「最悪」
滑り込んできた電車を見て、言葉が口をついて出た。言葉にしてしまうと、より一層この不運な状況を知覚してしまう。人が間近にいるドアは、開いてもその先の空間を空けてはくれなかった。それでもなんとか電車に乗り込むと、更に後ろからも押し込まれ、まるで全方向から圧縮されているかのようだ。
起きた時間が遅かったワケでもないし、選ぶのに迷うほどの服がある訳でもない。ただ、お気に入りのパンプスのヒールが、アスファルトの凹みに引っかかって折れてしまい、電車を一本見送る羽目になってしまったのだ。
ホント最悪。
引っ張られて遠のこうとする鞄の肩紐をかけ直してから、心の中で繰り返した。さっきからかかとが痛い。履き慣れない靴で駅まで急いでかかとが靴擦れになり、多分水ぶくれになっているだろう。急いだ甲斐もなく改札に向かう途中でいつもの電車が出てしまった時の落胆は言うまでもない。挙げ句、混雑した車両の中で奥へ奥へと流されていく中、なんとかつり革を掴んだものの、握る指のネイルが随分押し上げられているのが見えて、更に気が滅入る。
更に「超最悪」と頭で繰り返したと同時に、電車が大きく揺れた。近くに立っていた大柄な男性の足に踏まれて、泣きそうな程つま先が痛い。靴擦れのことが頭から離れるほどだったが、「すみません」「大丈夫です」のやりとりを終える頃には、つま先とかかととでどちらがより痛いかを主張するようになっていた。
こんなに辛い思いをしているのは自分だけなのではないかと錯覚するほど、自分が惨めに思えていた。
窮屈な車内で揺られること三駅。乗り換えで人がごっそり降りる駅まであとひとつだ。その駅を過ぎれば快適に座ることのできる空間が広がる。座りさえすれば、今日のラッキーカラーであるライムグリーンのスマホケースが、自分のこの落ちきった運勢を向上させてくれるだろう。そうだと願いたい。
早く座りたい。降りる準備を始めた数人に目星を付けつつ、つり革にしがみつきながら電車がホームに滑り込むのを待ちわびる。
扉の開く音、車掌のアナウンスを浴びながら、降車の流れをすり抜けて生ぬるい座席へと身を沈める。人が少なくなったのを確認してから、痛かったなぁと足を前に投げ出して視線を落とした。黒のパンプスには踏みつけられた靴の跡が残っている。大丈夫とは返したものの、決していい気はしない。
せっかく座れたのだから、電子書籍でも読んで気持ちを切り替えよう。そう思い直してライムグリーンのケースに入ったスマホを取り出す。
画面をタップして指をスライドさせる。スマホケースと合わせてデザインしたのに、残念な姿になり果てたネイルは、今度の週末でまた綺麗にデザインし直そう。今日最悪だった分、週末はパンプスも買いに行こう。
アプリを立ち上げながら気持ちも立て直していると、視界にぽたりと何かが落ちた。スマホの画面の上に広がったのは透明な水滴のように見えた。何が落ちてきたのだろうと顔を上げる。と、眼前に綺麗な女性の顔が迫っていた。しかし、その顔は酷くしかめられており、口元がわずかにわなないている。
「……けて」
その口が何かを呟いた。聞き取れずに思わず「え?」っと訊き返していた。
「たす……けて」
もう一度その口が言葉を紡いだ時、向かいの席から悲鳴が上がった。自分に崩れ落ちてくる女性を反射的に受け止めて、その意味を理解した。女性が遮っていた視界が広がると、そこには男が立ち尽くしていた。何かをブツブツと呟き続けているが、何を言っているかは定かではない。男の右手の先は鋭利な刃物があり、それで女性を斬りつけたのだと容易に想像できた。
マジで最悪。
視線が合わないようにと顔を伏せながら、この時が早く過ぎてしまえば良いのにと願った。
さすがにやばくない?
