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第36話 外へ

 九月六日金曜日。

 だいぶ過ごしやすい気温になってきたけど、まだ三十度を越える日が多い。

 それでもトンボを見かける日もあるし、日が暮れると風が心地よく感じることが多くなった。

 湊君のマンションに引っ越してきて三週間近く。誰かにつけられている様子はないし、視線を感じることはない、と思う。

 私は今の生活に徐々に慣れてきて、余裕も出てきた。

 そして今日は、千代と鍵村さん、それに鍵村さんの部署の人と飲みに行く約束をしている。

 久しぶりに飲みに行けるの楽しみだなぁ。

 最近ずっと、あのストーカーが怖くてお昼休みに外出たり仕事帰りに寄り道なんて全然できなかったから。

 ストーカーには警告がいっているはずだし、このまま大人しくなってくれるといいんだけど。でも油断しちゃいけない、って思って今でも私は遠回りしてマンションに帰っていた。

 もうそんな必要はないかもしれないけど、自分的に安心できないんだよね。

 午前中の業務をこなして迎えたお昼休み。

 今日も私は千代とふたり、向かい合って食堂でお弁当を食べている。

 今日のお弁当は白いご飯に冷凍のから揚げ、それに甘い卵焼きとミートボール、ほうれん草のバター炒めだ。

 千代はコンビニで買ったと思われるパン二個と、食堂のサラダを食べている。

 私のお弁当を覗いた千代が、感心したような声で言った。


「ねえ、灯里のお弁当、最近おかず多いよね。それ毎朝作ってるのすごい」


「あぁ、それは湊君の分も作るようにしてるからだよ。人のも作るとなるとおかず、増えるんだよね」


「へぇ、そうなんだ。わざわざ彼の分まで作ってるの?」


 驚いた顔をする千代に、私は頷いて言った。


「うん、毎日じゃないけど。湊君、放っておくとお昼も食べないんだよね。朝、起きるの遅いから朝ごはんも食べてないし。それで時々彼の分も作るようになったの」


 そうしたらおかずの品数が増えたんだよね。少しでも見た目をよくしたくなるから。

 最初、お弁当作ろうかって提案をしたときは負担になるだろうからいい、って言われたけど、月曜と金曜だけなら負担にならないって言ったらそれなら、って話になった。

 だから、月曜日と金曜日のお弁当は少し豪華になっている。


「へぇ。彼ってどういう生活してるの?」


「午前中は起きないんだよね。午後になってやっと起きて、仕事して。夕飯食べて、仕事して……いつ寝てるかは知らないけど、けっこう遅くまで起きているみたい」


「あー、だから朝は起きないわけね。イラストレーターだから家で仕事してるのかぁ。すごいね。この仕事でもたまに在宅ワークになることあるじゃない? あれ私、苦手なんだよねぇ。なんかスイッチが入らないっていうか」


「わかるそれ」


 うちの会社は、事前に電車が止まることがわかると在宅ワークになるし、希望があれば在宅で仕事していいことになっている。

 だから私もストーカーに悩まされていた間、希望を出して在宅ワークをしていたわけだけど、会社で働いていた方がずっといい。ずっと家だと気持ちの切り替えができないんだもの。

 私は箸でミートボールを摘みながら言った。


「ほら、私しばらく在宅ワークしてたでしょ? で、久しぶりに会社に来て実感したもん。会社に来て仕事してた方がずっといいって。家だとメリハリがないって思っちゃうんだよねぇ」


「それわかるー。でも世の中、家で仕事してる人はたくさんいるんだよね」


「そうねぇ。自分にできないことをしてる人は皆すごいって思うなぁ」


 そう言って、私は摘まんだミートボールを口の中に放り込んだ。

 うーん、おいしい。

 うちの職場、各部署に冷蔵庫があるし、食堂に電子レンジあるから痛まないしあったかいお弁当が食べられるんだよね。

 作るのが面倒な時はレトルトのカレーで済むし。


「それはわかるなぁ。灯里の彼みたいにクリエイティブな仕事してる人とかすごいよねぇ」


 千代にそう笑って言われ、私はむず痒く感じた。

 彼、なんだろうか。いや、便宜上彼か。

 恋人だけどこれ、契約だしなぁ。一年経ったらどうなるかわかんないし。

 湊君と一緒に暮らし始めちゃったけど、契約期間が終わったらどうなるんだろう?

