将棋には運要素がなく、実力による勝敗が決められる競技だと言われることが多い。
しかし、実際はもっと残酷な差が生まれている。
仮に現代の数学者が原始時代に転生したとして、そこに住む者達と難易度が青天井の計算問題で競い合ったとする。
結果は明白だ。原始時代に生きる者では、どれだけの発想力があったとしても現代の知力は超えられない。それはたとえ、頭が切れる天才であったとしても、知識が無ければあらゆる策で押しつぶされる。
将棋も同じだ。どれだけの才覚を持つ天才であっても、ルールを覚えたばかりの初心者であれば、上級者に勝てる可能性は一ミリも存在しない。
将棋に運の要素が多少でもあれば、奇跡によって勝利する可能性もあるだろう。天才がその奇跡を掴み取る確率もゼロではない。
しかし、将棋にその可能性は皆無である。自らの実力を放棄して掴もうとする奇跡など、盤上ではただの妄言でしかない。
故に、彩香が望んでいるのは──奇跡を越えた何かである。
(……三月くん)
将棋のルールを覚えたばかりの少年、三月と、将棋を何十年も指してきた男、横山の差は歴然だ。
それは奇跡などという軽い偶然だけで逆転できる差ではない。知識差が作る圧倒的な壁は、生半可な知略では絶対に攻略できない。
「ふん」
対局が始まり、先手を取った横山が繰り出したのは豪胆な戦法だった。
(……! 定跡ですね、初心者相手に初心者殺しの戦法を使ってきますか)
横山が繰り出した戦法は『
(棒銀は単純故に戦法としての威力が最も高い。なるほど、三月くんを初心者と侮って、速攻で殺す気でいますね……!)
彩香の表情が曇る。
棒銀の厄介なところは、単純な攻めなのにも関わらず中々受け止められないところにある。棒銀そのものがあまりにも優秀過ぎるが故に、どれだけ研究されても完璧な対策とまではいくことができなかった。
つまり、横山の放つ棒銀は上級者でも防ぐのが難しい。
それを、まだルールを覚えたばかりの将棋初心者の三月にぶつけるなど、容赦が無さすぎる。
横山は棒銀を繰り出しつつも、三月の駒組みを注視する。
そして、我が道を行かんとばかりに自分本意な攻めの準備を構築している三月に、横山は鼻で笑った。
(この駒組み、やはり初心者か。オレの棒銀がお前の首元を着々と狙ってるっていうのに、守ることすらしないなんてな)
棒銀の厄介なところは、その攻めの速さだ。他のどの戦法と比べても、棒銀ほど速く仕掛ける戦法はない。
将棋を始めたばかりの初心者は、自分の駒を動かすことに必死で、相手の盤面を見ないことが多い。
正しく指せていたはずなのに、いつの間にか攻められている。戦いが始まったばかりなのに、相手の攻めを受け止められずに敗北する。そんなことがよくある。
三月は棒銀を見るのが初めてだったのだろう。それがどれほどの脅威を秘めているかなど知る由もなく、横山の棒銀を警戒するそぶりはない。
(三月くん、お願い。奇跡を起こして……)
何でもいい、何でもいいのだ。何かの予兆を感じ取って、何かの危険を察知して、横山の棒銀を防ぎきれれば、まだ戦いは続けられる。
攻めて互角の勝負に持ち込み、横山が何かを間違えて大ミスをしてくれれば、三月は必ずそれを
三月が実力で横山を倒すのは不可能だ。しかし、横山がミスをすれば、三月がそこから押し切り勝ちをするかもしれない。
この可能性はゼロじゃない、勝機としては十分にある。彩香はそれに全てを賭けていた。
しかし、彩香は知らない。知る由もない。
目の前の少年が、かつていた世界で猛威を振るった伝説の真剣師であることを。
◇◇◇
一方、横山と相対していた三月は、まるで無味乾燥なものでも見るかのように頬杖を突きながら適度なペースで手を指していた。
(棒銀。それも一直線に進んでくる『原始棒銀』か。言葉通り、原始の戦法というわけだな)
三月はある感情に襲われていた。それを自重できずに、思わずポケットからスマホを取り出そうとするも、ポケットにはスマホどころか財布すら入っていないことを思い出し、その感情はさらに膨れ上がる。
その感情を言葉に表すのであれば、──退屈。
三月は今、この状況に死ぬほど退屈していた。もはや余裕すら億劫に感じるほどの退屈に、あくびすら出てしまう。
横山の勝気な表情、後ろで不安そうに見守る彩香の祈り、周りでざわざわとこちらには聞こえないように盛り上がる観衆達。
その全てが三月の心を刺激する材料にはなれず、常に心臓を昂らせていたあの『地獄』を恋しく思いながら、そのセリフを心の中で吐き捨てる。
(──レベルが、低すぎる)
◇◇◇
対局開始から十数分。
彩香は、信じられない顔でその盤面を呆然と見つめていた。
「なっ……? は……?」
横山が目を白黒させながら盤上を見つめている。
盛り上がっていた観衆の声は一斉にどよめきへと変わり、三月へとその視線を向けている。
対局が始まって僅か数分。互いの駒組がいいところまで行き、序盤戦に終わりを告げた辺り。そこで横山は一気に三月を仕留めるべく棒銀を放った。
相手の陣地まで向かっていった棒銀は、その役目を果たすべく、相手の守りの銀との相打ちを狙う。
互いの駒が互いの首を跳ね、三月の銀と横山の銀は両者の駒台へと移動する。
三月が失ったのは絶対にその場にいなければいけない守りの銀、対して横山が失ったのは攻めるための役目を終えた銀。どちらが得をしたかは一目瞭然である。
棒銀の成功だった。横山の棒銀が三月に突き刺さったのである。これで勝敗は決した。
──そう思った次の瞬間、三月の飛車が踊り狂うように戦場を走り抜けた。
(オレの……棒銀……え?)
