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第56話 猫がいた

 その週末、九月二十六日金曜日。

 セプトリアスショックが続く中、仕事中に湊君から珍しくメッセージが届いた。


『灯里ちゃん、猫、大丈夫?』


 急にどうしたんだろう。

 猫は嫌いでも好きでもない。言うなら普通だ。飼ってみたい、と思ったことは何度もあるけれど実現したことはない。ずっと借家だったから無理だったのよね。


『べつに大丈夫だけど何かあったの?』


『猫を預かることになっちゃって。ほら、前に会った角川から』


 あぁ、同じ大学の経済学部で、今湊君と一緒に会社をやっている角川祐仁君ね。彼、猫飼ってるんだ。


『そうなんだ』


『親戚の葬式で九州にいかなくちゃいけなくて、いつものペットホテルが改装で使えなくってそれで預かってほしいって言われて』


『わかった。大丈夫だよー』


 と返すと、ありがとう、の猫のスタンプが返ってくる。

 猫かぁ。飼ったことないからちょっと楽しみ。

 お仕事がんばろう。

 セプトリアスショックは相変わらずで、CDやライブ映像に注文が殺到している。

 メーカーからは生産を急いでいる、という返事が来ていて今回のシングルCDはすでに在庫がなくて通常盤は来週頭出荷予定、初回盤は早くて来週末以降になるらしい。

 他の商品も来週末以降には出荷できるよう手配をしている、という返事が来ているけれど、全ての注文をさばききるには時間がかかるだろうなぁ。

 セプトリアスのことで忙しく、少し残業になってしまったけれど、仕事を終えて七時前には何とか帰宅した。

 すると。


「にゃー」


 という鳴き声が、かすかに聞こえた。

 本当に、猫がいる……!

 私は早く猫を見たい衝動を抑えつつ、洗面所で手を洗い荷物を部屋に置いてからリビングへばたなたと向かった。


「ただいまー」


「あぁ、おかえり、灯里ちゃん」


 リビングに入ると、お肉のいい匂いが漂ってくる。

 これは唐揚げかな?

 視線を巡らしていると、リビングの隅にキャリーバッグと猫用のトイレが置かれているのが見えた。

 そしてそのそばに置かれている猫用のベッドに黒い猫が納まっていて、こちらをじっと、見つめていた。


「あの子が言ってた猫?」


「うん、そうだよ。名前はココ。女の子だよ」


 話しながら湊君は冷蔵庫からカットキャベツが入った袋を取り出す。

 そしてそれをお皿に盛りつけた。それとお味噌汁かな。あと、鍋に大根や練り物の姿が見えるからあれはきっと煮物だろう。

 私はカウンターキッチンの前から黒猫の方を見つめた。

 彼女もまた、金色の目をこちらに向けている。

 綺麗な黒い毛並みの猫だ。

 何歳位かはわからないけど大人なのはわかる。

 前に、猫カフェ行った時、無理に近づかず猫から近づくのを待つように、って注意書きを見た気がするなぁ。

 だから様子をみてないと、よね。

 うーん、触りたい。でも我慢がまん……

 私はココから目線を外し、テレビの方を見る。

 テレビは相変わらず、動画サイトの作業用BGMを流している。

 今日はどこかの森の風景だった。音楽も穏やかで、不思議な音色だ。何だろう、この音。

 湊君、少し変わった曲を聞いたりするのよね。


「灯里ちゃん、料理、運んでもらっていい?」


 そう声をかけられて、私はばっと、キッチンの方に視線を向けた。

 するとカウンターの上にお盆が置かれていて、その上におかずがのったお皿が並んでいる。


「うん、わかった」


「大丈夫だとは思うけど、足元には気をつけてね」


「え? あ、うん」


 意味が分からないものの、私はお盆持って、食卓、というかソファーの前のテーブルに運ぶ。

 すると、視界の隅で黒いものが動くのが見えた。

 私はお盆を持ったまま立ち止まり視線を巡らせると、ココがいつの間にか動いて、床にちょこん、と座っている。

 あぁ、そういうことか。猫だし、足元に来る可能性があるから気をつけろ、って話だったのね。

 ココはじっと、こちらを見つめている。様子をうかがうかのように。

 ……っていうか、猫がいる状態でテーブルに料理がのったお皿を置いておいて大丈夫なのかな……?


「ねえ、ココ、テーブルの上には乗らない?」


「あはは、たぶん乗ると思うから、お皿置いたらそのままソファーで座って待ってて」


 そう言われ、私は頷きテーブルに近づきお皿を置く。

 するとまた視界の端で黒いものが動き、こちらに近づいてくるのがわかった。

 お皿を置いてソファーに腰かけて見回すと、ソファーから一メートル少々離れた所で、ココは立ち止まりこちらを見ていた。

 知らない人だし知らない場所だから、きっと警戒しているんだろうなぁ。

 こちらを見ていたかと思うと、大きく欠伸をした。


「ココのごはん、用意したら持っていくよ」


 その言葉の後、ザラザラ、という音がして、ココは耳をぴくぴく、と動かした後、一声鳴いた。


「にゃー」


「ココのごはん、置いておくよ」


 そう言って、湊君はココが寝ていたペット用のベッドのそばにあるプラスティックの小さな台の上に、黒いプラスティックのお皿を置く。その隣にある噴水みたいな機械は水飲み用のお皿何だろうな。

 ココはエサが置かれた台に近づくと、カリカリと食べ始めた。


「僕たちも食べよう。今日は唐揚げと大根の煮物だよ」


「そうね」


 ココが食事をしている間に、私たちもご飯を食べ始めた。

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