女性を振り払わない限り逃げられない。男と視線が合わないように右下へと落としながら息を潜める。
左側で悲鳴が上がった。男はそれに対して「違う!」と吠え立てた。その声に驚き、複数箇所で悲鳴が上がったが、それにも男は「違う!」と大声を出した。男の行動に縮み上がった車内は、端の方から別の車両へと移動している様子がうかがえた。やがて男は隣の車両に向けて足早に歩き出した。逸らした視界の中で男の足が遠ざかっていくのが見える。「戻ってくるな」と心の中で強く願いながら、視線を上げた。少し離れたところで「緊急停止ボタン押します」と男性が声を上げ、押した様子がうかがえた。
近くに視線を戻すと、抱き留めた女性の息は細かく小さくなっていた。動かして良いのかも分からず、ただその体を受け止めているしかできない。
「大丈夫ですか?」
問いかけたところで返事をする余裕はないようだ。どうしたら良いものかと困惑していると、近くにいた若い女性が「ココのタオル、使って」と、被害者の女性の背中にタオルを押し当てながらもう一枚を差し出してきた。自分よりも若く見えるのに、冷静で落ち着いて見えた。ふわりと華やかな香りがして、愛らしいデザインのタオルだったが、本人はそれが汚れるのを気にしていないらしかった。頷いて受け取ると、若い女性に倣って広範囲に広がる背中の傷の上にタオルを押しつける。華やかな柄をあっという間に血が赤く染めあげていく様子に背筋が一瞬寒くなった。
何とか二人で協力して自分の座っていた座席に被害者の女性を横たわらせると、ゴトリとライムグリーンのスマホが床に落ちた。慌てて拾ってバッグにしまってから、背中の傷の止血を続ける。傷が大きいためか、タオルは赤く染まったが、あふれて垂れるという様子はない。少しばかり安堵感を感じてから、「早く血が止まって欲しい」と願いながらタオルを二人で押しつけていた。
そうこうするうち、列車は緩やかに停車した。
このまま救助を待てば良いのだろうか。不安で心臓が早鐘を打つ中、続く車両の扉が荒々しく開け放たれた。車掌だろうかと期待して視線を向けると、入ってきたのは先程の男だった。が、凶器は持っていないように見える。少しばかり安堵して体から力が抜ける。再び悲鳴が起こったが、一瞬のことだった。男の手元を見て、凶器を持っていないことに気づいたのだろう。意を決したサラリーマンが、二人ほど入ってきた男に近づいていく。それを見た男は辺りをキョロキョロとしてから、わずかに空いている窓を押し開いて外に身を乗り出した。
「逃がすな」
声をあげ、サラリーマン達は男へと飛びかかる。
「ダメだよ! 危ないって」
目の前でタオルをくれた若い子が中腰で声を上げたが、サラリーマン達へは届かなかったのだろう。外へと逃げようとした男を二人がかりで捕まえた。が、直後、男はギロリと二人を睨み、持っていなかったはずの凶器を手にして、自らを拘束しようとするサラリーマン二人を斬りつけた。どこから取り出したのか分からない程、手元に凶器が出てきたのが一瞬だった。袖に刃物を仕込んでいたのだろうか。突然の事に二人が怯むと、凶器を手にした男は押し開いた窓から外へと飛び降りていった。
思わず全ての顛末に見入ってしまっていた。確かに、逃げ出した瞬間の男の手には凶器はなかった。凶器を外へ放った様子も、しまった様子も見られなかった。見間違いでなければ、男が指を揃えた手が、そのまま刃物に変化したように見えた。
「お姉さん、まだちゃんと意識ある? 警察に連絡したからね。もう少し頑張って」
不意にあの若い子が声を上げ、はっと我に返ってタオルに目を落とした。随分と赤く染まってしまったなと、頭は妙に冷静な事を考えていた。半分は逃走する男の姿が何度も再生されている。
あれって、『偽者』?
雑誌で見た事のある知識が蘇る。
人間を模倣するニセモノがこのセカイにはいるのだと。
近づくパトカーと救急車の音を聞きながら、男の手が一瞬で変化した様子を何度も繰り返して思い出していた。