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第3話 真剣師の鬼

 誰もが三月の敗北を予想していた。


 暗がりの世界、夜の帳に囲まれた畳の上。チップとトランプの掠れる音、ホイール上で転がるボールの音、金の落ちる音があたりから聞こえてくる中、和室のようなところで行われる真剣勝負。


 将棋に運要素は介入しない。全てが実力で決まる。そこへ金の力で物言わせる賭博特有のルール。


 敗勢から始まった勝負が覆るはずもなく、三月の逆転は空想のものとして消化されていた。


 ──そのはずだった。


「……クククッ」


 近藤の堪えきれない笑みが溢れ出す。対する三月は沈黙を貫き、自らの手を躊躇いもなく指し続けている。


 王の行進、自殺行為。将棋は『王様』が詰まされた瞬間に負けが確定するというのにこの愚行。


 本来であれば守られるべき『王様』を自ら危険な戦場に赴かせて戦わせる。その狂気がいかほどのものか、周りの目を奪うには十分な行為だった。


 やがて、静寂に身を包んでいた和室に足音と人の気配が充満する。


「おい、あの子供将棋しらねぇのか?」

「定跡を学んでこなかったんだろ」

「近藤さんもツイてねーな、あんな若造に勝っても金持ってなきゃ意味ないってのによ」


 そんな声がヒソヒソと聞こえてくる。


 近藤とて相手の力量を察する力は持っている。そして、決して三月を低く評価していたわけではない。


 この対局が始まる前、前回の対局で一戦交えた三月の指し筋は実際そこまで悪いというわけではなく、並みの将棋指し程度には指せるということは身をもって体感していた。


 だからこそ、近藤は三月を相手に程よく勝ち負けを繰り返せば良いカモになると踏んでいたのだ。


 しかし、この愚行はあまりにも見るに堪えない。


(バカが! そんな自殺行為がハッタリにでもなると思ってんのか? だとしたらガッカリにもほどがある。……まぁ、恐らく自分から死にに来ることでこちらの冷静さを失いミスを誘う魂胆なんだろうが、そんな手に乗るのは三流の真剣師だけだ──!)


 近藤は戦場に近づいた三月の王様を刈り取るように戦いを始める。


 王様の目の前で戦いが起きる戦い。すなわち玉頭戦ぎょくとうせんは、死の一歩手前を意味する。


 当然だ。将棋の戦いとは盤上の駒たちが取って取られてを繰り返すことで優劣を競い合うゲーム。そこに一度でも取られたらダメな王様が乱入するなど、常識外れにもほどがある。


 あまりにも危険な行為。あまりにも不用心。むしろ、それを知ってまで自らそんな窮地に追い込む三月の思考がその時の近藤には理解できなかった。


(なるほどな、確かに飛車3枚というハンデは大きい。何かしらの博打に出ないと勝てないと踏んだわけか。それも王単騎で戦場に赴くという醜い悪あがきだったがな)


 近藤の笑みが加速する。


 そしてその手は静かに、かつ勢いを増して三月に襲い掛かった。


 近藤の持ち時間は残り10分。これが切れたら1手30秒以内に指さなければならず、強制的に早指しとなる。そして早指しとなれば考える時間はなく、感覚に頼る指し方になってしまい、ミスも多発する。


 つまり、三月の狙いはなんとか戦線をかく乱させ、近藤のミスを待つというものだ。


 しかし、そんなことは近藤も理解しており、そしてそれが不可能であることもまた理解していた。


 何故なら、10分などかけずとも目の前の少年はすぐにほふれる。


 いや、そんなことはもはやどうでもいい。この勝負に勝って報酬を貰う。ただそれだけのことに集中すればいい。余計な思慮を巡らす必要はない。


 勝負は既に、決しているのだから。


(棋力は恐らくオレの方が1つか2つは上回っているだろう。だがコイツのデタラメな指し回しに惑わされてミスしたんじゃあたまったもんじゃねぇ。ここは冷静に、着実に優位を築ける手を指して圧勝してやる)


 そんな近藤の思惑とは裏腹に、三月は未だ一言も発さず冷静に指す。


 そしてついには、互いの読みがぶつかり合い、駒の奪い合いが始まる。


 将棋における中盤戦、最も激しい戦いが繰り広げられるその盤面では、より深く読んだ者が盤上を制すると言われている。


 近藤の実力は知っての通り、真剣師界隈でも負けず劣らずの強者。対する三月の読みは浅く、狭く、デタラメに指しているようにすら見える。


 指し、指され、指し返し、反撃する。王様の上部で激しく入れ替わる駒の中、近藤は段々と違和感を覚え始めた。


「……?」


 10手繰り返し、戦場は焼け野原になったかのように荒れ地となる。


 15手繰り返し、両者は持ち駒をフル活用して戦線を拡大させる。


 20手繰り返し、ギリギリのせめぎ合いの末に両者の戦場は拮抗する。


(な、なんだ……?)


