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第10話 手のひらの上

「追加のルールを忘れたのか? 投了は無しだ」

「は……?」


 乱れた息で、過呼吸になるほどの苦しみの中で、三月の言葉は淡々と告げられる。


「じゃ、続けるぞ」

「は……?」


 素っ頓狂な声色で状況が呑み込めていない横山は、乱雑に散らばる駒をまた1枚剥がす三月の指先を目で追う。


 そうして、横山はようやく三月の課したルールを思い出した。思い出し、間を開けることなくその顔から血の気を引かせていった。


 ──もはや勝負など行われてはいない。


 相手をいたぶるような、詰ます気の無い一手。


「────」


 観衆達は絶句し、それを見ていた。──見ることしかできなかった。


 今行われているのは将棋などではない。相手を痛めつける一方的なリンチだ。


 投了とは、言ってしまえば『逃げ』である。


 自らこれ以上傷つきたくない、勝敗の決まった勝負をこれ以上続けたくない、美しい形のまま終わりたい。


 そんな者達の本性を丸裸にするのならば、投了は『逃げ』である。


 無論、逃げることは悪いことではない。潔く負けを認めることもまた美しさであり、それが芸術として棋譜を残す意味ともなるだろう。


 だが、上辺の世界で生きてきた者達には、綺麗な甘言を口にしてきた者達には、分からない。


 こと目の前に座している少年、三月は"真剣師"である。泥沼のような汚い戦いに身をやつしてきた、戦場を知る男である。


 彩香はそこで、すべてを理解した。


(今回の将棋は、事前の投了を禁止とし、王様が詰まされた際に勝負が決するルールになった。それはつまり、三月くんが横山さんの王様を詰まさない限り、勝負は延々と続くことを意味する。まさか、三月くん……)


 この世界において、将棋の実力はすべてを物語る。


 将棋が指せなければそれだけでバカにされる。指せても弱ければイジメの標的にもなるだろう。


 知力における殴り合いで弱肉強食を定め、盤上の勝利によってその者の実力を決めつけられる。


 それが所詮、この世界の現実。


 もし仮に惨めな将棋を指そうものなら、その目は醜態に向けられる視線として酷く笑いものにされ、盤上を描く権利すら与えられない、無為な生涯を過ごすただの生き物として定義される。


 事実、三月はバカにされていた。将棋が指せないことに対する無知蒙昧な欠片を見せただけで、観衆から罵詈雑言を浴びせられていた。


 なんて残酷な世界なのだろう。なんて悲しい世界なのだろう。


 三月はそんな感情を抱く──ことは全くなく、ただ利用するに走った。


「アイツ……全駒ぜんごまする気か……」


 全駒……盤上にある全ての駒を取る行為である。


 マナー違反? やりすぎ? そんな理屈、三月には通用しない。


 今、横山の醜態は大勢に見られている。三月が1枚、また1枚と盤上から駒を取っていく様を、横山の全身の肉を削いでいく様を、見せつけられている。


 ズタズタになったプライドは降参を求めている。横山はもういい、負けを認めると頭を下げている。


「た、頼む……オレの負けだ……投了させてくれ……っ」

「ダメだ」

「っ……」


 だが、三月はそれを許さない。


「オッサン、俺みたいな小僧に大金を吹っかけておいて随分と逃げ腰だな?」

「そ、それは……」

「あぁ、別に俺はアンタを責めているわけじゃない。なんせ俺はアンタのところの商品を盗み食いした犯罪者だからな。……だが、そんな小僧相手に300万もの大金賭けて勝負するってんなら"この程度"は覚悟しとくべきだろう?」


