べしゃりという音を立てて、伯爵邸の応接室の床に転がるように入ってきた、あまりにも華奢で幼い子供に。
汚れていても分かるくらい、本来は美しい輝きを持っているであろう淡い雪のような銀髪と、とろっとした柔らかい蜂蜜色の瞳。
鎖骨に、指先、足などといったところで、膝丈くらいまでの大きさがある、不釣り合いなぶかぶかの汚れたシャツから、ちらりと垣間見える玉のような肌には、擦り傷に、打撲痕、そして、ミミズ腫れのようになった赤い痣などがついて、日常的に暴力を振るわれていた痕跡を示すかの如く、至る所が見るも無残なくらいに、ボロボロに傷ついていて。
いっそ、こちらが眉を顰めてしまうほどに、厳しい境遇に置かれていた子供なのだということは、誰の目から見ても明らかだっただろう。
それなのに、恐る恐るといった感じで顔を上げた『その子の瞳の奥』は、けれど、真っ黒で汚職に染まった、コリンズ家の人間とも思えないほど、真っ白で何色にも染まっておらず、透き通るように、どこまでも真っ直ぐに澄んでいて。
「ぁ……っ、……ぅっっ」
と、言葉も喋れない様子だったものの、それでもその瞳は、伯爵の横暴さや、コリンズ家の悪行などを謝罪するかのように、この場にいる人間の中で、たった、一人だけ、混じりけがないほどに、どこまでも清らかな雰囲気で『迷惑をかけて、本当にごめんなさい』というような申し訳なさそうな表情を浮かべており。
はくはくと声も出ないのに動く口からは、一生懸命に伯爵家について何かを伝えたかったのだというのは明白で……、その姿に、ただ、虐待されているだけではなく、言葉すらも奪われてしまっているのか、と激しい憤りを感じたが……。
それでも、これほどまでに理不尽な目に遭わされながら生きてきて、なお、その瞳の奥底では、純粋なまでの柔らかい光と、誠実さを失っていないのが垣間見れて、パッと吸い寄せられるように目を引かれた。
――そうして、何としてでも、自分が、この子を助けなければ、と
俺は、目の前で、ぺたりと地面に座って、こちらを見上げてくる『その姿』を見て、強い使命感のようなものに駆り立てられてしまった。
✽ ✽ ✽ ✽
広大な大陸の中にある沿岸国として、南側が海に面し、森などの自然な風景なども国の中に点在することから、美しいほどの水と緑豊かな国として名高く、豊かさの象徴とされている、このアルカディア王国で、代々、由緒正しい王家の血筋を有し、国の忠臣となって王家を支えてきたスチュワート公爵家に、国王陛下から命令が下ったのは、3ヶ月ほど前のことで……。
我が国で何百年も続く歴史ある王家を排除して、貴族こそが実権を握るべきだと声高らかに宣言している、新興貴族を中心にして結成された貴族派の筆頭ともされるアンドレ侯爵家のことを、極秘裏に探るようにと通達されたことで、俺は、アンドレ侯爵家のことを調べつつも、それに連なる貴族のことも含めて、調べを進めていた。
いつの世も、王家への反発を強めて、自分達が実権を握りたいと画策するような貴族はいるもので、反乱分子として王家に仇をなす可能性を考えれば、放置は出来ないが、それでも、それ自体は、別に特別なことでもなく、多少の思想の違い程度なら、そこまで危険視もされていなかっただろう。
だが、アンドレ侯爵家は、元々、後ろ暗いところがあるんじゃないかという悪い噂が絶えない家柄で、今までも、爵位を上げるなどといった目的のためなら、どのようなこともすると言われるくらい、表で見せている顔についても割と強引な野心家の部分が垣間見えていたことから、元々、王家もずっとマークしていたのだが。
近年になって、貴族派の人間と頻繁に会合を開いたりしていることもあって『王家への反乱を企てようと準備を進めているのではないか。……もしも、そうだとするならば、看過出来ないし、これ以上、好き勝手なことはさせられない』というのが国王陛下の判断だった。
