契約ならと、私と湊君はいくつかの約束を決めた。
まず私はマッチングアプリを削除する。湊君はセフレとの関係を断つ。
互いに人間関係への干渉はしない、仕事への口出しはしない。
期間は一年後の七月末まで。その間は恋人として付き合う事。その先も関係を続けるかはその時に決める。
もちろん浮気は厳禁。
「こんなことしたことないからよくわかんないけど……決める事ってこの程度でいいのかな?」
全ての約束事を書きだした紙を見つめながら、私は言った。
「だって、束縛するようなことはしたくないしね」
束縛、って言われるとちょっとびくってしてしまう。
私が付き合った相手の多くは束縛がすごかったからな……
電話に出ないってだけで怒られたりもあったっけ。すぐ別れたけど。そう考えると、私も普通の恋人というものがわからないかもしれない。湊君の言う通り、付き合って楽しかったことは一度もないのよね。
「俺、セフレとの関係を切るのはけっこうハードなんだけどな」
「それのどこがハードなのよ」
呆れつつ言うと、湊君はスマホを手にしてその画面を見つめながら言った。
「うーん……何にもしなくても向こうから声をかけてくるし。仕事関係で繋がっている人もいるんだよね。まあ、誘われても断ればいいだけだけど。ワンナイトの相手もけっこういるし」
「誘われても乗らないでください。仕事関係で繋がっているのは仕方ないけど、それ以外の人はちゃんとけじめつけてよ」
それどこのドラマの話? 大丈夫かなほんと……先行き不安すぎる。
呆れ顔になりつつ強い口調で私が言うと、湊君は神妙な顔になり、
「わかってるよ」
と言い、スマホを操作した。
おかしいなぁ。私と湊君、十年くらい一緒に過ごしていたはずなのにまるで知らない人みたいだ。なんでこんなことになったんだろう。
本当に私のせい? そんなわけないよね。そう思いつつ、私もスマホを操作してマッチングアプリのプロフィールを消して退会処理をし、アプリを削除する。
あーあ、結局いい出会いはなかったなぁ……色々調べて一番よさそうなアプリ、選んだのに。私にアプリは向いてないのかも。
「私も情報消したし、アプリも消したから」
と言い、私は自分のスマホ画面を彼に見せた。
「大丈夫だよ。灯里ちゃんはやると言ったらやる子だって知ってるから」
と言い、微笑む。その顔にちょっとときめく自分がいて、私は思わず視線を逸らした。
……湊君てこんなにかっこよかったっけ。
きりっとした一重の瞳に明るい茶色の髪。
契約とはいえ恋人になると思うと、変に意識してしまう。
「ね、ねぇ、湊君は何して生計たててるの?」
話題を変えようと、私は大学を卒業してからの事を聞くことにした。
湊君とは卒業までは仲良かった。
他の友達もそうだけど、就職して慣れない環境に身を置いた私たちは徐々に疎遠になって、ずっと連絡を取っていなかった。
私と湊君は地元に残っているけれど、他の友達はいろいろと散らばっているしな……SNSでなんとなく繋がっている人も多いけど、アカ消しして連絡取れない子たちもけっこういる。
「あーそれは、会社役員兼イラストレーターって言えばいいのかなぁ」
なんて言いながら、頭に手を当てて笑う。
……ちょっと情報量が多いんだけど?
「会社役員て何」
「経済学部にいた友達とやってる会社。広告のデザインとかやってて、そこでイラスト描きつつ個人で依頼受けてイラスト描いてるんだ。ほぼ在宅だから時間はたくさんあるよ」
……絵なんて描く人でしたっけ?
全然そんな記憶ないんだけど……?
