体育館内がざわつく。
突然告げた新入生の高慢すぎる発言に、それを見ていた生徒達は耳打ちをするようにヒソヒソ声で三月の背を指す。
「何あの人……」
「やばくない……?」
「試験官と対局するって言ったのか……?」
「何考えてんだあの新入生……」
そんな声を背に受けながら、三月は堂々と試験官を見上げる。
「……何のつもりだ?」
壇上に立つ試験官──『
「別に何も、ただ一局指して頂けないかなと対局を申し出ているだけです」
朗らかな語彙でそう告げる三月。
挑発も、怒気も、焦燥すらも感じない。この場ではそれらの感情を出すのが普通なのに、目の前の見上げる少年からは何も感じない。
(コイツ、入学試験で2枚目の『次の一手問題』を白紙で出した例の男か……)
神崎は思い出す。試験の後、絶対に合格にならないであろう
今期の入学試験における特待生枠、それはたったの7枠しかなかった。
しかし、音羽派閥の意向もあってその7枠のうち5枠は既に埋まっていた。
残るはたったの2枠。それを知らない受験者たちは必死の形相で問題を解く。
その中で合格できるのは、当然問題をすべて解けた者だけ。
──そう、思っていた。
※
『バカな……!? 問8を解いた者がいるだと!?』
試験が終わったあの日、問題の採点をしている教員たちの中から悲鳴のようなものがあがった。
『受験番号は47番、零落三月……聞いたことない名前ですね』
『となると、どこの派閥にも属していないのか。……地方からやってきたのか?』
『さぁ……。どちらにしろ、問8の51手詰を完璧に解答できる者など私の知る限りではいませんね』
問題である以上、マグレ当たりをする可能性はある。
しかし、彼らの中で最も問題だったのは……。
『2枚目は……白紙です……』
『舐めているのか……!?』
1枚目は詰将棋に関する問題。それを先程の難問である問8を含めて全問正解するという快挙を遂げておきながら、2枚目の次の一手問題は白紙。
試験という場における最大の不適解を選択する三月の行為に、教員たちは絶句にも似た表情をしていた。
『まるで高みの見物。試験に合格する気がないのか……?』
『違うな』
そう割って入ったのは、天将学園の理事長だった。
『この三月とかいう男はこの問題の本質を理解している。──この問題は正解がない一種の証明問題のようなもの。この大きな空欄も、手数の指定がないのも、全ては個々の受験生が自らその考えを披露する場として設けられている』
そう、2枚目に『正解』はなかった。
次の一手。すなわち次に指すべき手を示す問題。
"一手"と書かれているのだから"一手だけ"書き記せばいい。素直にそう思う人間は大きな空欄に自分の思う正解の一手を記入する。
しかし、ある程度頭の切れる者は、その大きな空欄を見て一手だけでは足りないと判断する。
これは自分達を試している試験だ。ならば自分達受験者がどこまで先を読めているのか、どこまで先の手まで考えられているのかを判断している。だから自分が読めた手の先まで書けばいい。
これは『次の一手問題』ではない、『次の一手を指してどうなるかを見せる問題』であると。
『だから頭の良い生徒はこうやって先の手まで考えた手を記入する。しかし、これは先程も言ったように正解がない問題だ。我々はただ難解な局面を作り出しているだけ、それを解くのはあくまで受験生であり、正解は彼ら自身が我々に証明しなければならない』
将棋界で最も問題とされているのは、現局面における最適解が理論上本当に最適解なのかというもの。
それは機械が発達し、AIが使われるようになった『三月の元居た世界』ですら、まだ明確な答えが出ていなかった。
あくまで"現在の考え方ではこれが正しいだろう"と、そういった予想に近しい答えしか人類は導き出せていない。
将棋の定跡が日々進化するのも、その"正しい"が"間違いだった"と気づかされたからである。
つまり、この問題に想定解はあっても正解はない。だからこそこの問題は、受験生たちが考える最高の一手をもって教員たちをどれだけ納得させられるかというものである。
その判定をもって合格者を選定するというのが、今回の入学試験の肝だった。
『だが、彼は答えを白紙で提出した。ただ白紙で提出するようなら狂人か未熟者のどちらかだろう。……だが彼は1枚目の詰将棋、その問8を見事正解している。自分の実力は分かっているだろうと私達に証明してみせている。その上で2枚目を白紙で出したということは、考えられる理由はただひとつだろう』
『実力を見せない。いや……俺達を試している……?』
『私達に自分を測る資格があるのかを試している。この先の実力が知りたければ入学させろと言わんばかりの熱いメッセージを感じるね』
