●第六夜 舟幽霊 (その四)
「あれ、結衣……今日は早くないか?」
翌日の朝。
何時もならば時間ギリギリまで寝ている結衣が、今日に限っては早起きし朝食の支度をしている。
……昨日の予報では晴れるはずだったが、今日は雨が降るのではないか? そう考えた新田はテレビを点けると天気予報を見始める。
「なに失礼なこと考えてるのよ……はい、アンタの分」
テレビのお天気コーナーを眺めていた新田に、そう言って出されたのはちょっと焦げたベーコンエッグとトースト。
さらに二人分の暖かいミルクティーとバターをテーブルに置くと、結衣は席に着く。
「早く座りなさいよ。それとも食べないの?」
「いや、食べるよ……いただきます」
新田も席に着きながら、トーストにバターを塗りつつ結衣の顔を見る。
ただ自然とトーストを齧り、紅茶が入ったカップに口付ける彼女の唇をつい見てしまう。
「な、なに意識してるのよ、えっち!」
新田の視線に気が付いたのか、慌てて唇を手で覆い隠す結衣。
アルビノの彼女が照れると、途端に肌が真っ赤に染まるので分かりやすい。
「ご、ごちそうさま! 行って来る!」
「ああ、行ってらっしゃい」
急いでトーストとベーコンエッグを食べ終わると、グイっと紅茶を飲み干し席から立ちあがる結衣。
そのまま食器を流しにおくと、隣の席に置いておいた通学バッグを手に玄関から外へと駆け出す。
「もう、私らしくなかったかな……」
アパートを飛び出した結衣は、浅草橋、両国橋と駆けながら隅田川を挟んだ対岸にある水上バスの発着場へと向かう。
走っているうちに火照った顔は冷め、少し冷静に考えられるようになった。
「(新田の手、大きかったな。新田の唇……人工呼吸とは言え、キス、されちゃったんだよね)」
その時の光景を思い出すと、冷めた筈の頬がまた赤く染まるのを感じる。
新田はどう思っているのだろうか、緊急事態だから何ともないのか、それとも意識してくれているのか……キスし慣れていると嫌だな、私とのキスを特別に思ってくれていないと嫌だ。ふとそんなことを思う。
「結衣、早いじゃない! どうしたの?」
「どうした結衣、泣きそうな顔をして……」
水上バスの乗り場に着くと、スクールバスの到着を待っていたクラスメイトで友人の
もう一人の友人、
泣きそうな顔……そう言われ、結衣はコンパクトを取り出すと取り付けられたミラーで自分の顔を見る。
確かにその顔は泣きそうであった。
きっと新田がキス慣れしていると嫌だ、特別に思ってくれていないと嫌だ。そう思ったからだろう。
「大丈夫、ちょっと変な夢を見ちゃっただけ……うん、元気元気!」
持ち前の明るい表情を見せ、元気をアピールする結衣。
愛と舞はそんな結衣の姿を見合うと、そっと優しく抱きしめるのであった。
「……キス、か」
「なんじゃ、わらわに霊力を分けてくれる気になったのかえ?」
アパート前のゴミステーション。朝のゴミ出しをしていた新田の背後から声が掛けられる。
それは同じアパートに住む大学生、
彼女は以前の事件で失った力を取り戻すために新田の霊力を狙っており、事あることにキスを……霊力の譲渡をせがむ。
ちなみに、キスで霊力や妖力を奪うことが出来るのを教えたのも彼女であった。
「朔夜様ですか……あなたには霊力は渡せないと何度も言っているでしょう」
「そのわりにはキスがどうだと言っておったじゃないか。白も気にしておるぞ?」
口に出ていたのか……朝のゴミステーションで白と一緒になるのは分かっていたことなのに、油断したと新田は悔やむが遅い。
「い、いえ……そうですね。緊急事態で人工呼吸をしまして、それを気にした方がいいのか、それとも流した方がいいのか分からなくて」
「それは……結衣さんと?」
何時の間にか変わっていたのか、朔夜ではなく白が新田に話しかける。
白のその問いかけに頷く新田。
結衣とは異性とは言え千紙屋のパートナーであり、同居人であり、友人だと思っている。
だが二十七の新田から見れば十六の結衣は年下であり、護るべき対象であると思っていた。思い込んでいた、が正しいのかも知れない。