 そこはかとなく不安を抱きつつ、私は苦笑いして千代の言葉に頷き、ごはんをすくった。



 夕方六時を過ぎると日が暮れて、空に星が煌めき始める。日が暮れるとかなり涼しく感じる。

 夜、帽子を被るのは変かなぁ、と思いつつ、私はいつものようにベージュの帽子を被って会社を出た。今日は千代が一緒だ。

 外に出るなり、千代は空を見上げて言った。


「日が暮れるの早くなったねー」


「そうねー。日が暮れると涼しく感じるようになったし、超過ごしやすくなってきたよね。もっと涼しくなって欲しいなぁ。暑いの嫌だから」


 そう私が言うと、千代は声を上げて笑った。


「あはは、そうだねぇ。寒いのは着込めば何とかなるけど暑いのってどうにもなんないもんね。もう少ししたら昼間も過ごしやすくなるでしょ? そうしたら紅葉見に行こうかなぁ」


 千代の言葉を受けて、私はそうねぇ、と呟く。

 紅葉って見に行ったことないかも。

 紅葉のライトアップしてるところがあって、いつか行きたいと思っていたけど、行かずじまいだ。

 頭の中に湊君の顔がよぎる。

 ……今年は行ってみようかな。湊君、誘えるし。

 そう思うとちょっと楽しくなってくる。

 秋が来て、冬が来る。冬はクリスマスがあるし、イルミネーションよねぇ。あー、季節のイベントが体験できるのって楽しいかも。

 ……あれ、そういえば。

 イベントっていえば誕生日だよね。

 私は四月九日生まれだから、とっくにすぎている。湊君の誕生日っていつだろう……?

 あれ、話題に出たことないかも。

 嘘でしょ、私。中学一年生の時同じクラスだよ? あれから十年一緒だったのに私、湊君の誕生日、知らないかも。

 そう思ったら変な汗かいてきた。


「あれ、どうしたの灯里。何かあったの?」


 不思議そうな千代の声に、私ははっとして首を横に振った。


「う、ううん、なんでもない。ねえ、千代。鍵村さんたちは?」


 そう尋ねると、千代はスマホを開いてその画面を見つめたまま言った。


「鍵村さん、ちょっと遅くなるって。何かあったのかな。ななみが先に行って席確保してるって連絡きた」


 ななみ、というのは私たちと同期で広報にいる子だ。

 私はすごく仲が良い、訳じゃないけど顔を合わせれば話はする。千代とは着物仲間らしく、交流が結構あって三人で食事にいったり、飲みに行くことはたまにある。

 今回の飲み会は鍵村さんが言いだしたものだけど、ななみがとにかく飲みに行きたい、と言い出したのもきっかけだったそうだ。


「ななみ、何かあったの?」


「そういうわけじゃないと思うよ? ただ騒ぎたいだけだと思う」


 と言って千代はスマホをしまう。


「あぁ、そういえば前、春に飲みに行ったのもななみが騒ぎたいから、だったっけ」


 話しながら私たちはお店に向かって歩く。

 駅から五分ほどの所にあるおしゃれな居酒屋が目的地だ。

 辺りには私たちと同じように飲み屋街に向かうであろう会社員の集団が楽しそうに歩いている。

 私は少し不安をかかえつつ通りを歩く。

 情報によると駅の反対側があのストーカーの職場なんだよね……

 この辺りを歩いていない、という保証はない。

 そう思うと自然と歩くのが早くなってしまう。


「ちょっと灯里。歩くの早くない?」


「あ、ごめんごめん」


「そんなに急がなくても、ななみが席確保してるから大丈夫だよ?」


 と、千代は不可解そうな顔をする。

 まあそう思うよねぇ。理由は違うけど。

 ストーカーがいたら嫌だ、っていう理由だけど変に心配されるのは嫌だからそれは言わず、私は苦笑して千代に歩く速さを合わせた。


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