──こんな噂があった。
花の散る裏世界に一本、小さな
川の流れが行き着く先が海であるように、その世界での札束の流れる先にはいつもその男『
得てして噂は肥大する。
『三月』に手を出してはいけない、『三月』に関わってはならない。傍観し、諦観し、周りに溶け込む空気のように影を薄くして目を合わせるな。
敵意を向けるなどもってのほか、決して関わらず、穏便に事を済ませろと。
その男は、『三月』は──夜の
夜の繁華街。盛り上がる歓声と光の螺旋が渦巻く街並みから外れ、狭い路地裏の先にある小さな地下にて、それは行われていた。
「あァ? 金持ってねぇだと? ふざけてんのかテメェ!」
煙草の煙が宙を舞う違法賭博の場にて、その男、
殴られた少年は将棋盤の上を飛び越えて倒れ伏し、赤く滲んだ頬と口から血を流す。
「お客様、落ち着いてください」
「おい立会人! なんでコイツの持ち金を確認しなかった? オレはガキとママゴトしに来たわけじゃねーんだぞ!」
近藤は将棋盤を蹴り飛ばして立会人の胸ぐらをつかむ。重さ数キロもある盤を蹴れば相当な痛みが走るだろうが、怒りに染まった近藤にその痛みは感じない。
「こちとらいくら賭けたと思ったんだ? なぁ!」
「もちろん重々承知しております。それよりも、この場での暴力行為は禁止しておりますので、まずは落ち着いてください」
近藤の怒りは最もだった。
「チッ!」
ここは賭博の場、しかも行われていたのは『賭け将棋』である。
少年は上限なしの金額に設定された席に座り、対戦相手を募集していた。そこに近藤が座り、互いに合意の上で金額を掛け合い、対局が始まったのだ。
将棋は運に左右されない実力が大部分を占めたボードゲームである。故にここ一帯で連戦連勝を続けていた近藤にとっては、まさに空から金が降ってくるようなもの。
多少『特殊』なルールが加わっているが、それでも近藤は少年との対局に臨み、その勝負に勝った。
しかし、敗北した少年は肝心の金を持っていないというのだ。
近藤と少年が賭けた金額はなんと40万円。つまり合計80万円もの大金が掛かった大勝負だった。
「近藤さん、ちと落ち着けや。相手をよく見ろ。そんな風貌のガキが果たしてこんな場所で将棋できるタマか?」
「……クソが。どうりで手応えのねぇガキだったわけだ。ここは遊びで来ていい場所じゃねぇんだぞ。あァ?」
近藤は更なる拳を振りかざそうとするが、それを立会人が止めた。
「申し訳ございません。彼は『特別』でして……支払いに関しては問題ありません」
「……何?」
立会人の言葉を聞いて、近藤は一瞬だが落ち着きを取り戻す。
その様子を見計らうように、少年はニヤリと口角を上げながら呟いた。
「──オッサン、俺ともう一度勝負しないか」
「……あァ? んだと? テメェは金持ってねぇだろ!」
近藤はゴミでも見るかのような視線を少年に向ける。
しかし、少年はひるまなかった。
「──確かに金はない。が、賭けるものはある」
少年はゆっくりと起き上がると、口から出た血を手で拭き取って立ち上がる。
「
「……は?」
少年の言った言葉が理解できなかったのか、近藤は少年の言葉に
「俺が勝ったらさっきの借金はチャラ、逆にアンタが勝ったら──」
少年は懐から財布を取り出すと、近藤の前に放り投げた。
そうして叩きつけられた財布はワンバウンド飛び跳ね、少ない小銭と免許証やマイナンバーカードが飛び出す。
「──俺の
フードで顔が隠れた少年は生気の籠っていない声でそう告げる。
「……コイツ……」
対する近藤はそんな少年の強気な態度に、若干のイラつきを見せながらも口角を上げた。
「……二言はねぇな?」
「ああ」
「いいだろう。その勝負受けてやる。ただしルールの変更は無しだ、いいな?」
「もちろん」
少年は小さな声色で冷静に返事を返した。
すると近藤は不敵に笑い、立会人に大金を渡す。
「なら決まりだ。おい」
「かしこまりました」
今回の勝負。少年も近藤も金銭は賭けない。少年は人権を、近藤は少年の負債を無くすことを条件に賭けが成立している。
しかし、近藤は数千万もの大金が入ったショートケースを何個も取り出し、賭博場のスタッフが見ている前で立会人に渡した。
そう。この場の賭け将棋には『特殊』なルールがある。
それは単純明快なルール。金の世界での当然の
──将棋の駒を、金で買うことができるのだ。
もちろん対局が始まってからは不可能である。しかし、対局前であれば何枚でも自由に駒の購入が可能。
一番弱い駒である『
しかし、これは"初回"での金額。駒を1枚買うごとに次の購入金額は倍に増えていき、仮に5回目ともなれば歩1枚で1600万円かかることになる。
近藤は立会人に合計7000万もの大金を渡し、最強の駒である飛車を3枚買い取った。1つ目の購入で1000万、2つ目の購入で2000万、3つ目の購入で4000万、計7000万円である。
たかが少年一人の命を相手に7000万もの大金を支払う価値があると近藤は思っていない。だが、その勝負において近藤は躊躇いもなく、飛車3枚を7000万で購入した。
なぜそんな大金をつぎ込んだのか、簡単だ。購入に支払った金額は立会人に受け取る義務はなく、賭けの上乗せとして処理される。
つまり、勝ったら全額戻ってくるのだ。
ならば近藤にとってこの出費は痛くない。むしろ勝率を確定的なものにするためのカード、圧倒的な手札の数で押しつぶすゲームへと変わるだけ。
所詮、賭博というのは金の叩き合いなのである。
「万が一ってのもあるからなァ……オレは油断しねぇんだよ。さっきは『歩1枚』の購入で勝ったが、今度は『飛車3枚』……全力でテメェを殺しに行く。ガキだからって容赦しねぇ、ここで勝ってテメェを家畜としてウチで飼ってやる」
ゲラゲラと下卑た高笑いをしながら少年を前に勝ち誇る近藤。
しかし、少年は黙ったままだった。
(コイツ、オレに啖呵を切るだけあって多少の脅しにはビビりもしねぇ。……だが勝敗は既に決まったようなものだ。ククク……すぐにその面の皮を剥いで闇市場にでも売っぱらってやる)
近藤は立会人から購入した飛車3枚を駒台に置くと、盤上を一瞥して少年に尋ねた。
「おいガキ、さっきは聞きそびれたが今度は聞いてやるよ。名前はなんだ?」
近藤の問いに、少年は少しだけ間をおき返答を言い
しかし、盤上の駒を並び終えて準備を整えると、近藤の姿、顔、視線、そして目から目の奥まで辿るように目線を上げていき、今までフードで暗がりになっていた顔が明るみになった。
これは一夜の伝説であり、一夜で消えてしまった幻の真剣師の名である。
後に行方不明となり、存在そのものが消えてしまった男が確かに実在していたと感じさせる一幕である。
少年は口を開いて告げた。
「
夜の帳に、その名が響いた。