普段は、勿論、広大なほどの規模を誇る街として自領も持っているが、王家に危険などが迫っている可能性がみられた際、外交や内政に関する調査まで、国王陛下の命令とあれば、王の代理として重要な任務を遂行し、その手足となって動くのが、スチュワート家の役割であり、今回の一件では、忙しい父に代わって、俺が調査に当たることになっていた。
その過程で、アンドレ侯爵家のことを調べているうちに、恐らく、こういう時のために、身代わりの情報として事前に用意していたのだろうが、脱税や、公費の横領などといったところで、アンドレ侯爵家と懇意にしていた、コリンズ家の悪事に関するような資料が並べられていたのを見たことで、俺たちは、ひとまず、標的を変えることを余儀なくされてしまった。
中でも、一番、看過出来なかったことは、民への圧政を敷いた上で、私腹を肥やしていたこともそうだが、国に納付するべき税金に関しての不正の部分だろう。
暗君が統治している国ならまだしも、今代の王は名君と呼ばれるほどの人であり、王家自体が、貴族達に対し、そこまで重い税を課している訳でもなく、適正といっていいほどで、国庫の財政が潤うことが、そのまま、国の豊かさや国民の豊かさに直結していることを思えば、そういった不正に関しては決して許すことが出来ない。
侯爵家と伯爵家で、その力関係は、当然、アンドレ侯爵の方が上であり、何かあった時に、体の良い隠れ蓑として使えるよう、蜥蜴の尻尾切りのように、狡猾に、コリンズ家の悪事を告発するような文章が書かれた書類について用意することで、自分達から目を逸らさせ、その手から逃れようと画策していたことは想像に難くない。
万が一、どうしてこんな物があるのかと問われたら、自分達の派閥から悪事を働くような者がいることを放ってはおけなかったから証拠を集めて提示しようとしていましたなどと言って、平然と、嘘を貫き通すつもりだったのだろう。
その思惑に乗るのは癪ではあるが、それでも、このまま、コリンズ家の不正を放ってはおけないと感じて、一旦、アンドレ侯爵の調査を取りやめ、その調査に乗り出したのが、おおよそ、1ヶ月ほど前のこと。
だが、巧妙に悪知恵を働かせ、幾重にも策を練っていたようなアンドレ侯爵家とは違い、コリンズ家の当主は、そこまで深く考えていなかったのか。
伯爵領に住んでいる領民達からも、呆気なく、領主が本当に重い税を課していて困っているといった内容や、税を取り立てる時は、どこまでも横柄に振る舞ってくるといったことも含めて、自分達領民には酷い扱いをしてくるのに、伯爵である領主は、夫人と共に、いつも派手な格好をして贅沢三昧に暮らしているといった証言が、あちこちから聞こえてきた。
そういう訳で、そこまでじっくりと調べる必要も無く、俺は、王へとそのことを報告しに行き、許可を得て、今回の調査に一緒に乗り出していた、普段は、公爵家の手足となって、影で活躍している諜報員であるサージュと共に、コリンズ家の屋敷を一斉に調査することに決めて、踏み込んだ訳だが……。
まさか、そこで、伯爵家が申告もせずに、俺たちに子供の存在を隠していた上で、パッと見ても、日常的に暴力を振るっていたのだと分かるくらい、こんなにも酷い虐待をしているとは思ってもいなかった。
我が国では、力がなくて抵抗出来ない女性や子供などといった、一般的に見て非力とされる者を守るための法が、かなり厳しく制定されており、そういった者へ手を出した人間には特に重い刑罰が下されることになっている。
今、思えば、外にすら碌に連れ出してもらえていなかったのだろうから、領民達も、伯爵夫妻のことについては名前に出していたが、その子供について触れるような人間は誰もおらず、俺たちも事前に知っていれば、直ぐに、その身柄を保護することも出来たと思うが、知らなかったことで対応に遅れてしまった。
