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第35話 ただいま、おかえり

 在宅ワークは辛いと思うけれど、久しぶりに外で働くとそれはそれで疲れる。

 八月の終わり、気温は三十五度を下回るようになってきたけど暑いことには変わらない。

 帽子にマスクをして会社を出て、私は足早にマンションへと向かった。

 通りを歩く人たちが皆怪しく見えてくる。誰か私を見張ったりしてないよね……? 大丈夫だよね?

 時刻は六時過ぎ。太陽は西の空にもうすぐ沈もうとしている。街灯はとうにともり、街を照らしているけれど、正直薄暗く感じた。

 こういう時間ってたそがれ時って言うんだっけ。すれ違う人たちの顔がわからなくなる時間。皆、辺りなんて気にして歩いていないだろう。

 耳にイヤホンをつけている人は多いし、スマホを片手に歩いている人も多いから。

 でも私は気になって仕方なかった。

 あの人いないよね? 大丈夫だよね?

 そう言い聞かせるけど不安で仕方なくって、私は路地に入ってくねくねと曲がり、デパートを突っ切っていく。

 ここから湊君のマンションまで歩いて十分少々だけど、私はわざと遠回りして帰った。

 マスクに帽子の人なんてけっこう多いから、顔がわからない人、多いのよね。

 いいや、私だってマスクに帽子を被ってわからないようにしているじゃないの。

 だから大丈夫。そう思うものの私は足早に通りを歩いて行った。

 マンションについた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。

 私は辺りを見回してから小走りにマンションのエントランスに入っていく。

 エレベーターに乗って、やっと心が落ち着いてくる。

 きっと大丈夫。あいつは現れないから。

 大きく息を吸って吐いて、私は三階でエレベーターを降りて部屋に向かう。

 ドアに鍵をさしこみ、私は辺りを警戒しながらドアを開けて中に入った。

 きっと大丈夫、誰にも見られていないから。

 あー嫌だなぁ、こんな思いしながら外を歩くの。なんかすごく疲れちゃった……

 私はため息をついて靴を脱ぎ、


「ただいまー」


 と言って、マスクと帽子を外しながら廊下を歩いた。

 洗面台で手を洗ってから突き当りのドアを開けて中に入ると、料理のいい匂いがした。

 何だろう、お肉を焼いたような匂いがしてきて私のお腹が空腹を訴えてくる。


「あ、お帰りー、灯里ちゃん」


 廊下から入ってすぐ左側にカウンターキッチンがあって、そこで青いエプロンをした湊君がお皿に何かを盛り付けていた。

 その姿を見て私は思わず固まる。

 家に帰ってきて誰かに、おかえり、って言ってもらうの、すごく久しぶりだ。そして夕飯を用意してくれているのも。

 お父さんが亡くなる前は私とお父さん、交代でご飯をつくっていた。


『お帰り、灯里』


 仕事をして疲れているだろうに、それでもお父さんは私にご飯を作ってくれたっけ。

 お惣菜も多かったけど、それでも誰かが家にいて待っていてくれるのが嬉しかったなぁ。

 なんだかその時のお父さんの姿を思い出してしまい、私はじっと、湊君を見つめた。

 湊君は手を止めて、心配げな顔をして菜箸とフライパンを置きこちらに近づいてくる。


「どうしたの、灯里ちゃん。何かあったの?」


 真剣な声で問われ、私はハッとして首を横に振る。


「う、ううん、なんでもない」


「もしかしてあいつが現れたとか?」


 そう言った湊君の顔は、みるみる不安の色を帯びていく。

 まあそうだよね、そう思っちゃうよね。

 私はもう一度首を横に振ってそれを否定する。


「ち、違うって。あの、私……ごめんなさい。あのね、湊君が夕飯を作っている姿を見たら、お父さんの事を思い出しちゃって」


 言いながら私は頭に手をやって苦笑する。

 失礼よねそれって。だって湊君とお父さんじゃあ全然違うし。

 私の言葉を聞いた湊君は驚いた顔をして、


「お、お父さん?」


 と、ちょっと上ずった声で言う。


「うん、お父さん。ほら、お母さんが死んでからずっとお父さんとふたりでさ、食事は交代で作ってたの。その時のこと思い出したらいろんな感情がよみがえってきちゃった」


 こんな話をするのは恥ずかしかった。二十歳超えてお父さんがー、何て話、しないよね。

 気を悪くしたかな、って思ったけどそんなことはないみたいで、


「あぁ……そういうことなんだ。よかったそれなら」


 と言い、湊君はほっとした顔になる。


「なんだか悲しそうな顔してるように見えたから何かあったのかなって思って」


「家に帰ってきて誰かがいるって久しぶりだったからさ。ねえ、夕食、何つくったの?」


 そして私はキッチンの方へと歩み寄る。

 彼が盛り付けていたのはハンバーグだった。

 それにサラダとホワイトシチューが用意されている。


「うわぁ、おいしそう」


「こんなに作ったの久しぶりだよ。サラダは惣菜買ってきたけど」


「そういうので全然いいよー。ありがとう、湊君。私、ごはんよそうね」


「うん、わかった」


 そして私はバッグをソファーの後ろに置いて、炊飯器の側に向かった。

 この家にはあんまり食器がなかった。だからいろいろ買い揃えたのよね。

 青いお茶碗と、緑色のお茶碗。もちろん私が緑だ。

 お盆を使ってお皿をテーブルに運ぶ。

