男は、目の前に掲げた新聞の裏で隠しているつもりなのか、明らかに大きく欠伸をしていた。
「島崎さん、さすがにだらけすぎですよ」
出勤してきた若い男が、半眼で島崎と呼ばれた男に対して溜息交じりにこぼしながら、隣のデスクに自らの鞄を置いた。机の上に置かれた「山口へ」と書かれた書類を取り上げると、パラパラとめくって机に置き直し、鞄を机の下に押し込んでから椅子に腰掛けた。
「島崎さんってば」
「あぁ?」
寝起き感満載の島崎は、年の割に若く見える顔立ちで、良くも悪くも中肉中背。きちんとしていればかっこ良い部類に入るだろうし、黙っていればあるいはモテるかもしれない。だが、部下の山口から見ても、残念なくらいいつもどこかが緩んでいる。良いことを言っていても説得力に欠けるのはその緩みのせいだろう。
片付けという言葉は島崎の辞書には存在しないため、机の上はいつも物であふれている。悪いところばかりが目についてしまうことを山口が嘆いていることは、察しの良い島崎も知らない事だったが。
「別に良いだろ? 誰かに不利益を与えてるって訳でもねぇんだしよ。お前にだって迷惑かけてねぇだろうが」
カウチソファーでくつろぐかのように、コピー用紙の入っていた空き段ボールの上に足を組み、自販機で買ってきたコーヒーを口に運んだ。放置した時間が長かったせいか、どこか味が鈍い。
「不利益は与えていないかも知れませんが、部下の手本になるようにとか思いません?」
「思いません」
溜息交じりに訴えてくる後輩に、島崎はバサリと言い放った。
「仕方ねぇだろう。明けなんだからよ」
「泊まり込みだったってのは、まぁ、その格好から分かりましたけど? 本当にお疲れ様ですって思ってますけど?」
山口はごにょごにょと口の中で聞こえないように続けたが、島崎の頭にはそれなりのメッセージは届いていた。
「で、今度は何調べてたんすか?」
「防カメ」
話を切り替えてきた山口に、欠伸混じりに答えてから島崎は体を起こした。緩めたネクタイが、仕方ないとでも言うかのようにずるずると所定の位置へと滑り落ちていく。
「ひったくりなんだが、犯行までの経路も逃走経路も、上手く防カメを避けてるわけよ。で、複数経路を予想し、片っ端から調べるのに時間がかかってな」
「でも、もうそろそろ他の人も出勤してきますから」「はいはい」
山口は人懐っこい男だが、上司に向かって「身なりを整えろ」とはさすがに言ってこない。その分、なにやら誤魔化すようにブツブツと何かを言っていることは多いが。そろそろ察して動いてやるかと思い直した島崎は、「しつこく言われるのは面倒だからな」と、立ち上がり、足置きにしていた段ボールを部下の方へと足で追いやった。
「じゃ、よろしく」
新聞を雑にたたみ、デスクの上に放ってから島崎はトイレへと向かった。
第一課から第三課へと配置転換になった時にはこれまで積み上げてきた物が全て失われるような気がして怖かったが、慣れてみれば何とかなるものだ。切迫感のような物を感じなくてすむようになったことが、情緒的にはむしろプラスに働いていた。
あの事件に対して。
島崎は雑念を振り払うように手洗い場で顔を洗った。
「お、島崎じゃないか」
聞き慣れた声に、島崎はあわててポケットにくしゃくしゃに突っ込まれていたハンドタオルで顔を拭った。
「二見さん、おはようございます」
姿勢を正し、勢いよく頭を下げると、二見は「同期だろ? 今は直属の部下という訳でもないんだから、かしこまるなよ」と苦笑し、話を続けた。だが、島崎が小さくならない訳がない。二見は未来の幹部を約束されたキャリア組で、一課にいた頃には上司でもあった男だ。将来を期待されていた準キャリアの島崎であっても、絶対的な壁がそこには在るのだから。
「防カメ、アラってたんだって?」
なぜそのことを? そんな島崎の心の声がダダ漏れだったのか、二見は軽く笑ってからトイレに入ってきた。
頭の先から靴の先まで整えられた二見の容姿は慣れないと圧迫感を覚える。眼鏡の奥に見える少し細い目が、心の奥底まで探るように島崎の事を見ているような気がした。
「ちょうどうちで三課と同じネタをアラうってことになってな。お前がいたから、なんか怪しいやつ映ってなかったかって、探り入れたくなっただけだ」
「何があったんですか?」
「こっちは傷害だ」
少し離れて用を足しながら、二見は端的に答えた。
「架道橋上に停車中の車内から逃走。車窓から逃走するホシが橋の向こうに飛ぶのが目撃されているが、その後の逃走経路は不明。目撃者によると、文字通り飛んだらしい」
「架道橋から飛び降りたって事ですか?」
実際に飛び降りれば怪我は免れないだろう。それで逃走を続けるのは困難を極める。疑いを帯びた声色で島崎は二見に聞き返した。
「あくまで目撃情報だ。事実を調べる。それが『仕事』だろ?」
「はい」
「ところで、もし手が空いているのなら、手伝ってくれても良いんだぞ」
「いや、自分は部外者ですし」
そうか? と二見は並んで手を洗う。
「わたしならちょっと混じってみたいと思うがな」
もったいぶった話し方に、島崎は二見の挙動をじっと観察した。
「ガイシャからも聴取をとりたいんだがな。思い通りにはいかないもので、命に別状はないんだが、事件のショックが残っているみたいでだんまりを続けている。今は外側から固めるしかないというところだ。それで、もうすぐ同じ車両に乗っていたマルモク(目撃者)さんの聴取を行うんだが、あらかじめ入れてある情報がどうも曖昧なんだよ」
