外へと続く廊下は少しばかりひんやりとしていた。壁には幾つもの張り紙が貼り付けられ、島崎に追いついた女性はそれらを物珍しそうにキョロキョロと見やっていた。
「それにしてもどうしたんです? こんな中で迷子って」
足音だけが響く静けさを割って、島崎が穏やかに問いかける。
「私、苦手なんですよね。方向感覚がないというか」
女性は言い訳をするように笑った。
「方向音痴は仕方ないですよ。案内の人はついてくれなかったんですか? 頼めばついてくれたと思うんですけど」
島崎の言葉に、女性は「あぁ」と相槌を打った。
「受付で訊いたときに、取調室の方でまだ預かっていると教えてくださったので、自分で取りに行こうと思ったんですよ。朝はなんだかすんなり行けたような気がして。よく考えたら案内の紙をもらっていたから場所が分かったんですよね。でも」
「一人で行ってみるとよく分からなくなったワケですね」
島崎が言葉を補うと、女性はうんうんと力強く頷いた。
「で、スマホは?」
「なんとか目的地までたどり着いて、そこにいらっしゃった方が探してくださって。おかげさまで受け取れたんですけど」
女性はライムグリーンのケースに入ったスマホをバッグから取り出して見せた。
「じゃぁ、後は帰るだけ、というところですね」
「はい」
女性は穏やかに笑って頷いた。
「それで、対応とかどうでした?」
「え? スマホの事で、ですか?」
「じゃないです」
不思議そうに聞き返され、島崎は右手を小さく振って否定した。
「今朝、結構迷ってらっしゃったでしょう? あの後調書とったんですよね? それでどうだったのかなと思いまして」
「あぁ、そっちですか」
穏やかだった笑みが、一転して落胆の色を帯びた。
「どうかしました?」
「やっぱり、私の見間違いだったのかなって」
女性は、ひとしきりわざとらしく笑ってから、溜息をついた。
「なんとなく、信じてもらえなかった気がするんです。私の話」
スマホのカバーを爪でいじりながら、女性は苦笑する。
「そもそも自分でも信じられないような話を、誰が信じるのかって事ですよね」
どうやら取調官に対する印象が良くなかったのだろう。実際はどうあれ、自分の目撃情報を疑われたと感じているようだ。
「じゃぁ、信じてないんですか? 自分の事」
島崎が口を挟むと、女性は驚きの色を浮かべた。
「自分を、ですか?」
「自分の事は自分で信じてあげないと。でなかったら、誰が他に全力で信じてあげられるんですか? 取調官は自分達で得た情報を整理して向こうで判断するんですから、あなたは自分で見た事、聞いた事、思った通りに話せば良いんですよ」
島崎の言葉に、女性は「全部?」と問い返す。
「全部です。見て、感じて、思ったことをそのまま伝えて良いんですよ。むしろ、そうして欲しいんです。記憶が他の情報で改変されないよう、俺達は情報を新鮮なうちにありのまま受け取りたいんですよ」
「じゃぁ、目の前で人の手が刃物に変わったって言っても、全部信じてくれるんですか? 列車の車窓から逃げだしたって言っても?」
懇願のような眼差しで女性は島崎を見上げてきた。詰め寄られると思わず身じろぎしてしまいそうになったが、なんとか耐え抜く。
もし、彼女が言うのが真実であるなら、やはり傷害事件の犯行が『偽者』によるものである可能性が否定できなくなってくる。調書に彼女の目撃証言がどのように書き込まれたか分からないが、また一課で『偽者』を追ってくれるのだろうか。
うやむやのまま未解決で蓋をされたあの事件。その蓋を再び開けるきっかけとなれば良いのに。
「だって、そう見えたんですよね? まぁ、その人の手が実際に刃物になったのか、それともマジシャンのように、そういったまやかしが得意な人だったのか、俺には真実は分かりません。窓から逃げたのだって、線路からの逃走ルートがその先にあったからかも知れません。事実、列車は停車していましたし、車窓からの逃走は高さがあるとは言え、不可能だとは言えません」
