部屋をでて、エレベーターで上にあがる。
時刻は九時すぎ。館内にはまだ人影がそれなりにあった。
ホテルのバーラウンジは、薄暗くて窓が大きく、外の景色がよく見えた。
空にたくさんの星が見える。
カップルや夫婦と思われる男女の客が多く、ソファーに腰かけているカップルは妙に近いように見える。
暗いから、周りのことなんて気にならないんだろうな。
店員さんに案内されて、私たちも窓際の席に座る。
丸いテーブルに、窓の外が見えるようにふたり掛けのソファーが置かれている。
席に着き、私たちはメニューを見る。
うわぁ、知らないお酒の名前がたくさん載っている。
スコッチウィスキーにアイリッシュウィスキー、ジャパニーズウィスキー……って、ウィスキーだけでもたくさんある。
そして見たこともない値段が書いてある。
ワインも色んな名前が書いてあって全然分かんない。
かろうじてわかるのはカクテルだけだった。
ジントニックにオレンジブロッサム、モスコミュールにソルティドッグ。
知っているメニューを見ると安心する。
「ねえ、湊、君」
呼び捨てにしようとしてなんか恥ずかしくてできなくて、妙な呼び方になってしまう。
お互いに呼び捨てにしようって、そういう話にはなっているんだけど。結局一緒に暮らしているとあんまり名前を呼ぶ機会がなくって、久しぶりに名前を呼んだ気がする。
湊君は一瞬不思議そうな顔をしたけど、微笑み言った。
「何?」
「ここにのってるお酒ってわかるの? すごい種類あるけど」
すると湊君は肩を竦めて言った。
「わかるっていうか……多少は。ワインくらいしか普段飲まないからウィスキーは疎いけど、名前くらいは知っているよ」
そうなんだ。私は全然わかんない。まるで呪文にしか見えない。
「とりあえず無難にカクテル頼もうか」
「うん、そうする」
間髪入れずに私は頷き、ウォッカベースのモスコミュールを頼むことにした。
湊君はラムベースのモヒートを注文する。
それに、サラダと生ハムも頼んだ。
スタッフの人が離れ、私は背もたれに深くもたれかかり、大きく息を吐いた。
「なんだかこういうところ、緊張しちゃう」
言いながら思わず辺りを見回す。
流れている音楽はジャズ、かな。
話し声も聞こえるけれど、皆静かにゆったりとした時間を過ごしているように見える。
「慣れない所ってそうだね」
「バーって来たことあるの?」
「あるよ。そのあとだいたいホテルに行ってたかな」
あ、やぱりそうなんだ。
いい加減慣れたので、私は思わず苦笑する。
湊君はハッとした顔をして私の顔を見たかと思うと、なぜか申し訳なさそうな顔になって言った。
「ごめん、こういう話、嫌だったよね」
「あ、大丈夫、大丈夫。さすがに慣れたし」
苦笑いして言うけれど、湊君はちょっと気にしている様子だった。
私は彼の肩に手を置いて、
「大丈夫だってー。今湊君と一緒にいるのは私なんだし。それもう昔の話でしょ? もう気にはならないよー」
笑いながら言うと、湊君は私の手と顔を交互に見た後そっと、私の手首をつかみ顔を近づけてきた。
う、ち、近いんだけど。
彼は目を細めてそして、小さく言った。
「ねえ灯里」
名前を呼び捨てにされて、ドキン、と心臓が高鳴る。
「え、あ……えーと……」
「君、をつけないって話、覚えてる?」
覚えてますよ、はい。ライブの後、そんな話をしたよね。
でもね、長年「君」をつけて呼んでいたわけよ。だから何かこう、面と向かって名前を呼ぼうとすると、流れるように「君」が出てきてしまう。
長年の習慣がそう簡単に変えられるわけがない。
「お、お、覚えてるって。なんかね、自然と出てきちゃうんだよねー」
苦笑しながら言うと、湊君はぐい、と顔を近づけてきて、目を細める。
「あぁ、そういうことか。まあわかるかな。でも、『君』なしで呼んでほしいな。灯里の特別になれたんだって思えるから」
う……そんな、切なげな眼で見つめられると恥ずかしさで噴火しそうなんだけど?
あわあわしていると、湊君がちらり、と視線を動かしすっと離れて行った。
「お待たせいたしました。こちら、モスコミュールでございます」
そして、黒服のスタッフさんがテーブルの横に立つ。
「あ、私です」
言いながら小さく手を上げると、スタッフさんは私の前にコースターを置き、グラスを置いた。
カクテルっててっきり三角形のグラスにいれられてくると思ったけど、違うのね。
よくジュースとかがいれられてくるごく一般的なグラスの縁に、ライムが刺さっている。
湊君の前に置かれたモヒートのグラスも、私と似たようなグラスだった。
なんだろう、ミントかな。葉っぱが突き刺さっていて、カットされたライムが浮いている。
モヒートってこういうお酒なんだ……
知らなかった。
内心驚きつつ、私はグラスを手にしてそれに口をつけた。