 ──捕まらない。


(なんだ、これは……!?)


 永遠に捕まらない。おかしい。近藤は確かに感じた違和感を自身の中でようやく自覚する。


 延々と繰り返される攻防。気が遠くなるほど先を読んでも崩れない城壁。決して近藤が負けているわけではない、悪手もミスも、致命的となる手を近藤は一度も指していない。


 むしろ勝利は目の前にある。敵の王様が、敵将の首が目の前にあるのだ。その首に手が届く範囲まで迫っている。


 なのに、あと一歩が届かない。


「おい、なんか時間かかってねぇか……?」

「つーか、あれ詰むのか? 盤面がごちゃごちゃしてきたような気がするんだが……」「よく見ろ。……戦線が拮抗している」

「え?」


 雰囲気が変わる。状況が変化する。


(バカなっ……)


 それまで一方的にいたぶっていたはずの近藤がついに攻めを止めてしまい、初めて三月に手が渡る。


 何かがおかしい。何かが狂っている。


 そんなことにはなるはずがない。順調に手が進み、順調に勝つ。その道筋をこの10分間で決めるはずだった。


 なのに、三月の王様は詰むどころか、その王様を中心に駒が密集して戦線が復帰し始める。


 まさか──。


(まさか、コイツ……"俺より強い"のか!?)


 次の瞬間だった。


「……は?」


 パチン! と響く音を立てて三月が力強く手を指した。


「なっ!?」

「なんだそれ……!?」

「嘘だろおい!?」


 その一手に、傍観者たちが思わず驚きの声を発する。


 近藤に関しては口を開けて呆然とその手を見つめていた。


「……敗北宣言だ」


 誰かがそう呟き、その手の意味をひそかに伝える。


 あれだけ周りにかく乱を招いた王様は、もう役目は果たしたということなのだろう。十分に形勢が戻ってきたから、もう自分の陣地に戻って休んでいいということなのだろう。


 三月が王様を掴んだとき、誰もがそう思った。


 しかし、次の瞬間に指されたその一手は戦線離脱を意味するものなどではない。


 むしろ真逆。前進、前進である。


 王様を掴んだ三月は、一歩前へ、更なる危険な戦場へと王様を前進させた。


「なんなんだ……あのガキは……!?」

「狂っちまったのか!? それとも将棋を知らねぇのか……!?」


 全員が驚愕する。その異常な一手に、全員が度肝を抜かれる。


 何故ならその手は手として意味を為していない。正真正銘の自殺行為──頓死とんしである。


 三月の王様は詰んでいた。その無謀な一手により、近藤の勝ちが確定していた。


 ピッ──。と時計が鳴る音が響き、近藤の持ち時間が1手30秒の秒読みに入ったことを知らせる。


「は、はははっ。やった、やったぞ近藤さん……!」


 奥の方から、近藤の知り合いと思わしき人間が囁くような声でそう呟いた。


「そ、そうだな。あまりにもバカげた手に驚いていたが、結果は変わらないな」

「あ、あぁ。これで近藤さんの勝利は確定か」

「今度何か奢ってもらおうぜ」


 観戦者たちは既に試合が終わったと思い込んでそんな会話を繰り広げる。


 手番は近藤、局面は詰み。三月の敗北は確定しており、それを覆す一手を三月が放つことはできない。手番は既に近藤に渡っている。


 あとは近藤がどう仕留めるか、それだけの話である。


『10秒。──1、2、3、4』


 秒読みを知らせる対局時計が機械的に残り時間を読み上げる。


「あ、あぁ……っ……」


 ──曰く、こんな噂があった。


 その男は真剣師でありながら、将棋の本質を理解することのできた、ただ一人の凡人であると。


 どんな逆境でも冷静さを失わず、どんな敗勢でも勝利へと導く。人はそれを豪運や偶然で済ましているが、目の前で体験した者だけはその真実を見に焼き付けられる。


 ──あれは、ただの真剣師ではない。


「……? どうしたんだ? 近藤さん!?」


『5、6、7、8──』


 対局時計の秒読みが進む。死神を呼ぶ警告音が無機質にその数字を紡ぐ。


『9──』


 パァン! と、ギリギリのタイミングで対局時計を叩いた近藤は、青ざめた表情でその一手を指す。


「え……?」

「は……!?」

「嘘だろ……!?」


 全員が、近藤の手に驚く。


 その手は本来、三月の王様を詰ますはずの一手だった。


 だが、近藤の指した一手は、まさかの"守りの一手"だった。


(なんで!?)

