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第34話 引越し

 八月十八日日曜日。今日はよく晴れている。それはもう外になんて出たくない位に。

 今日、私は湊君のマンションに引っ越した。

 アパートの解約はすぐにできないけど仕方ない。

 電気やガス、水道は止めたし、念のため市役所には住民票を他人に見られないように手続きをしてきた。

 私の引越しを待って、相手には警告をしてもらうことになっている。

 いらない家電はもろもろ引き取ってもらい、服や棚、布団やベッドなどしかなくってかなり身軽な引越しになった。

 八畳弱の部屋にベッドを置いて、本棚の上に両親の位牌を置く。

 そして位牌に手を合わせて、両親に話しかけた。

 色々あったけど、ちゃんと私、生きていくから見守ってね。

 荷物は少ないからすぐに片付けは終わり、段ボール箱を潰しているとドアを叩く音がした。

 私は畳んだ段ボールを抱えたまま返事をする。


「はーい」


「灯里ちゃーん、開けても大丈夫?」


 湊君の言葉に私は返事を返す。


「大丈夫」


「じゃあ開けるね」


 がちゃり、とドアが開いて紺色のTシャツをきた湊君が現れて室内を見回す。

 そして、にこっと微笑み言った。


「手伝う事あるかな、って思ったんだけど大丈夫かな」


「うん、ありがとう。今、段ボールを片付けてるところ」


 言いながら私は畳んだ段ボールを床に置いてもうひとつの空き段ボールを潰した。


「明日、燃えないゴミの日だから、後でそれ捨てにいこうか」


「うん、ありがとう」


 答えながら私は段ボールを畳んだ。

 部屋を見回した湊君は棚の上に置かれた位牌に視線を向けて言った。


「ねえ、手を合わせてもいい?」


「え? あぁ、うん。大丈夫だよ。危ないからお線香やろうそくはないんだけど」


 ひとり暮らしだったし、お線香やろうそくの消し忘れで火事が起きる、っていうニュースはまれにあるしアパートでも禁止していたから置いてなかったのよね。

 だから今は位牌だけだ。

 湊君は棚の前まで行くと、位牌に向かって静かに手を合わせた。

 そしてゆっくりとこちらを振り返ると、微笑んで言った。


「夕飯、何食べようか?」


「そうねぇ、疲れたしどこかに食べ行きたいなあ」


 答えながら私は畳んだ段ボールを重ねて抱える。

 湊君の家でお世話になってから自炊する機会が増えた。

 私が朝食を、湊君が昼食を、夕食はどちらかが作っている。

 湊君は朝起きないから、彼の分の朝食を用意することはないんだけど。

 昨日も自炊だったから今日くらいは食べに行きたい。

 私の答えに湊君は頷き、


「わかった。じゃあ準備してくるね」


 と言い私の隣をすり抜けていく。

 そしてドアから出ていこうとする背中を、私は呼びとめた。


「あ、湊君」


「何?」


 小さく首を傾げて振り返る湊君に向かって、私は頭を下げて言った。


「いろいろありがとう。これからもよろしくね」


 今日の引越しだって、湊君は手伝ってくれた。

 ストーカーのことと言い、今回のストーカーの事も湊君がいなかったら私はきっと、折れていたと思う。

 湊君は一瞬驚いた顔をした後、なぜか頭を下げる。


「こちらこそよろしくお願いします」


 そして頭を上げてにこっと笑ったから、私も笑顔で答えた。




 八月二十六日月曜日。

 今日から私は職場復帰する。

 仕事柄、希望があれば在宅勤務を認めてもらえるとはいえ、ずーっと在宅っていうのは私に合わない。

 やっぱりオンとオフは切り替えないと駄目なんだよね。家だとなんていうか集中できない。

 例のストーカーには弁護士と警察から警告がいったらしい。

 引っ越した事には気がついていないのか、先週はアパートのそばをウロウロしていたらしく警察が声をかけたそうだ。それで注意をした、らしい。

 詳しい話は聞いていないけど、これでこりてくれたらいいなあ。

 職場がばれているのは不安なので、時間もずらして出勤する。

 帽子かぶって、マスクして。バッグや服装も変えて。これならばれにくいと思うんだけど。

 辺りを警戒しつつ会社に入っていく自分はとても不審者な気がした。

 これ、夏だから帽子かぶっていても不自然じゃないけど、冬場だったら悪目立ちしそうだな。夏でよかった。

 オフィスに入ると千代が話しかけてきた。


「おはよう、灯里」


 と言って手を上げて来たので、私も手を上げて返す。 


「おはよー。久しぶり、千代」


 ぱーん! と、私と千代の手のひらがぶつかり合いいい音が響く。


「戻って来てくれてよかったよー。鍵村さんが気にしてたよ? お礼渡せなかったからみんなで飲みに行かないかって」


 千代に言われ、私はお盆休みに鍵村さんから言われたことを思い出す。

 お礼にお菓子をくれるって言っていたっけ。でも私、お盆前からずっと休んでいたからお礼を貰い損ねている。正直私は何にもしていないからそういうのいらないんだけど、鍵村さん的にはそういうわけにはいかないんだろうなぁ。