だからこそ、どうせ、バレないと高を括っていたのかも知れないが、誰よりも守らなければいけないであろう幼い子供に対しての、この仕打ちは、何よりも卑劣で、ふつふつと言い知れない怒りが込み上がってくる。
その身を助けることもなく見て見ぬふりをするというのも大問題だと思うが、それ以上のこととして、伯爵家に住まう全ての人間達が、ずっと長いこと、寄ってたかって、日常的に、この子を傷つけてきたのなら、どうしても許せないという気持ちの方が先に立ってしまった。
『見たところ、この子は、足や、腕に傷がある。
そういったところに、これだけの傷があるってことは、それだけじゃなくて、見えないところにも多くの傷を作ってる可能性の方が高い。同じようにしてやれ……』
だから、慈悲など一切与えず、無慈悲に判断して、俺が伯爵家の人間に鞭を振るうようにサージュに命令をしたのは、そういった意味合いからだった。
伯爵家の人間に、あり得ないと非難の視線を向けていたサージュもまた、俺と同じ気持ちだっただろう。
それどころか、この場にいたコリンズ家の人間以外の者は、王国から派遣されてきた騎士達もみな、この子への虐待の痕跡と、目の前の惨状を見て、容赦などする必要がないと決めていたと思う。
それに、その判断は正しかったと言わざるを得ないくらい、元来、利己的な人間というのは、どこまでいっても利己的なのか、いっそ、虫唾が走ってしまうほど、伯爵家の人間は、全員、醜悪極まりなくて、自分達がやって来たことを棚に上げて『なぜ、自分が、こんな目に遭わなければいけないのか』だとか。
他人を平気で蹴落とすことも厭わないほど、自分さえ良ければそれで良いといった感じで『嫌よっっ! やるんなら、使用人達からにしてよっっ!』だとか。
『私達はただ、夫人達の指示で動いていただけなんですよっ……! だからどうか、伯爵や夫人に罰をお与えください……!』といった感じで、我が身可愛さのあまり保身に走り、醜く喚き散らすばかりで、俺はこの世の中に、こんなにも吐き気を催すほどに気持ち悪い人間がいるのかと感じながら、これから先の拷問についても、刑罰についても、決して緩めることはしないと、心に誓っていく。
こういった人間は、心を入れ替えて、心底、反省することなど絶対にないだろう。
自分達が、その痛みを感じて、今までしてきたことへの愚かさに気付くことが出来れば、まだ救いようもあったが、何年も苦しんできたあの子を差し置いて、たった一度の痛みに、情けなく声をあげて、自分のことだけしか考えずに喚き散らすような人間にかける情けなどはない。
――どんなに泣いて喚いて、叫び散らしながら助けを願ったとしても、最早、慈悲の欠片などもないくらいに、この子が苦しんだ分だけ、同じ目に遭っても、まだ足りないだろうな。
虐待の証拠だけでも、重い罪であることは間違いなく。
伯爵家が今まで犯してきた他の罪については、更なる調査を進めることにして、今、この瞬間にも、幼く一生懸命な様子のこの子に、こんなにも下劣な人間達を視界に入れることすらしてほしくなくて、騎士達に指示を出した上で、その身柄を拘束し、連行して行ってもらったが。
そのあと、きちんと喋れることが判明して、声までは奪われていなかったのだと、ホッとしたのもつかの間、その境遇について詳しく事情を聞いて、俺も、サージュも額に青筋が浮き上がってくるほどに、激しい怒りが沸き上がってくるのを抑えられなかった。
8歳にしては、あまりにも痩せすぎて小さいと思っていたが、それもそのはずで、一日に一食でも食べられれば良い方で、のろまで愚図だと口汚く罵られながら、本来なら、3食、普通に出されることが当たり前なのに、食事をもらうときに、一生懸命に、ありがとうございますとお礼を言わないと、容赦なく暴力が振ってくるだなんてこと自体が可笑しいし、本当にあり得ないことだろう……っ!