そんな理事長の考えは大正解だった。
三月にとって今回の入学試験は絶対に受かる保証がない。たった20問という少ない問題数。次の一手問題に限っては、仮に最善手を記入したとしても教員たちの主観で決められる可能性がある。ましてやどれほどの合格枠があるのかすら不明。
どれだけ全力で挑んでも手のひらで踊らされ続けることを理解した三月は、あえて自分の実力を伏せることにした。
しかし、伏せた実力をめくらせようとするにもまた実力は必要である。
だからこそ、1枚目を全部解答した状態のまま、受験生の能力が最も反映されるであろう2枚目を白紙で提出したのだ。
『ただの子供に、こんなことが……』
『子供といっても高校生くらいの年齢だろう。もしかしたら修羅場をくぐってきた可能性も否めない。……どちらにしろ、彼にはこの学園に入るための意思が強いと見える。そして……
何年ぶりかの期待に満ちた表情をする理事長に、教員たちは息を呑んでその47番と書かれた紙に判子を押したのだった。
※
「……」
試験官、神崎はそのことを思い出すと、組んでいた腕を下ろして三月をひと睨みする。
そして、壇上から降りてきた。
「ウソだろ……?」
「え、あの子……試験官と戦うの?」
「ハハッ、勝てるわけないだろ!」
そんな周りの反応を受けながらも、神崎は懐から天将印を取り出して三月の前に立つと。
「……欲しいのはこれだろう?」
そう告げ、空いた手で立会人となる教員を招く。
そしてスムーズに対局の場は出来上がり、三月と試験官の神崎という、誰も想像していなかった舞台が作られる。
神崎は懐から出した天将印を賭け皿となる立会人のスペースへと置く。
「どうした? お前も早く天将印を出せ」
しかし、三月は一向に天将印を取り出そうとはしない。
どうしたのかと首を傾げる神崎に、三月はさも当然のように告げた。
「──俺は何も賭けませんよ」
「……は?」
辺りが一気に凍り付く。
「当然でしょう? 俺はただの無名の新入生、対するアンタはこの学園の試験官だ。戦う相手としちゃ分が悪すぎる。誰が見ても敗色濃厚な戦いに、どうしてたった1枚しかないチップを場に出さないといけないんですか?」
「な、なんだと……?」
それは、あまりにも弱気すぎる発言だった。
「俺はただ、運よく一発入れられればいいなと思って挑戦を申し出ただけだ。素の勝負で勝てるなんて思っていないし、だからこそ俺はリスクを背負わないことで素でアンタに挑もうとしている。ただそれだけだ」
その言葉に、周りで見ていた生徒達は納得する。
リスクのない勝負。その代価は、負けが決まっている勝負。天秤に乗せれば中々に釣り合うものである。
天将学園の教員は皆、日本中のプロから直々に指導をされて認められた者だけが受けられる入社試験にて、さらに学園側から認められたうえでこの天将学園の教員となっている。
この場にいる生徒だと目を瞑ってでも倒せるほどの強さ。それが神崎たち教員の実力だった。そして、その事を生徒達は学園のパンフレットなどでよく知っている。
一見すると大胆な行動だが、三月の言っていること全部がデタラメというわけではなかった。
「別に嫌なら受けなくてもいい。──これは
含みのある言い方をする三月に、神崎はため息をつきながら席に着く。
(なるほど、どんな凄い新入生なのかと思ってみたら。──期待外れだな)
神崎の予想では、自分を倒すくらいの勢いをもって己の全てを賭け、その上で勝負を仕掛けてくると踏んでいた。
しかし、蓋を開けてみればまるでリスクのない勝負。負けても安全と思って挑む勝負に価値など無い。そんな度胸では学園では生き残れない。
「いいだろう、今回はその度胸に免じて勝負に乗ってやる。もしも俺に勝つことができたらこの天将印はくれてやる。お前が賭けるものは……強いて言うなら残り時間くらいか」
二人を囲むように生徒達の視線を集め、体育館内で最も注目される勝負となったその戦い。
しかし神崎は内心ではまるでままごとをしている感覚だった。
リスクのない勝負、理不尽の無い勝負。このまま勝っても目の前の生徒を追い込むことはできず、仮に負けても目の前の生徒が異常な存在だと証明することもできない。
この勝負を仕掛けた時点で、三月に対する神崎の評価は地に落ちた。
三月も頷いて対局の席に座る。その姿はまるで他の者と同じ一生徒のよう。
(はぁ、零落三月……所詮この程度の男だったか)
そんな風に思いながらも、神崎は駒を握って対局の先手後手を決める振り駒を行う。そして対局開始の準備を整えた。
しかし、後にこの三月の行為が神崎の度肝を抜く結果となることを、この時の神崎は思いもしないのだった。