お前が俺を信じてくれるなら、俺もお前を信じていよう。俺が言うのも難だが……自分一人を信じても良い。だが、俺はお前とリルスを信じられるよう努力する。それが一番効率的で、合理的だからな」
きっと、ダナンの心は怯え竦んでいるのだろう。信じる事を知らず、信じられた事も実感できなかった青年が振り絞った勇気にイブは涙を拭い、ラックの上から地面へ飛び降りる。
「……ダナン」
「何だ」
「足、震えてるわよ?」
「在り得ない」
「冗談よ、冗談。宜しくね、ダナン」
そして、少女は青年の手を握り、安心したような笑顔を浮かべた。