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第4話 過酷な環境


 5歳の誕生日だったあの日、兄であるリュカお兄様が死んでしまってから、伯爵家での生活は、私にとってより過酷な環境になっていた。


 一応、伯爵家の跡取り息子として、あの日、不揃いに、ハサミで切られてしまっていた雪のような髪の毛は、丸みを帯びた感じのショートカットに整えられ、蜂蜜色の瞳と共に、より、リュカお兄様そのものになって、真相を知る人間以外は、もう誰も私のことを『エスティア』だとは思わないだろう。


 そうして、コリンズ伯爵夫妻から『お前が死ねば良かった』と暴力を振られてしまっていた時に、その身を挺してまで間に入ってくれていた、日頃から双子の兄妹である私達を助けてくれていた侍女であるレイチェルや、使用人達が、リュカお兄様が死んでしまった事実を知っていることから、次々と、家族のことなどを人質に取られ、絶対に、今後、誰にも言わないようにという誓約書を書かされた上で、解雇されていってしまい。


 それまでも、私達には殆どお金なども使ってくれず、出来ないことがあれば、平手打ちや鞭などで厳しく躾けられてきたけれど。


 あの日の暴行により、人として完全にたがが外れてしまった様子の伯爵夫妻は、私に男装姿を強要し。


 マナーや礼儀を教える花嫁修業などから一転して伯爵家の跡取り息子として厳しい教育を施しながらも、日常的に苛々が募ったりしてしまうと、その鬱憤を晴らすかのように虐待することを何とも思わなくなっていて、お父様は私のことを足蹴にしてきたり……。


 お母様は長い爪を、肌に食い込ませてきては『この役立たずの木偶の坊っ! 食い扶持だけがかかって本当に困るわ!』と言葉の暴力などで精神的に攻撃してくるなど、付き合いのある貴族などの目がない時などには、それらのことを平然と行うようになっていた。


 そうして、伯爵夫妻がそんなふうに私のことを粗末に扱うものだから、新しく雇われた使用人達も、私のことは、何をしてもいい、伯爵家から大事にされていない『体のいい捌け口』のように思っているらしく、誰も彼もが私を蔑ろにしては冷遇し、時には、私に暴力を振るってくることもある。


 それもこれも、私の性別が女であることがバレないよう『自分のことは自分でするように』と、伯爵夫妻から口が酸っぱくなるほどに言い含められている私を見ていたり、私自身、次期、伯爵家の跡継ぎではあるものの、お世話をする必要もない虫けらなのだと、お父様である伯爵が、常日頃から新しく雇った使用人達に、言いふらしてまわっているからだった。


「お腹空いたな……っ」


ぼんやりとした頭の中で、ベッドの下で膝を抱えるように蹲って空腹をやり過ごす。


もう、何日、まともにご飯を食べていないだろう。


なるべく生きるために、少ないご飯の中でも、何日分かに分けて取っておいたご飯すら、とうとう底を付き、それから大分、日数が経過してしまってる。


『これじゃぁ、生きることすら、ままならない……っ』


――それでも、伯爵家の子供として、次期、伯爵の跡取り息子として、お父様も、お母様も、最悪、私のことを死なすことだけはしないだろう。


私がそう思ったところで、立て付けの悪くなってしまった扉が、バタンと大きな音を立てて乱暴に開かれてっ、まるで忌忌しいと言わんばかりに、もの凄い形相をした侍女長が入ってきたあと。


「たくっ、なんで、伯爵邸の中でもアクセスの悪いこの場所に、この私が、直々に入ってきてやらないといけないのかねっ!

ほら、愚図っ! 今日のご飯だよっ! 受け取りなっ!」


 と、見るからに硬くなって、ところどころに青カビが生えてしまっているパンに、料理もなにもされていない、普段なら捨ててしまうであろうキャベツの芯や野菜の切れ端といったくずを、お皿の上に盛り付け、少し匂いがツンとくるミルクの瓶も含めて、乱雑に、ドンっと、私から少し離れた距離にある部屋の中央、地面に置かれたのが見えた。


 リュカお兄様が死んでしまって以降、殆ど全ての使用人が解雇されたといっていいけれど、以前から、お父様とお母様の息がかかって特別に重用されていた、この侍女長だけは、解雇されることもなく、伯爵邸に居座り続けていた。


 そうして、唯一、両親以外に私の正体を知っている身として、私に食事を運んできたり、お父様が懇意にしている貴族などがやってきて私もその対応をしなければいけない時などは、着替えの服を持ってきたりと『何故私が、してやらないといけないのか』と文句を言いながらも、この侍女長が私のもとまでやってくることになっていた。


 物置部屋のような、この子供部屋は、伯爵夫妻が日常生活を送っている贅を凝らした本館からは外れ、かなり奥まった場所にある。


 一応、私自身『リュカ・コリンズ』として男装し、お兄様に成り代わって生活していることで、伯爵であるお父様の跡取り息子として、付き合いのある貴族などが来る前などは、ちゃんとしたご飯が提供されることもあるけれど。


 普段は、何もなく、抜かれてしまうことも多いし、たまに用意されたものだって、私に提供されるご飯の殆どが、今のように、勿体ないからと腐りかけた食材などを使った残飯のようなものになっていた。


 そうして、私が立ち上がろうとしたところで、ふらっとバランスを崩してしまい……。


「……っ、!」


「はぁぁぁっ!? お前、ふざけんじゃないよっ!