 相変わらず食卓はないから、ずっと私たちはソファーで並んでご飯を食べている。

 ソファー用のテーブルってちょっと低いのよね。

 だからといって食卓って必要かっていうとどうかな、とも思う。


「今日、久しぶりに会社に行ったでしょ? そうしたらイラストを湊君に依頼していた先輩に会って、すごく喜んでた」


「テレビ会議ですごく大げさなお礼、もらったよ」


 いつの間にそんなことしてたんだろう、って思ったけど、日中は湊君、ここで作業していて私は部屋に引きこもっていたっけ。

 だからその間互いに何してるかなんて知るわけなかった。


「そうなんだ。あと、広告代理店の人にも会ったのよね」


「へえ、そうなんだ。そういえば広告代理店の人が気に入ったしまた頼むと思います、って言われたかも」


 興味がなさそうな口調で言い、湊君はシチューが入ったお皿を手に持った。

 あの広告代理店の人、何か怖かったけど……私、何かしたかなあ。あの人に会った記憶、無いんだけどな。


「その広告代理店の人、今日会ったんだけど、なんだか変な感じの人だったんだよねぇ」


 そして私はお茶碗に入ったご飯を見つめた。

 炊きたての白いご飯からは湯気がたち、いい匂いが漂ってくる。


「へえ。知ってる人?」


「ううん、初めて見た人。そもそも私の部署は広告代理店の人とかかわる事ないし」


 だから知り合う事はほぼない。

 なんか気になる人なんだよねぇ。でも何なんだろう?

 わかんないことを考えても仕方ないか。それより鍵村さんに誘われた話、しておかないと。


「あ、そうだ。それで、会社の先輩に来月飲みに行こう、って誘われてるんだけど行って来ても大丈夫?」


「別にいいよ」


 間髪入れずに答えた後、湊君はシチューのお皿をテーブルに置いてハンバーグを箸で切る。

 そしてそれを箸でつまんだ後、こちらを向いて首を傾げて言った。


「それって男の人? あの担当の」


「うん、そうだけど。他の同僚も一緒に行こうって言われていて」


 そう答えると、湊君は何度か瞬きをした後、


「そうだよね、うん、大丈夫」


 と、まるで自分に言い聞かせるように言って、ハンバーグを口へと運んだ。

 ……なに、今の感じ。

 うーん、まだ湊君っていう人がいまいちつかめない。

 言ったことに対して私がどんな反応をするのか不安、っぽい感じはするんだけど、どういう時にそういう風になるのかがよくわからないんだよねえ。

 わからないことを考えても仕方ないか。

 私は湊君に対して感じたことはとりあえず置いておくことにした。


「湊君はそういう会社の付き合いみたいなの、あったりしないの?」


 湊君が出社している姿はほとんど見たことがない。

 本人いわく、リモートで済んでしまうからわざわざ出社する意味がない、らしい。

 私の問に、湊君は小さく首を傾げて言った。


「なくはないけど、会う時はだいたい寝る時だったかな」


 真顔で言う湊君。

 そうだった、この人はこういう人だった……

 って、それってつまり……


「ちょっと待って? 取引先の人とそういうことしてたの?」


 そういうことやる? 普通、クライアントと寝たりする?

 驚き聞くと、湊君は不思議なものを見る目で私を見つめてくる。


「うん。誘われること多かったし。ほら、俺見た目はいいから」


 と、悪びれもなく言った。

 いや、まあ確かに見た目は悪くない。ナンパされている姿を何回か見ているし。

 大丈夫なのかな? クライアントと関係もつってヤバくないのかなぁ……うーん、コンプライアンス的にアウトな気がするけど……

 モヤモヤする私に、湊君はにこっと笑って言った。


「今はそういうことないよ? 誘われても断ってるし」


「あ……そうなんだ」


 つまり私の知らないところで誘われてはいるのね。もうそれは苦笑するしかない。

 湊君、いったい何人と寝てきたんだろう? 気になるけどそんなの聞けないしな……

 じっと湊君を見つめて考えていると、彼は小さく首をかしげた。


「どうしたの、そんなに俺のこと見つめて」


「えーと、な、何でもないから」


 さすがに何人と寝たんですか、と聞く勇気はないので、私は意識を食事へと集中させることにした。

 ハンバーグおいしいなぁ。

 人に作ってもらったごはん、レストランとはまた違う感動があるなぁ……


「断る理由もなかったからいろんな人と寝てきたのは事実だけど、灯里ちゃんといる間は絶対、そういうことはしないから大丈夫だよ」


 湊君、浮気するんじゃないか、って私が心配していると勘違いしてるのかな?

 ……この場合、浮気、と言うのかわかんないけど。正式な恋人じゃないし。


「それは心配してないよー。だから大丈夫」


 笑って答え、私はご飯を口に運んだ。


「そうか、ならいいけど。働いてると色んな付き合い出てくるよね。俺はそういうのあんまり好きじゃないから交渉ごとは別の人に任せてるんだけど、打ち合わせは俺がしないといけないからさ。そういう時に顔を合わせて、後で誘われることが多かったかも。こっちらかも誘う事、あったけど」


 大学生の時のヴァージンキラーみたいに、湊君、変な噂流れてそうだな……

 内心呆れつつ、私は苦笑して、


「そういうことあるんだね」


 と言うのが精いっぱいだった。

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