それも、その貴重な1回の食事の時だって、きちんとした食べ物も出さず、話を聞いただけでも酷いと思えるくらいの腐りかけた食材で、おおよそ普通の人間が食べるようなものとは思えないようなものを出していたくせに、それに対して、ありがとうと言えと感謝を強要していただなんて……。
生まれ持ってきた人権と、人としての尊厳すらもズタボロに踏みにじられて、生きていくために、どれほど自分を殺して、その人生を犠牲にしなければいけなかったのかと推測するには、あまりにも重たすぎて、俺は、どうしてもっと早くに見つけてあげられなかったんだと、歯痒い気持ちになってしまった。
だからこそ、目に見えて、オロオロしたような雰囲気だったり、人から触れられるのを極端に怖がるというか、人の手が近づいただけでも、びくりと怯えるように身体を震わせてしまっているのだと思う。
その瞳は、不安でいっぱいの表情を浮かべていて、いつだって申し訳ないと、俺達の手を患わせていると思っているような感じで遠慮がちであり、きゅっとこちらの顔色を窺うように上げられたその瞳には、俺たちの動向を、逐一、気にして、おずおずとしたような雰囲気を漂わせていて、痛ましく。
それでも、俺たちが労るような視線を向ける度に、逆に『どうか、そんな表情をしないでほしい』と言わんばかりに、こちらのことばかり気遣って、そんないじらしい姿に、俺は、どうして、この状況で、そんなに人のことも気に掛けることが出来るのかと、元々、助けたいと感じていたものの、その姿に、この胸が痛んで、ただただ守ってやりたいと思い始めていた。
だけど、まさか……。
『あの……っ、お父様が秘密に管理していた帳簿なら、ここに。
ここの、本棚だけ、動かせる、ようになっているんです……っ』
と、初めて出会ったばかりで、俺たちに対して不安でいっぱいだっただろうし、歩くのさえしんどかっただろうに、ふらふらになりながらも、それでも俺たちに、しっかりとした情報を伝えてくれるために、コリンズ家の書斎に隠されていた隠し階段から、屋根裏部屋の存在を教えてくれるようなことになり。
更には、財務官の不正に関しても告発してくれて、逆に、俺たちの方が助けられることになるとは思ってもいなかった。
もしかしたら、教育に関しては、多少きちんと受けていたのかもしれないが、それでも虐待を受けていた子供とは思えないほど、清廉な雰囲気を漂わせ、聡明で思慮深いその姿に、ビックリしたのは俺だけじゃなくて、きっとサージュもだっただろう。
出来ることなら、その身体を休ませてやりたくて、早く保護して、公爵家へと連れて帰ってやりたかったが、この場の人間を纏める役割を担っている俺は直ぐに帰ることも出来ず、大分、待たせるようなことになってしまった。
それでも、泣き言一つ言わないその姿に、思わず胸が痛んでしまう。
そうして、伯爵が裏帳簿を隠していた屋根裏部屋に、この子のことが書かれた資料が見つかったことで判明したのだが、この子の名前は『リュカ・コリンズ』というらしい。
華奢な姿と、中性的な柔らかい雰囲気から、一見すると女の子にも見えなくはないと思っていたが、まさか男の子だったとは……。
リュカは、生まれて直ぐに両親を不慮の事故で亡くし、伯父であったコリンズ伯爵家のもとへと引き取られて、今まで育てられてきたということだったが、本来なら双子の妹がいたらしく、その妹は、3年前に、伯爵邸で開催されていた御茶会の時に、何者かに毒を飲まされてしまったことで亡くなってしまい。
基本的に自領で起きた事件については、領主と、その配下などが調査を進めることになっているものの、コリンズ家は、とうとう、その犯人を暴くことはかなわず、未だ、事件の黒幕が誰だったのかは分かっていないままらしい。
そのあと、伯爵夫妻は、疑心暗鬼に陥り『誰が、娘を殺したのか分からないから』と言って、当時の執事長と、侍女長だけを残し、伯爵邸に務めていた使用人達を一斉に解雇する通達を出したのだということが書かれていて、俺は、本当にそうなのかと疑念がわき上がってきてしまった。
リュカが。
『優しくしてくれる使用人達が、沢山、傍についてくれていたのに、みんな、お父様に解雇されてしまって……』
と言っていたということは、解雇された使用人達はリュカや、リュカの妹であるエスティアにも優しくしてくれていた人物達であることには間違いないだろうし、恐らく、その中には、犯人はいないんじゃないだろうか……。
――俺も、出来ることなら調べてやりたいが、3年前の事件のことだから、もうあまり、証拠も何も残っていなくて、犯人まで辿り着けるかどうかさえ難しいだろう。
ふぅっと一つ、溜め息を溢しながら、執務室のデスクの前に置かれた椅子に座り、コリンズ家の不正だけではなく、リュカに関する、今回の一連の流れに関して、国王陛下へはきちんと報告をしに行くつもりではあるが、その際に持って行く書類の作成をしていると。
コンコンと、部屋の扉がノックされ「アレク、入ってもいいか?」と、サージュの声が聞こえたことで、俺は、内心で、待ち望んでいた報告がやっと聞けると思いながら、入ってくれ、と声を出して、公爵家の諜報員として、極秘裏の案件なども含めて、いつも飄々とした雰囲気で、テキパキと、仕事をそつなくこなしている、その男を迎え入れることにした。
元々、サージュは公爵家の諜報員の長だった人物が拾ってきた孤児であり、拾われたからには役に立ちたいという本人たっての希望のもと、武術や体術だけではなく、毒薬や薬の知識に加え、隠密行動のためのイロハなどを仕込まれて、諜報員になるべくして育てられてきたが、俺とは年が近いこともあって、ずっと一緒に育ってきており、主従ではありながらも、友人同士のような関係性を築いていて、俺自身も信用していた。
くすんだピンク色の髪の毛をしていて華やかな雰囲気を持っているが、諜報員として、今のサージュに敵うような人間は、この王国中を探しても、見つかることはないだろう。
「アレク、リュカなんだけど、暫くは、落ち着かなかったのか眠れない様子だったものの、大事な妹の、エスティアちゃんとの思い入れのあるシーツを、ぎゅっと握りしめたら安心したのか、さっき、ようやく眠ることが出来た」
「そうか。……それなら、本当に、良かった。
だが、あの子は今までの境遇から、自分のことは特に放置してくれて問題ないし、配慮する必要もないといった感じで、ずっと俺たちにも遠慮して、誰の手も借りる必要がないから大丈夫だと言って聞かなかったからな。
風呂には、自分で入ったんだろう? ちゃんと、入れていたか……?