 私は苦笑しつつ頷き答えた。


「そうねぇ。千代とかが一緒なら飲みに行くのもいいかなぁ」


 最近色々あったから飲みになんて行っていない。

 だからちょっと心惹かれる。

 千代はスマホを取り出して、


「じゃあ予定立ててるよ? まあ早くても来月になるけどねー」


 なんて言って、千代は手を振り去っていった。

 私は彼女の背中に手を振り、上司に挨拶してから椅子に腰かけて久しぶりに会社のパソコンを起動させた。

 さて仕事しますか。

 午前中の仕事をこなし、午後一時になって私と千代は食堂にご飯を食べに行く。

 私は今日もお弁当だ。唐揚げやスイートポテト、グラタンといった冷凍食品を詰めただけだけど。

 千代は食堂で買ったハンバーグ定食だ。

 向かい合って座り、私たちはお昼を食べる。


「大変だったね、灯里。それで引越しできたの?」


「うん。昨日引越したよ」


 答えながら私は唐揚げを摘まんで口の中にいれる。

 唐揚げおいしい。


「ねえ、どこに引っ越したの?」


 首を傾げて言う千代に、私は苦笑する。


「あはは、さすがに場所は言えないんだ、ごめんね」


すると千代ははっとした顔をした後、気まずそうな顔になる。


「そうだよね。どこから情報が漏れるかわかんないもんね。灯里が出勤できるようになってよかったよー。灯里ってなんでそういうひとばっかり惹きつけるんだろうね」


「そんなの私が知りたいよ。でももう終わりにしたいなぁ」


 言いながら私は苦笑する。

 湊君と付き合う中で、メンヘラほいほいの汚名をどうにかできるといいんだけど。

 千代はにやにやしながら声を潜めて言った。


「例の彼とはうまくいってるの?」


「うん、まぁ」


 答えて私は思わずニヤニヤしてしまう。

 このところの湊君は正直かっこいいと思った。

 私のために探偵を雇ったり、弁護士を手配してくれたり。

 あんなに頼りになる人だったんだなぁ。

 まさか一緒に暮らす始めることになるなんて思わなかった。

 私の曖昧な答えをきいた千代は嬉しそうな顔になる。

 あれ、どうしたんだろう?


「灯里、今超幸せそうな顔してる。そんな顔してるの初めて見たよ」


「え、そ、そんなに?」


 驚き私は思わず頬に手を触れる。

 千代はうん、うん、と頷きながらハンバーグを箸で切る。


「だってすごく幸せそうな顔してるんだもん。よかった、今度は大丈夫そうなのかな」


 なんて言って、ほっとしたような顔になる。

 まあ、今までの相手がどこか変だったもんなぁ。今回のストーカーだってそうだし。

 湊君は正直変な人なのは確かだけど私には無害だ。


「そうね、私、湊君とならいい未来を築けるかもしれない」


「そうだね、灯里の顔をみてるとそんな気がする」


 そして千代は箸で切ったハンバーグを口の中にいれた。


「あ、森崎さん、篠田さん」


「鍵村さん」


 私たちが座るテーブルの横に、トレイを持った鍵村さんが立っている。

 彼は満面の笑みを浮かべて私の方を見て言った。


「森崎さん、久しぶり! 例の映画の件、おかげで話が進んでるよー。広告代理店の人も気に入ってくれたんだよ、また頼みたいって」


「鍵村さん」


 知らない女性の声が、どこからか聞こえてくる。

 誰だろう。視線を巡らせると、鍵村さんの少し後ろに、明るい茶髪の女性が立っていた。

 年齢は私と大して変わらないと思う、二十代半ばくらいだろう。

 袖のないベージュのブラウスに膝上のスカートを穿いた、綺麗な人だった。

 彼女はにこにこと笑って私たちへと視線を向けて言った。


「あら、こちらは?」


「我妻さん、こちらはあのイラストレーターさんを紹介してくれた後輩なんですよ。彼女のお陰で納期が間に合って」


 一瞬、空気が張りつめた気がした。

 ピキーン、という音が聞こえたと思ったんだけどそれは一瞬で、我妻さん、と呼ばれた女性はにこにこ顔で私に視線を向けた。


「あら、貴方でしたの。ありがとうございました」


 と言い、頭を下げる。

 私は慌てて立ち上がり、頭を下げて答えた。


「と、とんでもないです。私はただ友達を紹介しただけで」


 あれ、また空気が張りつめた気がするんだけど……?

 おそるおそる我妻さんの顔を見ると、一瞬、怖い顔をしたような気がした。

 でもすぐに笑顔になって言った。


「初めまして、リックウ株式会社の我妻と申します」


「も、森崎です」


「篠田です」


 言いながら千代も立ち上がる。

 そして我妻さんは私の頭からつま先まで文字通り舐めまわすように見た後呟いた。


「もしかして貴方のせい?」


 と言って、妖しい笑みを浮かべる。

 わ、私のせいって何が?

 驚いて目を見開くと、我妻さんは口元に手を当てて、


「またお会いしましょう」


 と言い、頭を下げて私たちに背を向けた。

 な、な、なにあれ。なんなのあの人? なんだか一瞬睨まれた気がするんだけど気のせい?

 やだ、背中に変な汗流れていくんだけど?

 なんだかいやな予感がするなぁ……


「じゃあ森崎さん、篠田さん、また!」


 と言って、鍵村さんは去っていく。

 我妻さんかぁ……初めて会う相手だけどなんだかいやな感じだなぁ。

 なんていうか、敵意みたいなものを感じたけど気のせいかな?

 うーん、今まで男関係で嫌な目にはあったけど、女性はないよ?

 何事もないといいけど……

 私はなんだか居心地の悪さを感じながら、ゆっくりと椅子に腰かけてお弁当の卵焼きに箸をぶっさした。


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