ふかふかだとは言い難い硬いベット、敷かれているマットのようなものは一つしかなくて、お世辞にも綺麗だとは言えないようなものとなっており、昨日までの私達は、そこに身を寄せ合って眠る兄妹だった。
『それなのに、今は私だけが、仲間はずれにされたように独りぼっちになってる』
「……いっ」
もぞりと、一度身じろぎをしようとすれば、あまりの激痛に目が覚めてしまった。
背中がヒリヒリと燃えるように熱くて、多分だけど、お父様に蹴られたところが赤黒く腫れてしまっているんだろうなと感じて、とてもじゃないけど起き上がれそうもない……。
だけど、あちこちで軋むように悲鳴を上げる重たい身体に、物理的に痛みを感じるよりももっと、私はベッドの上で今日あった出来事を思い出して顔面蒼白になってしまいながら、思わず「そんなっ、嘘でしょう……っ」と絶望に塗れたような言葉を溢してしまった。
なぜなら、私自身、
『どう考えても、この世界……、私が前世で読んだ小説の世界だよね……っ?』
自分がまさか、物語の中の世界に転生して、前世の記憶を思い出すことになるだなんて思いもしていなかったものの。
小ぶりの窓はあるけれど、殆ど日の光が入ってこない薄暗い場所……。
たった一つのベッドに、小さなタンス、サイドテーブルといった必要最低限の限られた家具しか置かれていない殺風景なこの部屋は、私が小説で読んだ『リュカ・コリンズ』の過去を語る上で出てくる背景描写と一緒だった。
『でも、待ってっ、小説の通りなら、毒殺されて死ぬのは妹である
――だって、妹を失ったその出来事こそが、18歳の社交界でヒロインに出会うその時まで、リュカ・コリンズにずっと暗い影を落とすことになってしまうのだから……
リュカ・コリンズは『秘められた花~侯爵家の隠し子は社交界で花開く』という私がいた世界では、かなり人気の高かった逆ハーレム小説のヒーローのうちの一人だった。
物語は、侯爵と専属の侍女という立場で愛し合っていたものの、高い身分という壁があり結婚することが出来なかった父親と母親の間に生まれたヒロインが、16歳で母親を亡くし、平民だった身分から一転、侯爵家に引き取られる回想の部分からスタートする。
そこから2年の間、しっかりとした教育を施され18歳になったヒロインは、遅めのデビュタントを果たした社交界で、王家に忠臣を誓っているクールで精悍な雰囲気の次期公爵や、俺様ツンデレ系の王子、騎士団長の息子で最年少で副団長になった面々とも出会うことになり、そこで、後ろ暗いことをしていた伯爵家の不正を暴いてくれた公爵家の『養子』となっていて、次期公爵の補佐官のようなものをしていたリュカとも出会うことになる。
最終的に、ヒロインと結ばれる存在ではなかったけど、それでも愛らしい雰囲気で、18歳になっても少年っぽく中性的な容姿をしていたことから、そういったキャラクターが好きな人達からも人気が高かったし。
原作の小説が好きなファンの間でも、その生い立ちに同情する声が圧倒的に多くて、妹を失ってしまったことによって、纏っているその雰囲気に儚さのようなものが感じられることで、可愛らしいキャラクターとして、好きだった人も多いと思う。
そんな……、リュカ・コリンズは、生まれて直ぐに両親を不慮の事故で亡くし、双子の妹である自分の顔と瓜二つのエスティアと一緒に、兄夫妻のコリンズ伯爵家へと引き取られるのだけど。
そこでは、幼い時から政略的な道具としてしか扱ってもらえなくて、大人になってから高位貴族に嫁ぐためという名目で、マナーや社交界での礼儀を厳しく躾けられていたエスティアと共に。
自分達は帳簿を誤魔化したり、裏で色々な悪事に手を染めつつ、領民達には圧政を敷いて、そのお金で私腹を肥やしているにも拘わらず、将来、伯爵家の跡を継ぐために、絶対的な当主教育をしなければいけないと厳しく躾けられ、伯爵夫妻の思う通りに出来なかったら、鞭で叩かれたり、平手打ちをされてしまったりと酷い扱いを受けていた。