先入観で物事を見るな。
もっとも、彼女を担当した取調官だけでなく、己にも言い聞かせなくてはいけない言葉だが。
島崎は自嘲気味に笑ってから続けた。
「だから、例えそれらの発言に現実味がないとしても、俺は見てないんであなたの見たものが何であるのか、断言できませんが、そう見えたって事はあなたの中の真実でしょう?」
話しながら右手で女性を示し、うかがうように首を傾げると、女性は強く何度か頷いた。
「その先を調べるのは俺達で、どれが真実かを探していくのはあなたの仕事じゃない」
「あーあ。もう、島崎さんに調書取ってもらえたら良かったのに。ほんとに私ってついてないなぁ」
女性の言葉に、島崎は「俺に?」と慌ててうわずった声を上げた。
「いやいやいや、俺、担当じゃないんで」
「えぇ? 話してると見た目より優しそうですし、絶対良い人でしょ? もっとそういうのアピールして調査員とかやった方が良いと思いますよ。絶対犯人だって自分を理解してくれる人の方に本当の事を言いたくなりますって。部署、異動しません?」
「いえ、結構です」
詰め寄ってくる女性をかわし、「ほら、もう出口ですよ」と作り笑いを浮かべて署の出口を示した。
指し示した先で電動のうなり声が聞こえ、自動ドアが開く。
「不潔ぅ~」
自動ドアが開くと同時に、化粧品の香りが島崎のところまで届いた。誰が来たのかと視線を向けると、若い女の子が口をとがらせて島崎を指し示していた。
「は? 俺?」
「警察の人ってぇ、そうやって案内するフリして女の人口説くの?」
睨み上げるような視線を注ぎながらこちらに近づいてきた。高校生か大学生くらいだろうか。育ちの良い体を、服がギリギリで覆っている。ミニスカートは覗こうとしなくても見えそうだ。
「いや、口説いてなんか」
「そう? その割には随分お姉さんと親しくしてるし? 鼻の下伸びてるし。やだ。オジサン、いやらしぃ~」
「お、オジサン?」
大人と子どものそれぞれの端っこにかかるような、危うい年代特有の服装が、彼女には良く似合っていた。肩に掛かるほどの長さの髪は、ていねいに内巻に整えられ、毛先まで手入れが行き届いているかのように艶めいている。そんな彼女から見たら、自分も「オジサン」になってしまうのかと、発言を否定することもできずに、否定の言葉を飲み込んだ。
「ココちゃん! あれ? ココちゃんも忘れ物?」
「違うよ~。お姉さん、今日の夜、ココにタオル返せないからって、その代わりにココアおごってくれるって約束したじゃん? 仕事終わってからって言うから、ココ、お姉さんの会社まで迎えに行ったのに」
少女の腰の辺りに下がっている斜めがけのポーチは何が入るのか分からないほど小さい。少女はクルクルと毛先を指でねじりながら女性へと歩み寄っていく。女性の横にぴたりとくっつくと、馴れ馴れしい様子で話を続けた。
「LIMEも見てくれてないでしょ? ちゃんと名刺から読み取って友達申請したのに許可してくれないし」
「あ、ゴメン。今朝、ココちゃんと話してたときは気づかなかったんだけど、私、スマホ警察署に忘れてて。ゴメンね」
ココと称する少女が話し始めると、場の雰囲気は少女に支配され、島崎は蚊帳の外に追いやられた気分だった。
「じゃ、俺はこれで」
「あ、島崎さんありがとうございました」
そそくさと逃げるようにその場を後にしようとした島崎に、女性は深々と頭を下げた。と、女性の腕にココは腕を絡ませた。
「オジサンの話はもう終わったんでしょ? だったら、女の人口説いてないで真面目に仕事してね~。バイバ~イ」
「いやいや、俺は口説いてないっての」
不満げに言い返した島崎に、ココはべぇっと舌を出して見せた。
「お姉さん、行こ~」
振り返って会釈をしようとする女性を引っ張り、ココは警察署に背を向けて歩き出した。島崎はそんな二人を見送りながら自分の行動を反芻した。
「やっぱり口説いてなんかないよなぁ」
首をひねり、島崎もまたその場に背を向けた。