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辺獄

 濃い香水の匂いと腐れ落ちた果実の香り。欲望を焦がすは肉欲の熱か、肉欲が焼くは欲望の薪か……。


 死んだ魚のような光が失せた眼の少年少女が商品として売買され、武器武装を外された改造機械によって鎖に繋がれたまま通りを練り歩く。ネオンの下で踊り狂い、客と見做した者を老若男女問わず娼館へ抱き込もうとする娼婦の腕は紫色に染まり、薬物により肉体と精神を冒されていることは明白だった。


 二十四時間三百六十五日、昼夜の概念が失せた下層街で一際照り輝く区画『歓楽区』は欲望に燃える鉄釜、肉欲と性欲に溺れる壊れた者が集まる区。人拐いによって娼館に売られた者、中毒性の高い麻薬に精神を蝕まれ、逃れられなくなった者、歓楽区の何処かで産まれ自我を得ないまま生きる者……。歓楽区とは下層街の罪の温床であると同時に、表向きは華やか極まる場所なのだ。


 煙草の火種を燻らせ、紫煙を吐き出したダナンは麻薬を売りつけようとする売人の腕を圧し折り、近づく娼婦を睨みつけると隣を歩くイブへ視線を寄せる。


 冷えた目つきと鋭利な怒り。歓楽区の惨状を目の当たりにしたイブは怒りはするものの、己の内で吠え狂う激情を捻じ伏せているように感じられた。


 「イブ」


 「……」


 「何か言いたいことがあるのか?」


 「言いたい事より、聞きたいものね」


 「……」


 「ダナン、私は聖人でもなければ神様でもないわ。れっきとした人間よ、貴男と同じようにね。けど、此処は何なの? みんな家畜みたいじゃない」


 地べたに座り込み、微動だにしない老人と麻薬の禁断症状に怯える子供。客を取って来られなければ殺すと脅され、泣き叫ぶ女。肉体改造を施された歪な造形の娼婦に欲情する男達。少女が彼等を家畜と侮蔑し、何の価値もないと言うのも納得できる。


 「それが歓楽区だ。だが、まだマシな部類だろうな此処は」


 「マシ? 何処が?」


 「意味もなく人が死なないからだ」


 「……どういう意味?」


 「歓楽区……いや、下層街には法と秩序は存在しない。弱者は強者に喰われ、強者は更なる強者に喰われる弱肉強食の世界。だが、それでも自分勝手なルールが存在しているのもまた事実。イブ、歓楽区では絶対に女子供、首輪に繋がれた男を助けるな」


 「理由を教えて頂戴」


 「住人の様子を見ていれば分かる」


 そう言ったダナンの視線が裸に剥かれる少女へ伸び、下卑た笑みを浮かべる治安維持兵の男が鼻息を荒くして涎を垂らす。


 違法製造された興奮剤と精力剤の混合薬物。少女の頬を殴り、眼を血走らせた男は彼女を己の所有物であるかのように嬲り、犯し、凌辱の限りを尽くしていた。


 「ッ‼」


 それは義憤か憤怒か義心なのか。イブの身体を包みこんでいた銀翼が美しい羽根を舞い散らせ、感情の高まりを示す輝きを放つ。


 「止めておけ」


 「ダナン‼ あの子が」


 「アレはあの男の所有物だ。この区のルールに則り金を払い、商品を買って遊んでいるだけに過ぎん。イブ、お前は赤の他人に商品を奪われたら、ただ遊んでいるだけなのに攻撃されたら怒るだろう? そう血相を変えて吠えるなよ」


 「でも!」


 「でもも何故も無い。イブ、お前は一人で組織と全面戦争がしたいのか? なら一人でやってくれ。俺を巻き込むな。それによく見てみろ。あの商品が苦しんでいるように見えるか?」


 滅茶苦茶に犯され、嬲られている少女は狂気染みた笑顔を浮かべ、男の苛烈極まる肉欲に媚びへつらう。


 「元から壊れているんだよ、此処の商品は。産まれた時は普通だったのかもしれない。正常な神経を持っていたのかもしれない。だが……壊れなきゃ生きていけない事に気づくんだ。