それでも、リュカが、それまでの厳しい躾に堪えられていたのは、生まれた時から唯一無二の存在だった妹であるエスティアの存在が大きくて、何かあるたびに『お兄様、大丈夫? 無理はしないでね。私も、お兄様がいてくれるから大丈夫でいられるよ』 と、エスティアとその痛みや苦しみを共有し『エスティアのお陰で、まだ頑張れる』と癒やされていたからだった。
それなのに、リュカが、5歳になった誕生日の日、それまで、コリンズ伯爵家と繋がりが深かった高位貴族として、同じように私腹を肥やし、裏で真っ黒なことをしているアンドレ侯爵がやって来るということもあり。
そのお持てなしをするために、アンドレ侯爵を中心にした派閥の中から複数の貴族を呼んで、普段は着せてもらえることがない、少年用の紳士服と、フォーマルな雰囲気の帽子を被り、整えられた正装で、伯爵家夫妻が開いたガーデンパーティーに、エスティアと共に参加することになるのだけど。
その華やかな雰囲気のパーティーの場で、ホスト側の子供として椅子に座り、主賓であるアンドレ侯爵への対応のためにリュカと一緒に着席した円卓のテーブル席で、紅茶を飲んだエスティアが血を吐いてしまい、そのまま帰らぬ人となってしまう。
エスティアが死んでしまったことで、生き残ったリュカは、今の私と同じように、両親から『将来、爵位が上の貴族と政略結婚をすることが出来る大事な一人娘を失ったのはお前の所為だ! お前が死ねば良かったのにっ!』と言われ、罪悪感を増大させられた上に、どちらにせよ、そのことで厳しく当たられ、冷遇されてしまう。
そのことも、後に、リュカの心に暗い影を落とす要因になってしまうのだけど、一番は、エスティアの死を間近に見てしまったことによるもので。
エスティアがそうなってしまった時、リュカが深いトラウマを負い、心に傷を作ってしまうほど、エスティアを見て動揺してしまうのも無理はないくらい、周りの人達からの反応も、人が1人死にかけていることで恐慌状態に陥っていて……。
――私自身も、パーティーの場で聞いた『きゃぁぁぁぁっ!』という、つんざくような誰かの叫び声が、まだ耳の奥に反響するように残ってしまっている。
それと同時に、がしゃりと、カップが芝生の上へと落ちていき、激しく割れる音がして、隣で紅茶を飲んだリュカお兄様が、ごぽっと胃から迫り上がってくるような大量の血を抑えることも出来ず、口から勢いよく鮮血を吐きだしたのが見えたことで、一瞬、何が起きたのか分からないくらいに呆然としたものの。
苦悶の表情を浮かべながら、倒れる間際に引っ張ったことで真っ赤に染まっていくテーブルクロスと、この日のために用意された、お兄様が着ていた白いシャツに淡いブラウンのジャケットなどが、みるみるうちに血に濡れて汚れていくのが見てとれたことで、硬直が解けていく。
「リュカお兄様……っっ!」
ただ、ジッとして、その様子を呆然としながら見ているだけでいるなんて、出来なかった。
カップの中に入っていたのは、5歳の子供が飲んでしまったら、一度で致死量に届いてしまうくらいの猛毒。
その姿を見て、兄のことが大好きだったエスティアは……っ、私は……っ、激しく動揺しながらも、慌てて、その傍へと駆け寄ったあと、自分のドレスが汚れるのも厭わずに、どんどん冷たくなっていく、リュカお兄様のその身体を必死で抱き寄せた。
『これは、エスティアの記憶……? それとも、私の記憶……?』
コリンズ伯爵家で産まれて、5歳まで生きたエスティアの記憶と、前世で過労死寸前のOLだった私の記憶、二人分の記憶が、まるで溶け合うかのように、徐々に一つに融合していくのを感じてしまいながらも……。
私自身、双子として生まれ、自分達の境遇を分かち合うように寄り添って生きていたエスティアの苦しみが伝わってきたことで『どうして前世を思い出したのが、今なんだろう?』と深い悲しみに襲われながら、誰もいないこの部屋の中で『どうして、私ではなくお兄様が死んでしまったの……っ?』という思いと共に「……っ、あぁ、っ、ふ、ぅぅ、リュカ、お兄様……っ、!」と、死んでしまった兄に想いを馳せ、ボロボロと溢れて落ちていく涙を止めることも出来ずに、私はただ、子供のように泣きじゃくってしまった。