いつものように、ありがとうは、どうしたんだい!?

ここまで運んできてくれて、どうもありがとうございます、だろうっ!

何度も、言わせんじゃないよっ、この愚図っ!

その鳥頭は、言われたことを、一度で、覚えることも出来ないのかっ!」


 と、烈火の如く怒りだした侍女長に、私は反射的に身体を震わせてしまった。


 ――嗚呼、ダメだ、空腹で、あまりにも身体がふらついてしまっていて出遅れてしまった


 普段なら、食事が運ばれて、わざわざこの地面に侍女長がご飯を置いてくれた瞬間に、自分がどんなことをしていても立ち上がり、深々と頭を下げて、丁寧にお礼を言わなければいけなかった。


 それでも、流石に、ここまでの長期間、ご飯が出されなかったことで、きちんと立ち上がることも出来ずによろけて、ぺたんと地面に尻餅をついてしまった私を見て、鬼のような形相をした侍女長が、まるで出来損ないを見るような目つきで、私のお腹を目がけて、これでもかというように力いっぱい、何度も蹴りつけてくる。


「……っ、ぁぁ、……っ、ありがとうございま……っ、あり……っ」


 そのことで、直ぐに怒らせてしまったと悟った私は、これ以上、侍女長の機嫌を損ねないように、壊れた玩具のように繰り返し、ただひたすらに、お礼の言葉を紡いでいく。


 私自身、こんなふうに襲ってくる暴力による痛みや苦しみにも徐々に慣れてきてはいるけれど、何よりも辛いのは、治りかけている傷の上から、また新たに同じ箇所を蹴られることで、それをされると問答無用で、2倍の痛みが降りかかってくることだった。


 それでも、伯爵家の跡取り息子として、幸いにもといっていいのかどうか分からないけれど、今まで顔に暴力などを振られたことは一度もない。


 主に、暴力の対象になるのは背中や腹部だったけど、手や足などといった場所も、たとえ見えるところに傷をつけたとしても、付き合いのある貴族達には、言い訳として転んだなどと言ったり、私が我が儘だから躾をしていると言ってやり過ごしているみたい。


 日頃、コリンズ伯爵家と付き合いのある家は、その全てが、同じように悪事に手を染めているような家柄ばかりだし、バレたところで、そこまで問題にはならないと思っているのだろう。


 それでも、顔だけは、何かあった時に問題になりかねないからと、侍女長は勿論のこと、新しく雇った使用人達にも、そこにだけは手出しをしないようにと言い含めているみたいだった。


 私が、ぽろぽろと生理的な涙を溢しながら嗚咽交じりに謝罪したことで、どちらが上の立場であるのか知らしめてやりたいと思っていたであろう侍女長は、私に暴力を振るうことで、普段、伯爵であるお父様や、お母様に媚びへつらって機嫌を伺っていることで溜めていたストレスを解消し、鬱憤を晴らせたことに、ほんの少しだけ溜飲が下がったのか。


 時間にして、数十分程度、延々と私を蹴り続けたあと「二度と私に舐めた態度を取るんじゃないよ! 次にやったら、更に食事がなくなることも覚悟しておきなっ!」と、吐き捨てるように言い放ったあと、ようやく、この部屋から出ていってくれた。


 侍女長が、私に対して侍女とも思えない乱暴な言葉を使ってくるのも、私のことを自分よりも下に見ていることの何よりの証しだろう。


 お腹が、焼けるような痛みで、ジクジクと疼いて く……。


 直ぐに、起き上がることも出来ないけれど、それでも、ご飯を食べないと、この身は本当に死んでしまうかもしれない。


 それくらいに、何日も食べていないことで、お腹が空いてしまっていた。


 だからこそ、私は、重たい身体に鞭を打って、うつ伏せになった状態で、ずるずると身体を引きずり、少し離れた先にある私のために用意されたご飯のもとへと何とか辿り着く。


『食べなければ、生きていくことは出来ない。

そうなったら、お兄様の死の真相を突き止めることすら出来なくなる……』


 あと3年……、あと3年我慢すると、原作の小説通りに行くならば『王命』によって、私の身体は、コリンズ伯爵家の悪事や汚職などを暴いた公爵家の人達から保護してもらえるはずだ。


 なぜなら、公爵家が、日頃から、コリンズ伯爵が腰巾着のように慕っている、アンドレ侯爵家の後ろ暗いところを調べる過程で、王家と公爵家からの調べが入り始めたことに慌てたアンドレ侯爵が、蜥蜴の尻尾切りのように、王家に忠誠を誓っている公爵家に、コリンズ伯爵を身代わりにして差し出すことで、コリンズ伯爵家は没落してしまうから。