それから、食事はきちんと、食べることが出来てるか……っ?」
そうして、誰にも聞かれないよう、扉をきっちりと閉めたあと、俺のデスクまで歩いて報告にやってきたサージュに、俺は、ひとまず、リュカが眠ることが出来たと聞けて、ホッと胸を撫で下ろしつつ、ほんの少し急くような気持ちから、普段なら絶対にしないであろう態度で、矢継ぎ早に質問を投げかけることになってしまった。
日頃から、何事にも動じず、冷静な俺からしたら、あまりにも珍しい姿だっただろうが、サージュ自身も、俺の言葉については、全面的に同意出来るといった様子で、真剣な表情を浮かべながら、珍しく眉間に皺を寄せ、リュカのことを心配で仕方がないといった感じで、こくりと頷き返してくる。
何せ、公爵家に着いてからも、リュカは『俺のお下がりだから、家具なども最新のものじゃないが、もしも気に要らなかったら、自分好みに新しく模様替えをしてくれても構わない』と、声をかけた俺に、慌てたように首を振って、素敵な部屋で嬉しいと、特別何かを望むようなこともなく、本気で、俺のお下がりの部屋で、問題無いと思っている様子だったし。
それは公爵家の家令であるアルバートが、俺の指示で、幼い頃に俺が着ていたお下がりの服を急ごしらえで持ってきた時もそうだった。
公爵家でこれから過ごすにあたって、その場にいた誰もが、リュカに自分用の服を誂える前提で話を進めていたが、リュカは、その話が出た時に、一人慌てた様子で、新しく購入するということについては、どこまでも申し訳ないと思っているような雰囲気だった。
その上、このくらいの年の子供であるのなら、普通は、風呂に入るのに、侍女達の手を借りて入るのが当たり前だが、リュカは、それすらも『自分で何でも出来るから大丈夫』だと言って、拒んでしまった。
リュカ自身、貴族の家の出であることからも、一度も風呂に入ったことがないというのはあり得ないだろうが、今まで誰もリュカに手を貸さずに、いつも一人で入っていたのかと思うと、本当に胸が締め付けられるような思いがしてくる。
だからこそ、出来ることなら、誰かの手を借りて、ゆっくりと疲れた身体を癒やすために入って欲しかったが。
『あまり、誰かに、身体の怪我とかも見られたくないから……、全部、自分で出来ます……っ』
と、俺たちの方を見上げて、おずおずと声を出してきたリュカのことを思えば、初めて会ったばかりの侍女達に世話をされる方が、逆にストレスの原因になって疲れが溜まってしまうかもしれないと感じて、俺は苦渋の決断で、その言葉を呑むことにした。
ただ、手当をしたり、伯爵邸で色々なことを話して、まだまだ堅い雰囲気はあるものの、ほんの少し打ち解けてはきているからか、リュカ自身、サージュや、俺に触られるのは、ほんの僅かばかり、抵抗感もなく受け入れいることも出来ている様子なのが救いだろうか。
だが、それでも……。
『あの……、お父様とお母様が本当にごめんなさい。
アレクシス、さんも、サージュさんも、まだ、お仕事があると思うので……、遠慮なく、戻ってください』
と、自分自身のことの方が、何よりも大変であるにも拘わらず、心の底から心配したような様子で俺たちのことを気遣うリュカに、俺も、サージュも、このまま、リュカを一人にして放っておく訳にはいかないと感じて、サージュが。
『だったらさ、リュカ。
風呂は一緒に入らないけど、せめて、料理くらいは、俺がお前に食べさせる権利をくれないかっ?』
と、声をかけてくれたことで、リュカも最初は遠慮がちの様子だったが、サージュや、俺たちがどこまでも心配そうな表情を浮かべているのに気付いて、最終的に、その言葉に『……あの、じゃぁ、お願いします……っ』とこくりと頷いてくれた。
「あぁ、風呂には、自分で入れてたよ。
んで、髪も自分で洗えてたみたいだし、身体も、自分で洗えてたと思う。
すっかり、綺麗になってっ、本当に美しい髪色で、珍しい淡い雪のような色合いの髪の毛が、キラキラに輝いてたのまでは良いんだけど、貴族の子供が、自分で髪の毛や身体が洗えるってこと自体が、本当に可笑しいだろっ?
