旅行カバンに着替えや充電ケーブル、ノートパソコンを詰め込む。それにガラスペンとインクと練習帳。
三日分の着替えがあればいいかな……たぶんそれくらいで大丈夫よね。
あー、まだ心臓がバクバクいっている。
もういったい何なのよ……心当たりなさすぎるんだけど?
そう思った後、この間デパートでお菓子を買った帰りに見かけた人の顔が頭をよぎる。
私が湊君と再会するきっかけになった人。
仕事中に何度も電話とメッセージを送ってきた相手で、マッチングアプリで出会った人だ。
本名はわかんないんだよねぇ……タイミング的にあの人の可能性が高いかなぁ……
マッチングアプリ消しちゃったし、全然連絡先も分かんない。
もしそうだとしたら、いったいどうやってうちを知ったんだろう?
じつは近所とか……?
あーやだやだ。考えただけで鳥肌が立ってくる。
私は首を横に振り、荷物を詰めてバッグを閉じた。
買ってきた夕飯のハンバーグ弁当を食べる気がしなくて、それは持っていくことにする。
荷物の準備を終えて時間を確認すると、七時二十分だった。湊君が来るの、もう少し時間がかかるだろうなぁ……
時間が進むのが遅く感じる。早く来て、お願いだから。祈る思いで過ごしていると、スマホがブルブルと震えた。
ビクッ、としてスマホの画面を見つめるとそこに表示されていたのは湊君の名前だった。
湊君からの電話だ。
震える指でスマホをタップして、大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせてから彼の名を呼ぶ。
「湊君」
『家の近くについたよ。部屋の前まで行くからもう少し待っててね』
すごく優しい声で湊君は言い、スピーカーの向こうで車のドアが開いて閉じる音が聞こえてくる。
『とりあえずアパートの周りに不審な感じはないかなぁ。部屋は二階だよね』
「……うん」
『じゃあ今から階段上るね』
言葉の後に足音が聞こえてくる。湊君が階段を上ってくるのは部屋からもわかった。静かにしていると階段や廊下を歩く音、割と聞こえるのよね。
『部屋の前着いたけど、出てこられそうかな』
「あ、うん、わかったちょっと待ってて」
私は通話状態のまま旅行カバンを手にして立ち上がり、玄関へと向かう。
明かりが点いているし、あの玄関ドアの前にいるのは湊君だ。それはわかっているけれど、扉を開けるのがとても怖い。
でもこのままここにいる方がずっと怖いから、私はドアスコープで外を覗き湊君の姿を確認してから、スマホに向けて言った。
「今、ドアを開けるね」
『うん、わかった』
私はガチャリ、と鍵を開けてドアノブを握りゆっくりと扉を開く。
そこには、湊君が優しく微笑んで立っていた。
その姿を見た瞬間、私の中で何かがぶつり、と切れる音がした。思わず湊君に抱き着き、
「こわかったよぉ……」
と、涙声で呟く。
あ、私、思った以上に怖かったんだ。
それはそうよね。変な手紙が来たうえに、ドンドン、ってドアを叩かれたんだもの。
ふつう、チャイムを鳴らして出なかったら帰るよね。つまり来た人物は普通じゃない、ってことだ。
やだもう、考えるだけで怖すぎる。
戸惑った様子で背中にゆっくりと手が回り、耳元で優しい声が響く。
「……大丈夫だから、鍵かけていこうか」
その言葉に返事はできず、私は黙って頷いた。
荷物を湊君が持ってくれて、私はドアを閉めて鍵をかける。念のため、ドアノブに手をかけるけど、開かない。大丈夫、ちゃんと鍵はかかっている。
私は湊君の腕を掴んで廊下を歩き、階段を下りていく。早くここから離れたくって仕方なかった。
誰かもわからないストーカー。怖すぎるでしょ?
駐車場に向かうと、そこの片隅に青いワンボックスカーが停められていた。これが湊君の車だろう。
彼は車の鍵を開けて後部座席に私の荷物を積んでくれる。
「あ、ありがとう」
「大丈夫だよ。夕飯は食べたの?」
「う、ううん。だからこれ、持ってきた」
言いながら私はハンバーグ弁当が入ったエコバッグを胸のところまで上げて見せる。それを見た湊君は頷き言った。
「わかった。俺、まだ夕飯食べてなくて。だからスーパーに寄っていいかな。他に買い物したいし」
「うん」
頷きそして、私は車に乗り込む。
バタン、とドアを閉めてシートベルトをすると、車が走りだした。
外はすっかり闇が包んでいて、街灯が通りを照らしている。
アパートが遠くなり交差点で車が止まった時、私は俯き大きく息を吐いた。
「あー! 怖かったぁ!」
「そうみたいだね」
「そうよ、本当に怖かったんだから。変な手紙がポストに入ってて、何だろうって思ったら部屋のチャイム鳴らされて。出なかったら、ドアをドンドン叩かれたの! 怖くない? すごく怖くない?」
「普通、チャイムを鳴らして出なかったらそこまでしないかなぁ」
「そうでしょう? すごく怖かったの! なにこれドラマ? そんなことある?」
あったし現実なのよね。そんなことはわかってる。だけどそう言わずにはいられない。
信号が変わり車がゆっくりと動き出す。
「それで心当たりはあるの?」
「うーん、ないようなあるような……」
そう答えて私は腕を組んで首をかしげる。
さっきも考えたけど、一番あり得るのはマッチングアプリで出会ってしつこいメールと電話をかけてきた人だ。ゴードンってニックネームをつけていたはず。シャーロックホームズに出てくる警部の名前だ。彼もミステリーが好きでそれでマッチングして、ホームズやミスマープル、ポワロとか海外ドラマの話で盛り上がったのよね。
話、楽しかったんだけどなぁ……だけどおかしな人だった。
彼の可能性が高いけど、いったいどこで私の家を知ったんだろう?
どこに住んでいるか、なんて話、したかなぁ……うーん……ドラマの話しかした記憶、ないのよねぇ。
「そうなんだ。それでその手紙って何が書いてあったの?」
「開けてない。だって気持ち悪くて怖いから、未開封でバッグに突っ込んできた」
とりあえず持ってきた。ひとりじゃ開ける勇気なんてないし。
「そっか。じゃあうちについたら開けてみていい?」
「え? あ、うん」
私は頷き湊君の顔を見る。
とてもまじめな顔で、彼は正面を見つめている。
なんか巻き込んじゃ悪い気がするけど、それ以上に安心感がある。
こんなすぐに迎えに来てくれるなんて……きっと普通なことなんだろうけど、けっこう驚いている。
途中、スーパーで買い物をしてから湊君の住むマンションに着いた。
その頃にはさすがに恐怖心はだいぶ消えていて、私は買ってきたものが入ったエコバッグをぶら下げて車を降りた。
あぁ、よかった……避難できる場所があって。
しばらくアパートに帰りたくないなぁ……でもずっといるわけにはいかないし、あの様子だときっと職場もばれてるよねぇ。
これからどうしよう……
そう思うとため息が出てしまう。
「灯里ちゃん、早く中に入ろう、暑いし」
湊君は私の旅行バッグと飲み物とかが入ったエコバッグを持って、こちらに声をかけてくる。
私はその言葉に頷いて、マンションへと向かって歩き出した。