 一つ聞くぞイブ、お前はあの少女を助けた後どうするつもりだ? 中層街の兵隊と戦うつもりか? 間違いなく死ぬぞ」


 「……」


 壊れている。壊されている。壊している。歓楽区で生きる者は肉欲の坩堝の構成員であろうとなかろうと、壊れ切っている。故に、異常を正常と見做し、狂気を正気と捉えるのだ。


 「行くぞ」


 「……えぇ」


 銀翼を再び身体に纏い、ダナンの傍を歩くイブに一人の少女がぶつかった。


 「あぁ、ごめんなさい。お怪我はございませんか?」


 「あ、はい。貴女も大丈夫ですか?」


 「えぇ大丈夫です。あまり来たことが無い区なものですから、少し勝手が分からなかっただけです」


 白い唾広帽を被り、純白のワンピースを着た少女は焦点が合わない瞳でイブの後方を見据え、手首から提げた白杖を揺らす。


 「隣に居るお方は貴女のお兄様ですか? それとも恋人?」


 「兄でもなければ恋人でもありません。云うなれば……協力者でしょう」


 「あ、そうなんですね? 失礼しました、私にも兄が居りまして……」


 上品に笑った少女は影のように現れた黒尽くめの男に耳打ちされ、小さく頷くと頭を下げる。


 「お兄様が帰って来いと仰っているようですので、此処らで失礼します。では良い旅を、そして辺獄へようこそ……お客人」


 炭と灰、焦げた臭いがイブの鼻腔を擽った。彼女の視界補正を担うルミナが動作異常を引き起こし、一瞬だけ砂嵐を引き起こすと眼の前には既に少女の姿は存在しなかった。


 「……」


 「イブ」


 「……」


 「イブ、どうした?」


 「目の前に、女の子が居なかった?」


 「何だ? 頭がおかしくなったのか? 誰も居なかったぞ」


 「……」


 ありえない。確かに目の前に少女が居て、言葉を交わした筈だった。彼女もダナンのことをイブに問い、兄が居ると語っていた。ネオンと喧騒を眺め、頭を振った少女は視界エラーを吐き出したルミナの調整を行う。


 「……ダナン」


 「何だ」


 「貴男は幽霊を信じる?」


 「馬鹿馬鹿しい。そんなモノ居るはずが無い」


 「どうしてそう断言出来るのかしら」


 「毎日人が死に、産まれる下層街で幽霊なんて居たらパンクするだろうよ。だが、そうだな……もし本当に幽霊が居るとしたら、俺は」


 「俺は?」


 「……」


 「ダナン?」


 「爺さんにもう一度会いたいと、そう思う」


 爺さん……その言葉を口にする度にダナンの剣呑な雰囲気が僅かに薄らぎ、固く結ばれた口元が緩む。


 「ダナン、貴男の云う爺さんって人は」


 「これ以上何も言うな」


 「……」


 「俺に近づくな、歩み寄るな、踏み込むな……。言っただろう? お互いを知らない方が良い時もあると。俺はお前の事を詳しく聞かないし、知ろうともしない。必要になったらその都度話す。だから……俺に甘さを、優しさを見せるなよ」


 「貴男ね、そんな事を言って」


 「そんなだと? おかしいのはお前の方だイブ。こうして話しているだけで命のリスクが跳ね上がっていることに気づかないのか? お前が俺と話し、拒絶されても寄り添おうとする度に周りの連中は思うだろうさ……コイツは付け入る隙がある女だと、利用できる馬鹿だとな」


 優しさと甘さは下層街において弱さに位置づけられる感情だ。誰かを助けようとする手も、理解しようとする心も、第三者にとって都合の良い弱点に他ならない。イブの持つ善性に警報を鳴らしたダナンは警戒心を剥き出しにし、機械腕を唸らせる。


 「……ダナン」


 「……」


 「貴男も相当優しいと思うけれどね」


 「黙れ」


 「だって」


 「黙れと言っている。一度その綺麗な顔を滅茶苦茶に壊してやろうか? これ以上何も話すなよイブ」


 コンバットショットガンの銃口を少女の顔面に突きつけ、新しい煙草を口に加えた青年は先を急ぐと話し、苛ついたように歩き出す。


 「……そういうところよ、ダナン」


 そして、イブもまたダナンが向かう廃墟群へ歩を進めた。


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