しかも、卵スープや、オートミールとか、幾つかの料理を厨房のシェフが持ってきたから食べてもらおうとしてみたんだけど、リュカが口にしたのは、卵スープ3分の1だけだった。
そこまで食べたあとに、いつも、ご飯は何日かに分けて大事に食べてたから、あまり身体に入らなくて、もう、お腹がいっぱいですって言って、残してごめんなさいって、本当に申し訳なさそうにしてて、こっちの心臓がキュッと痛くなったくらいだった」
そうして、サージュから、リュカに関しての報告を聞く度に、その顔がどんどん険しくなって『本当に反吐が出そうになる』と言わんばかりの瞳で見つめられたことで、俺自身も、その視線には完全に同意だったし、何よりも、コリンズ伯爵家への嫌悪感で、ただただ、胸くそが悪くなってくる。
聞けば聞くほどに、伯爵家の人間が、今まで、幼いリュカにどれほどのことを強いてきたのかが、手に取るように理解出来て、気持ちが悪い。
それよりも、このまま、一人で何でも出来るから大丈夫だと言っているリュカに、全てのことをやらせる訳にはいかないだろう。
俺自身、この8年の間に、大変な思いをしてきたリュカには、もう苦労などさせたくなくて、世話なども含めて何から何まで、自分一人でやるのではなく、誰かの手を借りることを当たり前だと思ってほしいと感じながら……。
リュカ自身が『優しくしてくれていた沢山の使用人達が、みんなお父様に解雇されてしまった』と言っていたこともあり、コリンズ伯爵家で3年前に解雇されたという使用人達なら、リュカも安心して受け入れることが出来るんじゃないかと、俺は直ぐに、サージュに……。
「サージュ、リュカがコリンズ家で、解雇された使用人達に優しくしてもらったと言っていただろう?
直ぐに、当時の使用人達が、今現在、どこにいるのかを探し出して、公爵家に来てもらうよう、手配してくれ……。
それなら、リュカも、安心して過ごせるかもしれない……っ」
と、指示を出すことにした。
そうして、そのあと……。
「それから、お前は、今後、リュカの守護の任に就くようにしてくれ……っ。
ただでさえ、公爵家の養子だなんて目立つ上に、コリンズ伯爵家のことで色眼鏡で見られかねないことを思えば、今後、リュカにとって悪い噂が流れるかもしれないし、何よりも、突然、降って湧いてきた公爵家の次男という立場のリュカに積極的に近づいて、公爵家の内情を探ろうとしたり、リュカを操りたいと裏で画策してくるような人間も出てくるだろう。
何にしても、リュカが危険に晒されることだけは、絶対に避けたい。
俺も、兄として、リュカのことを守るから、お前も、いつだって、その傍で、リュカに危険が迫ってこないよう守ってやってほしい」
と、俺は、サージュの目を見て、真剣に伝えていく。
その言葉を聞いて、サージュも、今後リュカが危険に晒される可能性については、ずっと頭の中にあった様子で、俺と同様、リュカのことを何とかして守ってやりたいと思っていたのだろう。
直ぐに……。
「仰せのままに。
俺が、リュカのことを守れるなら、こんなにも嬉しいことはない」
と、凛と背筋を伸ばした上で、俺に任せてくれと言うように、力強く頷き返してきた。