昼夜の境界線を示す人工太陽が存在せず、視界を照らす光は街頭の拙い明かりだけ。デジタル時計の数字が終業アラートを響かせ、その日を生きる為のクレジットを振り込まれた労働者達は疲れた身体を引きずり下層街居住区へ歩を進める。
毒素を除去する為の処理労働、全自動工場で発生するエラー解除の仕事、カメラで一挙一動を監視されながらの畜産作業と農場管理……。超低賃金で酷使される労働者の日銭は休憩無しで十二時間働こうとも僅か二千クレジット。賃貸物件の月額料金が五万クレジットであり、それまでの生活費を除けば彼等の手元に残る金は千クレジットにも満たなかった。
養殖物や青果類、菜類等は安くて……極限まで値引きされてもグラム単価五百クレジット。痩せ細った野菜では腹を満たす事は叶わず、食用肉も買えない労働者は人肉を加工した一個五十クレジットの肉団子を買い、完全栄養食のゼリーパックと併用して空いた腹を満たす。
何時死ぬか、何時まで生きられるか分からない日常。痩せ細っても支援の手など在るはずが無く、経年劣化で錆びついた機械腕を整備する金も無い。コードに入金されたクレジット残高を機械眼の視覚モニターに表示した男は深い溜め息を吐き、自宅の郵便受けに溢れる催促状と警告状の束を引っ張り出した。
クレジット・ローンと常識外の金利で金を貸し付ける闇金融の催促状、電気水道ガス等のインフラ使用料金の滞納警告状、これ見よがしに紛れ込む生体部位売買の広告……。最早男には売ることが出来る生体部位は存在しない。心臓は劣化循環器で補い、腎臓や肝臓は代用機械部位で補完し四肢も機械義肢、両目だって機械眼の有り様だ。下層街最底辺の上澄み、辛うじて労働に従事する男は生身の人間よりも性能面で劣り、機械部位で構成される完全機械体の人間に侮蔑され、嘲笑される存在。半端者、敗北者と揶揄される弱者なのだ。
ドアを開け、部屋へ足を踏み入れた男は広告と書類をフローリングの上へ撒き散らし、気を失うようにベッドに倒れ込む。ここ三日間、何も食べていない身体は栄養とカロリーを欲していたが、何を食べても吐き出してしまう男にとって食物類は毒物にしか感じられなかった。失せた気力で働き詰め、性も根も尽き果てた男はテーブルの上に置かれた白い天使の偶像を視界に収め、倒れたまま祈りを捧げる。
人生が不平等であるのなら、その果てに在る死こそが万物なる真の平等。人は死ぬ為に生き、魂と肉体から解放されるために死を求めなければならない。死を忘却した者には辛く厳しい生が課せられ、剣山が敷き詰められた苦行を歩まねばならぬ。
だが、その苦難と辛苦に塗れた生から我々を解放して下さる存在こそが白き聖天使なのだ。救世主の片割れである白き天使を崇め、讃えた者にだけ真の安寧たる死が訪れる。故に、甘き死を求めし盲目の羊よ、教祖の教えに殉じ天使の再訪を願い、祈れ。それこそが我々……男が信奉する教団、震え狂う神の教義であり教示。
信ずる者は救われる。信じなければ救われない。信じようと、信じまいと、宗教という無味無臭の精神薬は男という個人の心を救っているに違いない。他者から愚かだと罵られようが、何の価値もない愚行と嘲られようが、苦しみを緩和する教えこそが下層街で生きる弱者の精神的支柱だと云えよう。
気怠げに起き上がり、込み上げてくる吐き気を感じた男はトイレへ駆け込み胃の内容物を便器に吐き出す。黄色い胃液に混じった細い赤。痛みを訴える腹を押さえ、機械の軋みを上げた男はふらふらと立ち上がると小口径の拳銃を握り、蟀谷に銃口を押し付ける。
此処で終わりにしよう。この命が病によって消え失せる前に、この手で命を断つ。深呼吸を繰り返し、震える手で引き金を引こうとした男はふと……隣の部屋に住み始めた少女の存在を思い出す。
