私とリュカお兄様が幼い頃から側に付いてくれていた侍女のレイチェルは、いつだって笑顔を絶やさなくて、どんな時も、私達にも優しく接してくれて、明るくて朗らかで、侍女としてもテキパキと仕事をこなしている頼もしい感じの雰囲気もあるような大人の女性だった。
自分の立場もあるというのに、時には、お父様やお母様の厳しい躾からも守ってくれるよう身を挺してくれたり、機転を利かせて対応してくれたことだって、何度もある。
勿論、心配の瞳で見つめてくれることも沢山あったけれど、どんなことがあっても、レイチェルはいつも私達を励ましてくれるのを優先して、明るい雰囲気を絶やすことはなかったのに……。
そんなレイチェルの瞳が、『あぁ、リュカ様……っ』と、一目見ても分かるくらいに私の身体に色濃く残った虐待の痕跡を見て、うるうると潤んでいき。
上半身だけ起こしてベッドの上に座っている私の目線に合わせて、どこまでも心配そうに、その場にしゃがみ込んでから、その温かな手のひらで、そっと安心させてくれるよう私の手を包み込むみたいに、ぎゅっと握ってくれた。
その瞳には、ただただ、私のことを慮ってくれるような視線しか乗っていない。
それだけで、私自身も、ぶわりと、胸の奥からこみ上げてくるものがあったけど、それはレイチェルの方も同じだったみたいで……。
「リュカ様……っ、このようにお痩せになって、こんなにも傷ついて……っ!
あぁっ、あの時、どんなことがあっても、リュカ様のことを伯爵家から連れ出すことが出来ていれば……、私はっっ!
本当に、本当に、ごめんなさいっ!」
「そんな……っ!
レイチェルが悪いわけじゃないから、どうか頭を上げて、気にしないでほしい……っ」
そうして、私のことを見て、涙ながらに頭を下げて何度も謝ってくるレイチェルに、私は慌てて、そんなことはしないでほしいという視線を向けて、ふるふると首を横に振った。
公爵家の人間である、サージュさんがやってきて『公爵家で、リュカ・コリンズを保護しているから会ってほしい』と、突然言われたことで、聡い彼女のことだから、その時点で、今も変わらず私が男装したままリュカお兄様に成り代わって過ごしているのだということも含めて、色々と察してくれたんじゃないかなとは思うものの、私が公爵家から保護されたと聞いて、きっと、凄くビックリしてしまっただろう。
だからこそ、全てを分かっていながら、今も私のことを『リュカお兄様』として扱ってくれつつも、決して言葉には出さないけれど、エスティアである私を心の底から心配した様子で、そう声をかけてくれるレイチェルに、私の方が、胸がぎゅっと苦しくなって痛んできてしまった。
レイチェルが私の顔色を見ながら、どこまでも申し訳なさそうに謝罪の表情を浮かべているのは、この3年間、レイチェル自身が、リュカお兄様が死んでしまった時の惨状を目の当たりにしていながらも、私のことをお父様とお母様のもとに置いて、伯爵家を後にしてしまったという負い目を感じてくれているからなのだと思う。
でも、あの時は、本当に打つ手がない程に、誰もがどうしようもない状況に置かれてしまっていたし、今、この瞬間、私を助けられなかったと後悔するように、そう言ってくれているけれど、それは、決して、レイチェルの所為なんかじゃない。
そもそも、コリンズ伯爵夫妻から『お前が死ねば良かった』と暴力を振られてしまった時に、その身を挺してまで間に入ってくれていたのは、日頃から双子の兄妹である私達を助けてくれていた侍女であるレイチェルや、当時の使用人達だったし、私にとっては、それだけで凄く恩があることだから……。
第一、今まで、誠心誠意、しっかりと仕えてくれていた屋敷の使用人達に、砂をかけるような形で、無理矢理辞めさせたのはコリンズ家の方で、その内容だって、貴族の屋敷から推薦状なども何もなく解雇されてしまうと、それだけで『問題あり』と見なされて、どこの家でも働けなくなってしまうのを逆手にとって、お父様が『それを書いてやる代わりに、伯爵家で起こったことは、今後、一切、口外しないように』と、契約書を書かせてまで、みんなに言い含めていて。
その上、その契約書については、もしも万が一、約束が破られた際には、家族の身や私財なども担保に取るということまで記載された理不尽なもので、唯一、彼等にとって良かったかもしれない内容として、約束さえ破らなければ、今後一切、お互いに関与をすることはしないというのが、契約書に明記されていたことくらいだっただろうか。
みんな、そこまでお給料も良いわけじゃないコリンズ家で働いてきて、日々を暮らすのにも、カツカツな生活を送っていたし……。
その挙げ句、何の落ち度もないのに、突然、クビまで宣告されて、推薦状も書いて貰えず仕事まで奪われてしまったら、途端に、立ちゆかなくなってしまっていただろうから、そんな状況の中で、私の境遇にまで、気に掛けられる余裕なんて、どこにもなかったはず。
それでも、レイチェルに、私のことを思って涙ぐむ程に、そんなふうに思って貰えていたのだと知れただけでも凄く嬉しいことだったし。