 将棋という価値が青天井に引き上げられたこの世界で、三月の笑みが全員の悪寒を呼び覚ます。


 アウェーでありながら、場の流れを手中にする三月の行為は常軌を逸した掌握術である。


 ……そう、何も全員が横山の味方というわけではない。


 一度決められたルールは、例え書面に記されておらずとも『多くの者の眼』がそれを記憶している。


 言い逃れできる状況下でないことは、横山とて理解していた。


 徹底して叩きのめされ、降伏することすら許されず、惨めで情けない将棋を延々と見せ続けられる。


 将棋に美が働くのであれば、美しい形で投了するのが基本だ。


 将棋に芸術を咲かすのであれば、難解な紐が解ける瞬間に投了するのが基本だ。


 将棋に実力が求められるのであれば、接戦を描いた形で投了するのが基本だ。


 投了とは『権利』である。敗北を宣言するという、敗者が唯一決められる選択肢である。


 それを奪い取られた者には、地面を這いつくばる権利すら与えられない。


「ぐっ……クソ……クソォ……!!」


 四肢を失った虫に何ができる? 何も出来ない。何も出来はしない。ただ自らの対局を振り返り、反省し、憎悪し、喚き、悲しみ、絶望するしかない。


(これが人の指す将棋なの……?)


 彩香は心の中で笑っていた。ドン引きする表情をしながら、恐怖に慄く冷や汗を浮かべながら、それでも嬉々として零楽三月に惹かれていた。


「……!」


 瞬間、彩香は何かを感じ取る。


 ──視線、目線だ。それも三月からの一瞥、対局中にふと振り返った三月から彩香に向けられたほんの一瞬の目線。


 それだけで彩香は、全てを理解した。


「横山さん、ひとついいですか?」

「……?」


 死んだ目で盤上を見つめていた横山は、彩香の言葉に視線だけを向ける。


「天将学園の受験用バッジをお持ちですね?」

「何……?」


 天将学園の受験用バッジ、正式には『天将印てんしょういん』と呼ばれる天将学園を受験するための記章である。


「以前、横山さんは関西のプロ棋士に指導将棋を受けてもらった際、その実力が認められて天将学園を受験する資格、天将印を貰ったと記憶しております」


 それは、普段からあらゆる場所を飛び回り、あらゆる取材をしてきた現役の記者、彩香だからこそ知りえている情報だった。


「それを1つ、こちらに譲っていただけませんか?」

「……っ」


 横山は苦虫をかみ殺したかのように表情を浮かべた。


 天将印、その価値は今や資産にすらなりつつあるほど高騰している代物である。


 何分、金では買えない。天将印を持っているのは一部の実力者や権力者のみであり、それを除けば、この世界でプロ棋士だけしか所有していない。


 プロ棋士は自らの弟子を持つことが多い。そのため、自らの弟子を天将学園に入学させる権限として、一定の天将印を政府から授けられている。


 天将学園──実力主義でありながら、入学できれば将来を約束されるとも言われているエリート学園。


 しかし実際は、入学どころか試験を受ける資格を持つことすら難関な学園である。


 その資格となる天将印を渡すなど……と、そう考える横山だが──。


「なんだなんだー? 対局かー?」

「おーい、そこ団子になってないで俺にも見せてくれよー!」


 奥の方で野次馬が次々と集まってくる声が聞こえる。


 横山の表情はさらに厳しくなった。


 局面は敗勢どころではない、必敗である。そんな誰が見ても目を覆いたくなるほどの惨めすぎる盤面で、二人の勝負は公開処刑でも行われているかのように続けられている。


 まるでお遊びでもするかのように、まるで指導将棋とでも言わんばかりに。


 このままでは、最悪の結末を辿ることになる。これ以上の野次馬にこんなところを見られてしまっては、横山の人生は本当に終わる──。


「──分かった。分かったよ! やりゃあいいんだろ!」


 横山は胸元のポケットからガラス細工のケースに入っている天将印を取り出すと、勢いよく机に叩きつけた。


「ありがとうございますっ!」


 彩香がお礼を言うと、三月はそれにならって即座に横山の王様にトドメをさした。


 ──詰みである。


「負けだよ、クソッ……!」


 三月も手を駒台にかざし、無言で挨拶を返す。


「……マジかよ」

「あの少年、横山さんに圧勝したぞ……」

「しかも、全駒寸前まで……」

「最後の交渉がなかったら、どこまで酷い仕打ちをするつもりだったんだ……」


 周りからドン引きされつつ対局を終えることとなった三月は、地面に落ちたペンを拾うと、それを持ち主である彩香に渡した。