確かあの部屋に住んでいた人間は、右腕を機械に換装した無愛想な青年だった筈。奴の愛人か恋人か? それとも妹か? いや……妹であれば肌の色が違いすぎるし、顔も全然似ていない。あれだけ美しい少女が青年の妹である筈が無い。ならば……最期に少しでも良い思いをしても構わないだろう。銃で脅し、犯してしまえ。
獰猛な獣のような笑みを浮かべた男は壁に耳を寄せ、聞き耳を立てると青年の声が聞こえな事を確認する。何やら話し声が聞こえたが、声は少女一人だけのもの。彼はそっと扉を開けると隣室の鍵穴へ銃口を向け、撃鉄を下ろした瞬間、連続した重い射撃音が居住区に木霊した。
「―――」
脇腹から血が溢れ出している。否、それ以上に胴体が骨と皮で辛うじてくっついている状態。刹那、首をヘレスの刃で絶たれた男は屑を見るような視線を投げかける青年の、彼の隣に立つ白い天使を思わせる少女を暗くなる視界に収め、最期に笑った。
「……引っ越すべきだろうか」
「ダナン、いきなり撃つことは無いと思うんだけれど」
「馬鹿を言うなイブ。此処にはリルスしか居ない。アイツは戦えないんだよ」
ダナンは男の生首を蹴り飛ばし、血を吹き出す胴体を軽々と持ち上げ通りへ投げ捨てる。その様子を目にしたイブは軽い溜息を吐き、死体に群がる子供と浮浪者を一瞥した。
「でも、引っ越しはどうなの? 下層街で治安の良い場所なんて無いと思うのだけれど」
「一応ゲート近辺は比較的治安が良い。だが、その分割高だ。居住区でもれっきとした格差があるからな」
「へぇ、ならこのボロアパートは?」
「クソそのものだな。隣人の顔も覚えていないし、強盗の襲撃もある。お前とリルスが住むのなら、引っ越しも検討するべきだろう」
部屋の鍵を開け、その後に設定したパスワードを操作パネルに打ち込んだダナンは買い物袋を腕に提げたまま、イブと共に居室へ足を進める。
「あら、帰って来たのね。どう? 仲直りは出来た?」
「それなりに。リルス、頼まれていたモノを買ってきたぞ」
「ありがと」
背筋を伸ばし、凝った肩を揉んだリルスは何と言えばいいのか逡巡するイブを見つめ、彼女の肩を撫で「おかえり、イブ。お腹すいたでしょ? ご飯作るからちょっと待ってなさい」綺麗に片付けられた……使用された形跡が一切見当たらないキッチンへ向かう。
「……リルス」
「なに? あぁ好き嫌いとか聞かないから。腹に入れば全部同じよ?」
「その……ただいま」
モジモジと、手先を弄くり回しながら呟いたイブへ微笑んだリルス。そして興味が無さそうに椅子へ腰掛け煙草に火を着けるダナン。三者三様の微妙な信頼関係。手早く料理の準備を進め、皿の準備をイブへ指示した少女は紫煙を燻らせるダナンに「少しは手伝ったらどう? この甲斐性なし」と悪戯な笑みを向ける。
「いいのか? 俺が手を出して」
「……やっぱり止めておくわ。イブ、お願いがあるんだけどテーブルの上に溜まったゴミを片付けて頂戴。未開封の煙草も捨てていいわ」
「分かった。カートンごと捨てるわね」
「……俺は何をしたらいい? リルス」
「別に動かなくてもいいわよ? 必要の無いモノを処分するだけだから」
仕方無しに立ち上がり、火種を潰したダナンはゴミ袋を引き出しから取り出し大きく広げるとイブへ渡す。
久しぶりの……それこそ遠い昔、まだ家族が揃って食事を摂ることが出来た時代。その風景を想起したイブは無意識に笑う。部屋の掃除をしているだけなのに、何故この瞬間が、二人との会話が何よりも大切な事だと思えたのだ。
「ちょっと貴方達、真面目にやらないと食えないモノを出すわよ?」
「俺は真面目だ」
「私もよ?」
「……機械腕用の整備オイルは何処だったかしら」
まだこの関係は不安定で、今にも崩れ落ちそうな拙い積み木の山。信じようとする者が居て、信じまいとする心が絶妙に組み合った欠けたパズルの様。
「ダナン」
「何だ」
「……これから、よろしくね」
「あぁ」
不機嫌そうに返事を返したダナンへ笑いかけ、リルスの手伝いを進めたイブは本当に……年相応の少女のように微笑むのだった。