 そうして、アンドレ侯爵もまた、一度は難を逃れることが出来るものの、それでも、原作が始まる前に、公爵家から悪事を暴かれたことによって、結局は没落してしまう。


 だけど、リュカからしてみれば、アンドレ侯爵のお陰で、今まで自分に酷いことをしてきていたコリンズ家が取り潰されたようなものだから、アンドレ侯爵に対して、そこまで酷い恨みなどは持っていなかったはず。


 原作で、その出来事は、次期公爵の補佐官をしていたリュカと、ヒーローの一人である次期公爵の過去を語る回想シーンで、大事な一幕として書かれていた。


「だから……、それまでのがまん……っ。

今は、なんとか、少しでも栄養をつけておかないと」


 頭の中で、そこまで思ったところで、私は、用意された『料理』ともいえない、ただの食材を出しただけの食べ物に、そっと口付ける。


 パンは、カビ臭く、直ぐには噛みきれないほどにカチカチになっていて、キャベツや人参などといった野菜は水分が失われてパサパサになっていた。


そうして、ミルクに至っては、匂いが多少変わってしまっていることで、本当に意を決して飲まないといけないほど、舌に纏わり付くようなえぐみがあると分かりきっているのだけど、それでも私は、経験上、これを飲んだからといって、お腹を壊すくらいで、よほどのことがない限り死ぬことはないと知っている。


 侍女長が私が死ぬことのないように、本当に、ギリギリのラインで、傷んだ食材を出してきているから……。


 私がエスティアではなくて、リュカである以上、伯爵家の跡取り息子として生かしながら、みんなの鬱憤を晴らすための道具としても殺すことはないだろう。


 あの日、リュカお兄様が死んでしまったことで、直ぐにお開きになってしまったパーティーで、傍から見ても男の子の姿をして、髪の毛の短かったリュカお兄様が血を吐いて倒れてしまったのは、誰の目から見ても明らかだったけど。


 あの日のパーティーでは、悪戯が大好きだった双子が、日常的に、自分達の性別を入れ替えて交換っこをしていたことで、リュカお兄様は、私に扮してウィッグをつけて、女の子の格好をしていて。


 私は長い髪を帽子にくるりと纏めて、リュカお兄様に扮していたということで、コリンズ伯爵家が開いたパーティーに参加した人達には、後日、きちんとした説明として、自分達の可愛い娘が死んでしまったことで、憔悴しきった両親の仮面を被り『私達、兄妹が入れ替わっていたから、ややこしいことになってしまった』と大嘘を貫き通してから、コリンズ伯爵夫妻は、何食わぬ顔をして、エスティアが死んでしまったと国へ死亡届を書いて提出していた。


 伯爵夫妻にとって幸いだったのは、あの日のリュカお兄様が、貴族の男の子の正装として、紳士用のフォーマルなジャケットにズボン、そして中折れハットを被っていたことだろう。


 だからこそ、そんな嘘がまかり通ってしまった。

つまり『エスティア・コリンズ』の死は、世間からも認められ、完全に受理されてしまったことになる。


『私の存在そのものが、この世から消えてしまった』


 ――裏で汚いことばかりやっている両親 だったから、そこに驚きはなかったけれど。


  そこまで考えたあと、私は、再度、侍女長が持ってきた、自分用のご飯へと視線を向けることにした。


 3年後に、リュカお兄様も、栄養失調状態ではあるものの保護されることになっていたから、私も多分、そこまではちゃんと生き長らえることが出来るだろうし、大丈夫なはず。


 それでも、念には念を入れて、傷んでいるところから先に食べ、きちんと用意されていないご飯の、まだ綺麗そうなところを、数日に分けて食べるため、大事に保管しておくことにした。


 次は、いつご飯が食べられるのかさえも分からない。


 飲み物に関しては、定期的に、あまり綺麗じゃない水が届けられることもあって、一応、私の体調の具合は見ながら、死なないようにしているんだとは思う。


 それでも、古いミルクなどを出されるのは完全に嫌がらせだし、完食していなかったらいなかったで『伯爵家の跡取りなのに、何故ご飯をきちんと食べていないのかっ。お前は、食べ物を粗末にして好き嫌いをするんだなっ!』と、それを切っ掛けにして、暴力を振るわれる口実を一つ作ってしまうことになるから、どんなものでも残したりはせず、しっかりと飲んで食べておかなければいけなかった。


「……大丈夫。……大丈夫だよっ。

 私は、これからも頑張れる」


――いつも、2人で身を寄せ合って、辛いことに堪えていた。


 だからこそ、リュカお兄様がいなくなってしまったことで、こういう時は、どうしても心細い気持ちになってしまう。


 それでも、リュカお兄様のことを思うと、私自身、勇気が出たし、傍で守ってもらえているような気がするから……っ。


「……リュカお兄様……っ、待っててねっ。

いつも私に、力を分けてくれて本当にありがとう。

どんなことがあっても、私、これからも、耐えてみせるから……」


 ぽつりと、自分に言い聞かせるように漏れた言の葉は、この広い空間の中で誰にも聞かれずに、ただ、音となり、掻き消えていってしまった。




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