何よりも、それを言うのなら、私だってコリンズ家の一員でありながらも、自分に、そんな権限がなくて、あれだけ良くしてもらっていた使用人のみんなが解雇されるのを助けることも出来ずで、本当に申し訳なかったなという気持ちは、ずっと持っていたから……。
唯一、当時、レイチェルや、使用人達に対して、私に出来たことと言えば、私達双子の本当の生みの親でもある、コリンズ伯爵の弟だったお父さんとお母さんが、私とリュカお兄様のために残してくれていたお金を渡してあげることだけで……。
それすらも、コリンズ伯爵夫妻が使い込んでいたから、そこまで多くは残っていなかったけれど、何とか、二人の目をそっと盗んで、そのお金を死守した後、ほんの僅かばかりではあるものの、これまで誠意を尽くして働いてくれた使用人達に『今まで、ありがとう』という意味合いを込めて還元することだけが精一杯だった。
そうして、目の前で、頭を下げ続けるレイチェルに、戸惑いながらも『顔を上げてほしい……!』とお願いすれば、その言葉に、色々な感情が綯い交ぜになって複雑な表情をしたままの、レイチェルの顔がそっと上がってくれて、私はホッと胸を撫で下ろす。
それよりも、たとえ、レイチェルであっても、この身体は、やっぱりほんの少しビクリと条件反射のように震えてしまって、前世の記憶があることから、私自身、心の中では大丈夫なつもりでも、男女問わず周りの人に対して、自然に身体が反応してしまうくらいに、トラウマを持ってしまっているのだと複雑な気持ちになりつつも、それでも見ず知らずの人よりも、レイチェルであるからこそ、まだ、これだけで済んでいて、安心するような気持ちもあるのだと思っていると……。
「リュカは、この侍女が側にいると、ほんの少しだけでも安心することが出来るみたいだなっ?
それでなんだが、もしも、リュカさえ良ければ、彼女には、これから、お前のお風呂や身支度などの世話係として専属の侍女になってもらおうかと思うんだが……」
と、私達の様子を見たアレクシスから提案して貰えたことで、私は、びっくりしつつも、その配慮自体が、凄く有り難い申し出だったこともあって『わぁ……っ、アレクシスお兄様ありがとうございます。そうして貰えると、凄く嬉しいです』と、ぺこっと一度頭を下げてから、お礼を伝えていく。
正直、前世では、何でも一人でやっていたこともあって、お風呂に入ることも、身支度を整えることも、特に何の苦労もなく、自分だけの力で、何とかすることが出来ていたんだけど、それでも、これからは貴族の子どもとして、ちゃんとした待遇を受ける必要があるんだろうな……。
特に、この間は、そこまで思い至らなかったけれど、養子とはいえ、公爵家の一員となったのなら、しっかりとした教養を身につけたり、お世話などもきっちりと受けていないと、ことは私だけに済まず、『養子だから蔑ろにしているんじゃないか』と、公爵家の足を引っ張りたい人達の格好の餌食になってしまい、悪い噂が立ってしまい兼ねないし、アレクシスお兄様を筆頭にした公爵家の人達にも迷惑がかかってしまうことにも繋がり兼ねないから……。
それでも、どうしても、今は、身体全体が拒否するように、人に対しての恐怖心というのが拭えないこともあって、きっと、アレクシスお兄様や、サージュさんも、そのことで、私のことを本当に心の底から気に掛けてくれて、今日、この場を設けてくれたんだろうな。
だからこそ……、私の傍についてくれるのが、私達双子にとっても、ずっと味方でいてくれたレイチェルだというのなら、こんなにも心強いことはないと思う。
あとで、二人っきりになった時に、レイチェルには、そのことも含めて『こうなった経緯』についても、しっかりと話していかなくちゃいけないだろうけど……っ。
私がぼんやりとそう感じていたら、アレクシスお兄様もサージュさんも、声の雰囲気や表情などで、私がレイチェルといるのは大丈夫だとしっかりと確認してくれた上で、私のことを気遣ってくれている様子で。
『リュカ。
彼女と久しぶりに会えたことで、積もる話もあるかもしれないし、俺たちがいると、どうしても気兼ねしてしまうだろう?
もしも良かったら、少しの間だけでも、この侍女と二人きりになるか……?』
と、声をかけてくれて、ほんの少しの間、私とレイチェルを二人っきりにしてくれるといって、この部屋から出て行ってくれた。
そうして、その配慮をどこまでも有り難く感じながら、二人が出て行った後、パタンとこの部屋の扉が完全に閉まったのを見送って、私は、レイチェルの方を真剣な表情で、そっと見つめていく。
この3年の間に、本当に言い表せないくらいに色々なことがあったし、久しぶりにレイチェルに出会えて嬉しい気持ちと共に、今、自分がリュカお兄様に成り代わったままだということも、ほんの少しの罪悪感を抱えたまま、アレクシスお兄様や、サージュさんといった人達にすら、言えていないのだと、そういった色々な感情が、私の瞳には乗っていたと思うんだけど……。
それだけで、何も言わずとも、レイチェルの方も私が何を言いたいのか分かってくれたみたいだった。
「リュカ様……っっ!