(バカか!? 何やってんだ近藤さん……!?)


 そのあまりにも驚く対応に、傍観者たちは思わず心の声で叫んでしまう。


 勝機を逃した。あり得ないことだ。それも真剣師界でいくつもの実績を積み上げてきた近藤が、まさかそんなヘマをするなんて……あり得ない。


(まさか、相手の王様が詰んでいることに気づかなかったのか……!?)


 否、近藤は三月の王様が詰んでいることなど、とうに読み切っていた。


 そして読み切っているからこそ、指せなかった。


(クソ……ッ! クソクソクソクソクソッッ!! 詰んでるだぁ? んなことは知ってんだよッ! だがこの詰みは5手や7手じゃねぇ。20手……いや、下手したら30手も超える長手数の詰将棋つめしょうぎだ。そんな長い手をすべて当てなきゃ、このガキのぎょくは詰ませられねぇ!)


 近藤は心の中で叫ぶ。


(オレの持ち時間はもう無くなって、今や秒読みの1手30秒だ。30秒しかねぇんだぞ! それでこの30手を超えるかもしれねぇ詰将棋をそんな短い時間で読むなんて不可能だッ! ──こ、コイツは、このガキはそれを分かってて、わざと自分から死ににきやがったんだ!!)


 そう、それは全て三月による策謀──。


 飛車を3枚も買うという圧倒的なアドバンテージを得た近藤は、余裕をもって駒組みを行う。


 囲いなんて一般的な、時間を掛けずに作れる平凡な囲いでいいものを、わざわざ何手もかけて穴熊へ、そしてビッグ4へと欲張った。


 ──それによって、近藤の持ち時間は消費されていく。


 どんなタイミングで攻めても勝てるというのに、全てを組み上げてから三月の陣形を崩しにかかった。


 ──それによって、近藤の持ち時間は消費されていく。


 三月が王様を戦場に向かわせた際、冷静になろうとしてゆっくりとした手を指してしまった。


 ──それによって、近藤の持ち時間は消費されていく。


 どんどん、どんどんと、近藤の持ち時間は無くなっていき、ついには秒読みに差し掛かった瞬間に放たれた三月からの自殺行為。


 ──詰ませるものなら詰ましてみろ、それをたった30秒でできるのなら。


 それは三月からの挑戦状だった。自分を仕留めるに値するかどうかを見定める、極悪な一手だった。


 全てが完璧に計算しつくされた行為。その真実を知るのは、三月と対峙している近藤ただ一人だけである。


 ──読めるわけがない。こんな短時間で詰み筋を読めるはずがない。


(鬼だ……)


 近藤は戦慄した表情を浮かべる。


 目の前の存在が片鱗を現したことに対する恐怖が、戦慄となって顔を歪ませる。


(こ、こいつ……"真剣師の鬼"だ……っ!)


 静寂の夜に吹く激しい風。駒が少しだけズレ、目をほんの少しだけ瞑るほどの突風が一瞬だけ吹き荒れる。


 そうして偶然、三月の被っていたフードが落ちた。


「なっ……!?」

「おい、あれって……!?」


 そうして剥がれたフードの中に隠れていた素顔を目にした近藤は、尻餅をついて近藤から距離をおいた。


「お、お、おまえ、おまえは…………っ!?」


 全員が瞠目し、三月を前に冷や汗を流す。


「零楽、三月……そうか! アイツ、トバリの三月か!?」


 その言葉を漏らした瞬間、ギロリと三月から一瞥を向けられ、その男は小さな悲鳴を漏らしたあと震えるように縮こまった。


「トバリの三月……聞いたことがある。……将棋界でアマチュアなのにプロをも超える最強の真剣師がいると。まさか、アレは都市伝説じゃなかったのか……!?」

「誰も敵わない、最強の真剣師……トバリの……三月……」


 少年の正体が分かった瞬間、周りにいた者達は絶句と共に顔を歪ませる。


 そして何よりも、三月と戦っていた近藤は濁流のような汗をかいていた。


「──どうした? 続きを指すぞ。飛車3枚も持っていれば少しは勝ち目があるんじゃないのか?」


 その言葉を放たれた瞬間、近藤を含む全員の戦意が喪失した。


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