「えっ、あっ、ありがとう……」

「ああ、それじゃ」


 三月はそう一言だけ返すと、流れるように背を向けて商店街から離れようとする。


「えっ、ちょ、ちょっと待ってください──!?」


 彩香は一瞬硬直してしまったが、すぐに正気に戻って三月を追いかける。


 逃がすわけにはいかない。あれほどの逸材を、あれほどの逸脱者を。


 "奇跡"は今、目の前で起こっている──。


「──三月くんっ!!」

「なんだ、まだ何か用か?」


 商店街から少し離れた路地裏の曲がり角にて、彩香は三月を再度引き留める。


「三月くんは一体何者……いえ、それだけの実力を、棋力きりょくを持っていて、どうして盗みなんて……」


 彩香のその疑問に、三月は即答で答える。


「無一文だからな」

「無一文……? そ、それはおかしいです。あれだけ将棋が強くて、どうしてお金がないんですか?」


 三月は少し驚いたような目を浮かべるも、それを悟られずに表情を戻して彩香に問いかけた。


「どうしてだと思う?」

「……へへっ、私、詮索が趣味なんです」

「知ってる。それを仕事にしているわけだからな」

「なら!」


 瞬間、三月は振り返ると、被っていたフードをどけて彩香を見つめた。


「俺をアンタの家に泊めてくれないか? そしたら少しは、アンタの知りたい謎が解けるかもしれない」

「えっ──」


 突然の三月の言葉に、彩香は思わず頬を赤らめる。


 生まれてこの方20年、彼氏など出来たこともない彩香に被せられた急接近の一言。


 彩香はこれまで、仕事や納期の関係で異性と同じ場所で寝泊まりしたことはあるが、それとこれとは別だった。


 思春期の若い男と同棲する、そのハードルはあまりにも高い。


 ……高い、はずだったのだが。


「わ、わかりました! いいでしょう、ええ、いいですとも! 私の家に是非来てください! ええ、何年も泊まればいいじゃないですか!」

「いや、そこまで世話になる気はないが」


 彩香は恥より仕事を選んだ。自らが探究すべき原石の欠片を知るため、そして手に入れるため、彩香は恥を捨てたのである。


「そ、その代わり、その……え、えっちなこととかはダメですからね?」

「……」


 その言葉、向ける相手が違うだろと、そう言わんばかりの呆れた視線が三月から返される。


「まぁ、泊まらせてくれることには感謝する、えーと……」

「彩香ですよ、小林彩香。呼び捨てで構いません」

「そうか。彩香、実はさっきから気になっていたんだが、なんで敬語になってるんだ?」

「えっ? あ、あははは……な、なんででしょうね~」


 将棋の実力が優先される世界で、彩香の三月に対する対応の変化は実に当然のものである。


 しかし、三月はそれをまだ知らない。あくまで推測と知略だけでここまでやってきた。


 転生してからたったの4時間。情報を取得する手立てもなく、所持金も一切持っていない。


 そんな状況で、たったの4時間で、三月は衣食住を手に入れたのだ。


 ──そう、彩香は知らない。


 ここまでの一連の流れが、三月の目論見通りに進行していることを。


 横山の店から盗みを働く数十分前、街中にある将棋の道場を転々とめぐってはため息を零し、憂鬱そうにしていた彩香の姿をなんと三月は目撃していた。


 そして、その一瞬に見せる一挙手一投足で彩香のおおよその性格を見抜き、彩香が将棋関係の記者であること、そして現状の鬱憤を晴らす刺激と出会いを求めていることまで、瞬時に見抜いていた。


 それからである。三月が横山の店にあるパンを盗み、わざと見つかるように誘導したのは。偶然であるかのように装い、彩香にとってさも奇跡のような出会いを演出したのは。


 そう、すべてが手のひらの上。すべてが三月の思考の鳥籠。


(フッフッフ……この少年、三月くんは実に良い逸材ね。あれだけの強さを持ちながら、どことなく知識の欠け、疎さを感じる。これは都合よく扱えるわ……!)


 三月を自宅に案内しながらそんなことを心の中で考える彩香。


 だが、その思考すら看破されていることを、彩香は知らない。


(さて、これで今日やるべきことは大体済んだか。良い駒も手に入ったしな)


 彩香を自らの情報源としか見てない三月は、そんな言葉を心の中で呟く。


(あとは……)


 三月は歩きながら顔を上げると、彩香のポケットに入っている天将印を静かに見つめるのだった──。


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