3年前から、今までずっと、こうだったのですか……?
その小さな身体で、たった一人っきり、色々なことを抱えて……っっ」
「レイチェル、心配してくれて、本当にありがとう。
確かに、3年前からずっとこうだったんだけど、それでも、もう慣れてしまったから大丈夫だよ……っ。
それに、今はこうして、公爵家で保護してもらっているし、充分すぎる程の恩恵を受けさせてもらっているから……」
そうして、どこまでも気遣うように心配してくれているその瞳に、私は正直に答えたあとで、レイチェルに、ほんの少しでも安心して貰えるよう、柔らかい笑みを零した。
✽ ✽ ✽ ✽
あれから、私はとりあえず、今、自分が置かれている状況や境遇などについて、改めて、レイチェルには、一から説明していくことにした。
勿論、今は、公爵家で保護して貰えたことで、アレクシスお兄様や、サージュさんも傍にいてくれて、伯爵家で過ごしていた時よりも比べるのも烏滸がましいくらいに、きちんとした生活が送れるようになっていて、それだけで、コリンズ家とは全然違う暮らしが出来ているけれど。
それでも、何にしても、今後、毒殺されてしまったリュカお兄様の死の真相を突き止めるために、社交界でも性別を偽って男のままの姿でいた方が、色々な貴族達からも情報が聞きやすくなるだろうから、私自身が、これからも男装をしたまま、リュカお兄様を装う必要があるということを丁寧に説明していけば、レイチェルはその話しを聞いて、グッと息を呑みつつも。
「……っ、そうだったのですね……っ。
ですが、リュカ様が亡くなった真相を探るために、そんな危険なことを……っ。
どうか、ご無理だけはなさらないでください……っ!」
と、私のことだけを凄く案じてくれている様子だった。
それから、もう一点だけ、原作小説である『秘められた花』の、アレクシスお兄様以外の他のヒーロー達とも、確か、リュカお兄様が男の子だということで、お兄様が保護されたあと、公爵家の人達の配慮で、幼い時から出会うことになるはずだから、彼等と積極的に交流を持つことで、人脈を築くことが出来れば良いなと感じるし。
他のヒーロー達は、俺様ツンデレ系の王子に、最年少で副団長の地位まで上り詰めていた騎士団長の息子といった面々で、各方面に、人脈を持っている人達ばかりだから、彼等と仲を深めることが出来ていれば、それだけ、リュカお兄様を殺した犯人にも辿り着きやすくなると思う。
勿論、リュカお兄様のことだけじゃなくて、純粋に、原作小説の中で好きだったみんなと話したりすることが出来るのも、嬉しいことだなとは思うんだけど。
私の決意が固いのを見て、レイチェルは私の覚悟に『それでも、もう、決めてしまわれたのですねっ。……それならば、私も、リュカ様の傍で、ほんの少しでも、お手伝いすることが出来れば嬉しいです』と声をかけてくれる。
伯爵邸にいた頃からずっと、私とリュカお兄様が、たった二人で支え合って生きてきたということをレイチェルも知ってくれてるし、私が、どうしても、リュカお兄様を殺した犯人を見つけたいと思っている、その気持ちを汲んでくれたのだと思う。
だけど、リュカお兄様を殺した犯人は、幼い子どもに手を掛けるのも何とも思っていないような人間だし、調査を進めていく過程で、犯人を捜し当てるには、あまりにも危険が伴ってしまうことなんじゃないかと感じているからこそ、レイチェルのことは巻き込みたくなくて……。
「レイチェル……、ありがとう。
でも、出来るだけ、レイチェルのことは巻き込みたくないから、自分だけで頑張りたいと思っているし、気持ちだけ受け取ることにさせてほしい」
と、レイチェルに納得してもらうように『出来る限り、自分一人で頑張るつもりだから、どうか気にしないでほしい』と告げれば……。
「いいえ、リュカ様……っ、私は何があっても、リュカ様に、これから先の未来で、なるべく傷ついてほしくないんです。
なので、お側でお支えしたいと感じていますし、私に出来ることがあるのなら遠慮無く言ってほしいです。
だから、どうか、お一人で抱え込まないでください……。
出来る限り、私も一緒に、リュカ様の重たい荷物を持つのを手伝いたいと感じていますので」
と、真摯に、どこまでも柔らかい表情で優しく声をかけてくれて、私は、ぶわりと思わず、これまで我慢していた色々なことが決壊するように、込み上げてきてしまった。
「……っ、ありがとう、レイチェル……。本当に、ありがとう……っ」
レイチェルが、私に対して、そう思ってくれているのが知れて本当に心強いし、その気持ちが何よりも嬉しくて、思わず感極まって、うるうるとしてきてしまう。
そんな私を見て、レイチェルが『良いんです。少しでも、リュカ様のお役に立てるなら嬉しいです……!』と、更に、私のことを思って言葉をかけてくれたことで、私は、レイチェルのその姿に、一人じゃないという安心感に包まれて、ホッと安堵しながらも、これから、本格的に、リュカお兄様のことで、動いていきたいな、と心の中で改めて決意することにした。