「結衣さんも高校生とは言え、年頃の女の子ですから……キスの意味は分かっていると思いますよ」
「そう……ですよね」
白の言葉に新田はそう頭を掻きながら呟く。緊急事態だから、だけじゃ年頃の女の子は納得しなさそうだ。
「ですが、結局のところは新田さんがどう思うか、ですよ。緊急事態だったのでしょう? 私とのキスとは状況が違いましたか?」
新田は朔夜から霊力を奪うために白とキスしたことを思い出すと、あっとした顔をする。
そうだ、同じ緊急事態とは言え白とキスしているのに、別の人とのキスの相談をして……新田はデリカシーが無かったと謝る。
「それは良いんです。朔夜からは聞いていますが、私は覚えていませんし……でも、特別に思ってくれていたなら嬉しいんですが」
「それはもう! でも、白さんの時とは別な意味で、結衣は特別な感じがするんです」
白は朔夜の能力が暴走した時、記憶と引き換えにその力を将門社長に祀り上げて貰った。
そのため新田とのキスをした際の直接の記憶は残っていないが、復活した朔夜から事の顛末は聞いていた。
意地悪な質問だったが、そう答える新田に複雑な表情を見せる白。自分を特別と思ってくれているのは嬉しい。
だが結衣への気持ちも気になる。
……ライバルになるのかも知れないのだから。
「新田さんも、自分を見つめ直す時間が必要なのかも知れないですね。時間と言えば……お仕事、いいのですか?」
そう言われ、新田はスマートフォンを取り出し、表示された時刻を見る。
もう出勤する時間は過ぎていた。
「す、すみません! 行ってきます!!」
「はい、行ってらっしゃい」
ヒラヒラと手を振る白に見送られ、新田は急いで秋葉原へ……千紙屋へと向かう。
残された白は、新田の姿が視界から消えると、何とも言えない顔をする。
「ねえ朔夜、結衣さんがライバルになったら……勝てると思う?」
「(勝てるかどうかじゃない、勝つんじゃ! ……と、言いたいところじゃが、強敵になるじゃろうな)」
新田と結衣はあやかし金融『千紙屋』……いや、あやかしによるトラブル解決屋である『千神屋』で命を預ける相棒同士。
その関係は既に普通の友人や恋人以上の関係であることは間違いないだろう。
白の問いかけに、朔夜は心の中から彼女にそう返す。
「新田さんがロリコン、って言われることになるけど、結衣さんが本気なら……ううん、私も本気。結衣さんには負けたりしないんだから!」
結衣の気持ちはどうであれ、新田への気持ちは負けない。結衣はそう言うと虚空に向かって宣戦布告をする。
「舟幽霊は沈んだか……」
「ええ、千神屋の先生たち……って言う程の歳じゃなかったですが、若いのに良い腕でした!」
葛西臨海公園の事務所。担当の係員に冷たい麦茶を出された女性は、それを啜りつつ笑顔を浮かべる。
「なに、大事なくて良かったです。わたくしがもっと早く来れれば良かったのですが」
「いえ、水神祭などお世話になっておりますから……妲己様」
妲己、と呼ばれた女性はお茶を飲み干すと、ニコリと笑みを浮かべ席を立つ。
だがその仕草は、舟幽霊が居ないココには最早用はないと言いたげであった。
「また何かあれば連絡致しますね!」
そう見送られる妲己であったが、表情は笑顔を張り付かせているが内心穏やかではなかった。
「(くっ、千神屋め……ここまで育てた舟幽霊を鎮めるとは、よくも邪魔をしてくれたな)」
海に怪異は付きもの。その恐れを利用し妖力を得る筈の装置であった舟幽霊。
まさか千神屋に水棲の式神が居るとは……妲己は悔しい気持ちを堪え、海岸へと赴く。
「ん? あれは……」
波打ち際に手のような物を見つけた彼女は、それに近づく。
それは舟幽霊の手……だが柄杓の代わりに何かを持っていた。
「これは……あやかしの核か」
妲己が手に入れたモノ。それは舟幽霊が舟幽霊であるための妖力の核。
どうやら河童の一撃で切断したと思われたが、核は無事だったらしい。
これがあれば……妲己は思わぬ拾い物をしたとほくそ笑むのであった。