綺麗にアイロンのかけられたハンカチで丁寧に手を拭いながら、二見は小さく首を傾げた。
「凶器についての供述がな」
二見が伝えてくる意図を探りながら、島崎はハンドタオルをポケットに押し込んだ。
「どうして俺に?」
「久しぶりに一課にちょっと迷い込んでくれても良いぞ」
二見はわずかに口角を上げて肩をすくめると、別離の言葉の代わりに右手を小さく上げて立ち去った。
二見がわざわざ一課の情報を漏らしていったのには何か理由があるのだろう。島崎は急いで自分のデスクへと戻ると、山口に「少し出てくる」と告げ、事情聴取の行われる場所へと向かった。
「あぁ、もう最悪。今日会議とか全然聞いてないし」
廊下の突き当たりを曲がると、受付の方からこちらに向かって歩いてくる女性のぼやき声が聞こえた。
警察署に来る人間などそんなに多くない。島崎は二見の言っていた目撃者の可能性が高いと、声のする方へ足を向けた。
オフィスカジュアルに身を包み、右手のライムグリーンのスマホを見入っている。面白いほどその表情はめまぐるしく変わっていた。
「歩きスマホ、危ないですよ」
島崎が声を掛けると、女性は驚いたのか、小さく声を上げてスマホを放り投げた。
「いや、投げたらもっと危ねぇし」
足をかすめたスマホを拾うと、自分の事は棚に上げ、「危ないから、ちゃんと周り見て」と苦言を呈する島崎に女性は萎縮したようにか細く「はい、すみません」と頭を下げた。
「別に謝って欲しいんじゃねぇんだけど」
脅かすつもりはなかったのにと、幸先の悪さに眉間に皺を寄せる。
「そっちが素ですか?」
「あ?」
関係ない質問をされて、反射的に上げた声に、再び女性は「何でもないです」と小さくなった。
「いや、なんか、怖がらせたい訳ではないんですが」
「怒っているのかと思っちゃいました」
「ま、とにかく、歩きスマホは止めましょう」
島崎は締めくくり、ところで、と続ける。どのように切り出せば良いのかと女性を見やったが、島崎の次の句を待っているようで、一心に見返してくる様子に逆に島崎が怯みそうになる。
「今日は捜査にご協力いただく関係で?」
「あ、はい。目撃者として話を聞かせて欲しいと言われたので」
「傷害の?」
「あ、はい。電車内での傷害事件ということで」
一発で出会えたらしいと、わずかに頬が緩む。
「あの。被害者の女性って、大丈夫だったんですか?」
「今も入院中ですが、命に別状はないとの事です」
二見からの受け売りの情報を渡す。
「あぁ、良かったぁ。目の前で怪我されたんで、ほんと、もう怖くて」
「それでも怯まずに目撃情報を寄せていただける事が、我々警察としては有り難いですね」
自分でも白々しいと思ってしまう笑みを貼り付けて、島崎は深々と頭を下げた。
「あ、いえ、とんでもないです」
女性は首を横に振りながら、強く否定するように自分の前で両手を振って見せた。
「でも」
「でも?」
左手を頬に添えて小さく首を傾げる。
「不思議なんですよ」
「何がです?」
女性はじっと島崎を見上げ、伝えるかどうするか、思案しているようだった。慣れない笑みを浮かべたままの島崎は、頬の辺りが不自然にひくひくと引きつりそうになるのをじっと我慢した。
「警察で変なこと言ったら信用されない気がして」
「変なこと、ですか?」
親しみやすさを出そうと、軽い調子で聞き返した。
「警察の人も『偽者』って信じます?」
問われて島崎は言葉に詰まった。
「やっぱり信じてもらえないですかね」
女性は落胆したように両手でスマホを握る。
「やっぱり警察も人間なんで、信じる信じないは人それぞれなところはあると思うんですけど」
島崎は大きく息をついた。
「俺は信じますよ」
先程よりも更にぎこちない笑みを浮かべる。
「ホントですか?」
女性の表情がぱっと明るくなった。島崎は自分の感情が表に出てこないようにとぎゅっと拳を握る。
振動したスマホに、女性は視線を落としてから慌ててバッグへとしまった。
「あっ! もう時間なんで行きますね」
慌ただしく頭を下げて、女性は案内の紙を手に、足早に廊下を進んでいった。見送っていた島崎の拳が緩められ、顔からは笑顔が抜け落ちた。
二見が情報を漏らしたのも頷ける。三課に行ってからは『偽者』の情報など全く来なくなって、あるいはこんな感情は業務の中で風化していくのではないかと思ったこともあった。
こうやって『偽者』の情報が自ら出向いてやってくることに、神に『偽者へ報復する』運命を与えられているのではないかと錯覚してしまう。そんな自分の妄想に、馬鹿らしくてわずかに笑みが浮かんだ。
島崎のスマホが振動して、強制的に我に返ると、「山口」の表示を確認してから気怠そうに「はいはい?」と返事を返した。
『あ、島崎さん? 捜査官から報告上げるようにって連絡来てますよ』
「はいはーい。今戻るから大丈夫だ」
島崎は適当に返事を返すと、山口の返事も聞かず、一方的に電話を切った。
同じネタを洗うのであれば、自分にも『偽者』へのアプローチを得られるかも知れない。
島崎はなんとかして『偽者』の情報を得られないかと、考えを巡らせながら山口が首を長くして待っているであろう三課へと戻った。