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第8話 文房具店でお買い物

 インク沼。

 それは深くて広くてやばいらしい。

 デパートの六階にある文具店はガラスペンとインクを扱っている。

 前から欲しい、と思っているんだけど、はまったらヤバそうだからまだ私はそこに足を踏み入れていなかった。

 それに買ったからといって何を書くんだ? と思ったら手を出せないでいた。でも調べたら練習用の本がけっこう出ていたから、買っちゃったんだよね。

 いろとりどりのガラスペンが並ぶ中、私は小さく声を上げる。


「綺麗だなぁ……」


「灯里ちゃん、こういうの好きなの?」


「好きって言うか、文房具が好きなんだよね」


「あぁ、そういえば学生の時変わったやつ使ってなかったっけ? ほら、横押すシャーペンとか」


 そうなんだ、私はサイドノックのシャーペンが好きで見つけると買ってしまう。もともとお父さんが使っていてもらったものだ。

 大学生の時に復刻されたときは買い漁っちゃったよね。

 書く機会が減った今でもちょっと変わった文房具を見ると買ってしまうからやたらとボールペンやシャーペンを持っている。


「ガラスペン、前から欲しかったんだよねー。でも使う機会ないし。飾るだけになりそうだから悩んでて。でもガラスペンで字を練習する本があって思わず買っちゃったから、ボーナス出たら買おうって決めていたの」


「確かに手で描くってしないなぁ。俺もイラストはタブレット使ってるし。らくがきも滅多にしなくなったし」


「でしょ? まだボールペンとかシャーペンなら仕事中使うこともあるわけよ。でもガラスペンを使う機会、ないとも思うからちょっと悩んじゃうんだよね」


「趣味ってそういうものでしょ。何かに使う機会があるわけじゃないけど、自分が好きだから、楽しいから集めたりしたりするんだよね」


 そういわれてみればそうだ。

 趣味は何かに役立てるためのものじゃない。

 けれど懸念はある。

 インク沼は深くてヤバイってこと。


「インク沼ってヤバイ、っていうから手を出したら最後な気もして」


「そうなの?」


「インクっていろんな色があるでしょ? ひとつじゃ満足できなくって色々集め始めちゃうのよ。インク集めるためのインクコレクションノートみたいなのもあるし」


「なにそれ面白そう。コレクションするのも楽しそうだね」


「でも文房具だし使わないともったいないじゃない? せっかく買うなら練習帳だけじゃなくってもっといろいろ使いたいんだけど」


 言いながら私はガラスペンを見つめる。

 赤や青、緑色、太さも形も様々なガラスペンは照明の下できらきら輝いている。


「紙に絵を描くのもいいのかなぁ。最初は自由帳に描いたりしていたけど、最近はもうタブレットでしか描かなくなっちゃったからなー」


「そうなの? 絵を描く人って、色んなところに描いたりするって思ってた」


「俺はあんまり描かないよ。描きたかったらタブレット出せばいいだけだし」


 言われてみればそうか。

 絵もデジタルの時代だもんね。


「ねえ、向こう見てもいい?」


 言われて私は顔を上げ、湊君が指差す方を見る。

 そちらは画材コーナーという看板がぶら下がっていて、絵の具とかがあるみたいだった。


「うん」


 私は頷き、湊君の後に着いていく。

 絵の具って、水彩と油絵具以外にもいろいろあるんだなあ……

 アクリルガッシュとかなんとなく聞き覚えがあるけど……そういえば中学でポスターカラーってあったっけ。

 画材を見ながらそんなことを考えていると、コミックコーナーがあって湊君がそこで立ち止まる。

 コピック、Gペン、インクもある。ってことは、需要があるんだろうなぁ。

 湊君はコミックコーナーを見つめそして、イラストボードと呼ばれる白いボードと小さなスケッチブック、濃い鉛筆を手にする。


「何か描くの?」


「うん、せっかく来たし。こういうコーナーって初めて来たよ。」


「私も画材コーナーは足を踏み入れたことなかったなー」


 私は絵を描かないから興味を持ったことないけど、画材っていろんな種類があるんだなあ。


「灯里ちゃんは、ガラスペンどうするの?」


「どうしようかな……あんなにあると悩んじゃうんだよね」


 言いながら私は苦笑いする。

 価格帯も数千円から万単位のものまである。でもどれがいいのか全然決まらない。だって、どれもいいから。


「時間はあるし、ゆっくり考えたら」


 にこっと笑って言われたあと、私たちはガラスペンのコーナーに戻った。

 赤いのもいいし、青いのもいい。太さも様々だし目移りしちゃう。

 いきなり万単位はやめておこう。そうなると数千円のやつよね。

「へえ、イタリア製って書いてある。これとか宇宙みたいできれいだね」

 湊君が指さしたのは、紺色に黄色の星が散らばったようなデザインのガラスペンだった。

 確かに宇宙みたいできれいだ。ほかにも、薄い青に白の模様が入った空のようなペンもあるし、夕焼けみたいな赤いグラデーションのペンもある。

 どうしよう……これは悩む。でも何本も買えない。買うのは一本って決めてるの。


「インクもたくさんあるんだねー。俺、青が好きだから青いのばっかりになっちゃいそう」


「青もいろいろあるのよねぇ……でもそんなには買えないし。インクもガラスペンも、買うのはひとつって決めてて」


「そうなんだ。どれと悩んでるの?」


「全部……って言いたいけど、価格的にはこの辺かなぁ」


 言いながら、私は五千円程度のガラスペンが並んでいるあたりを指さす。

 価格帯的にこの辺りが妥当だろう。あとはどの色がいいか……


「どれも綺麗だねー」


「だから悩むのよ」


「灯里ちゃんって赤っぽいよね」


「何それどういう意味よ」


「名前だよ。灯りって字が入ってるでしょ? ガス灯みたいな、優しい淡い赤って感じがする」


 そう言われて私はガラスペンを見る。

 淡い赤……夕焼けみたいなガラスペンがあって、私はそれを手にする。

 これにしよう……かな。

 それに青と赤のインクを選んで、私たちはレジへと向かった。

 買い物をしてほくほくになった私は、テンション高くデパート内を歩く。

 とうとう買っちゃったー。楽しみだなぁ、家に帰って開けるのが。


「灯里ちゃん、うれしそうだね」


 大きな袋を下げた湊君に言われて私は大きく頷いた。


「うん、ありがとう、ガラスペン買うの付き合ってくれて」


 微笑んで湊君のほうを見ると、彼はちょっと驚いた顔をする。


「そんなお礼言われるようなことしたかな」


「してるよー。けっこう時間かかったのに、湊君、全然文句も言わなかったし」


 なんだかんだで決めるのに一時間以上かかっちゃったんだよね。それなのに湊君は嫌な顔しなかった。前の彼氏たちならきっと、怒ったりしていただろうな。


「だって、灯里ちゃんが欲しいものを選んでいるんだし、時間がかかるのは当たり前だよね。制約がある中で決めるんだから」


 と言って、彼はニコッと笑う。

 その笑顔と言葉にドキッとして、私は彼から目をそらした。

 この人こんなにかっこよかったっけ……?

 そういう目で見てこなかったからなあ……なんかちょっとときめいている自分に戸惑ってしまう。

 恋の仕方を教える前に、私が落ちたらどうしよう?

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