だからパソコン周りのものが充実しているのね。
「そ、そうなんだ……超意外。絵なんて描いてたっけ」
「大学に入った頃からかな。最初は暇つぶしで描いてたんだけど楽しくなって。気が付いたらハマッててタブレットとかペンタブ買ってたんだよね」
なんて言いながら湊君は笑う。
人生、何があるかわかんないなあ……
おかしいなぁ……私、十年間、湊君の何を見ていたんだろう。
「じゃあ、モテるんじゃあ……?」
イメージだけど、そういうアーティストみたいな人ってすっごくモテそう。
すると湊君は笑って言った。
「そうだねえー。確かにモテるよ」
そこ否定しないんだ。
まあ事実なんだろうな。なんか腹立つけど。
「モテてもいいけど誰でも彼でも誘うのはやめてね」
思わず低めの声で言うと、彼は真面目な顔になって答える。
「大丈夫だよ。俺は灯里ちゃんが嫌がることはしないから。ちゃんと皆と縁を切るし、こっちから誘うようなことはしないよ」
私が嫌がるようなことはしない、か。
『俺がこんなに思っているのにお前が思い通りにならないから!』
脳裏に昔付き合った男の言葉が蘇る。
どの男も、
『お前が悪いんだ!』
とか言って私に暴力振るったり、責めたてたりしたっけな……
なんで私、そんな男ばっかり引っかかっちゃっていたんだろう。みんな最初は普通だったのになぁ……
そう思いつつ私は湊君を見る。
湊君とは付き合い長いし、だから互いに好きなものとか嫌いなものとか知っているし、何をされたら嫌かもわかるだろう。
……思えばそういう、元からそこそこ知っている相手と付き合うのは初めてかもしれない。
今まで付き合った相手は皆、知り合い未満だったからなあ。
別のクラスの子とかサークルの先輩とか、アプリで会った相手は論外だし。
……もしかして私、男を見る目が全然なかったのかもしれない。
そう思いひとり勝手に凹んでため息をついた。
「急にため息ついてどうしたの?」
「え、あ、いや……私、人を見る目がなかったのかなあって思ったら、ちょっとショック受けただけ」
言いながら私は頭に手をやり苦笑する。
笑ってごまかしでもしないとやってられない。
今まで散々な目にあってきたけどこの契約の間だけは楽しく恋人やっていたいなぁ。
「俺はそんなこと思わせるようなことしないから」
まっすぐに私を見つめて彼は言った。そう言われるとすごく心が揺らぐ。
大丈夫だろうか、湊君は。
貞操観念に少々難があるのは確かだけど、知る限り性格に問題はないはずだしな……いいや、それは他の人もそうだったじゃないの。みんな性格には問題ないと思っていた。だけど豹変してしまって、暴力振るったりストーカーになったりしていた。
そこまでされて私、よく男性恐怖症にならなかったな……
湊君は大丈夫、よね。うん、大丈夫だと私は自分に繰り返し言い聞かせて、ぎゅっと、拳を握りしめた。
その時、電子音の音楽がどこからともなく響いた。洗濯が終わったことを知らせる音楽だろう。うちの洗濯機と同じメロディだ。
「あの服、乾燥機にかけたらまずい?」
言いながら、湊君は立ち上がる。
さすがにそこまで世話になるわけにもいかないし、時間も遅いから帰りたい。
壁にある時計を見れば時刻は十時近くになってるし、明日休みとはいえ異性の家にそんなに長居するわけにもいかない。
「大丈夫なやつだけど……っていうかこの服、借りていって大丈夫かな? 大丈夫ならこのまま借りていって洗ってもらった服は持って帰って干すから」
そう私が答えると、湊君は目を瞬かせて不思議そうに私を見つめる。なんかおかしなこと言ったかな? いいや、普通よね。
「なら泊まっていけばいいのに」
などと言い出したから、私は顔が熱くなるのを感じながら手近にあったクッションを投げつけた。
「なんで『今日から付き合います』て話していきなり泊まる話になるのよ!」
「えー? その方がいいかなと思ったんだけど……だめかな?」
私が投げつけたクッションを受け止めながら彼は言った。
だめかな、って何?
「ダメ、なし、むり」
そんな捨てられた子犬みたいな顔して見つめられても、なしはなしだ。
そうきっぱり答えると湊君は頷き、
「わかった、じゃあ送っていくよ」
と言い、扉の向こうに消えていった。