落雷でも見たかのような一閃、それまで横山が攻めていた場所に三月の飛車が転換される。
(ウソ……)
彩香はその局面に釘付けになる。幻でも見ているかのような錯覚に陥る。
将棋にはある法則がある。それは、王様の近くにある駒は『守り駒』、飛車の近くにある駒は『攻め駒』と化すことだ。
『攻め駒』は失っても大丈夫だが、『守り駒』が失うことはなるべく避けたい。なぜなら『守り駒』は失うほど王様が危険になってしまうからだ。
棒銀の特徴は、そんな相手の『守り駒』と自分の『攻め駒』を交換することで、優位を目指す戦法である。
横山は棒銀を決め切った。三月の『守り駒』を1枚剥ぎ、優位を得たはずだった。
だが、次の三月の一手によって戦況は転覆でも起こしたかのようにひっくり返った。
三月は王様を囲っていなかった。守っていなかったのだ。まるで未来を予測したかのように、まるでこうなることを知っていたかのように。
三月の飛車が大転換を起こし、横山の攻めていた場所へと移る。
こうなると不思議なことが起きる。──そう、三月が飛車を転換することで、先程三月が失った駒が『守り駒』から『攻め駒』へと変わったのだ。
なぜなら、飛車の近くにある駒は『攻め駒』と化すのだから。
三月の王様と飛車の位置が逆転した。それにより、攻め駒と守り駒も逆転し、横山が何手も掛けて攻めた棒銀は無かったことになってしまった。
(振り飛車、だと……!? いや、違う、受けたのか!? オレの棒銀をわざと喰らって、受けながらカウンターを決めたのか!? そんなバカな、こんな子供が、オレの棒銀を手のひらで、もてあそんだというのか……!?)
『攻め駒』と『攻め駒』の交換。イーブンである。そこに膨大な手数を掛けた横山と、一切手数を掛けていない三月。
優位は三月に転がった。たった一手で逆転した。普通ならあり得ない事態である。
(何者なんだ、こいつ……!?)
(何者なの、この子……!?)
将棋とは、残酷なボードゲームである。
どれだけ才能があっても、知識の物量で押しつぶされる。知っている者だけが勝ちを捥ぎ取り、知らない者は容赦なく潰される。
知略が知識に負ける。それが将棋の本質である。
故に初心者が、上級者に勝つことは不可能であり、その摂理は絶対に覆らない。
そう、
将棋定跡120種、分岐数100万手越え。その全ての知識を有する零楽三月に
(偶然、なのでしょうか……)
彩香はその事実を受け止めきれず、三月の手を疑う。
(ぐ、偶然に決まってる……! こんな若造が、オレの棒銀を受け止めきれるわけがない!)
横山も同じような考えだった。
実際、三月が放った驚愕の手はたった1手にすぎない。その1手で戦況が変わることなど誰も読めていないのだから、三月自身が理解していないという可能性もあるだろう。
だからこそ、次に三月が放った言葉に全員が放心することになる。
三月は駒台に置いてある銀を掴むと、横山が先程仕掛けた棒銀の筋に打ち込んだ。
(バカな……!? そこは──!?)
そこは、横山が唯一恐れていた"急所"だった。しかも、それは紛れもない棒銀、横山に対し、零楽三月が繰り出した棒銀──『逆棒銀』である。
「──"棒銀"ってのは、こうやるんだよ」
「!? コイツ……!」
「棒銀を、知ってる……!?」
その言葉によって、ようやく全員が三月のことを『初心者じゃない』と理解したのだった。