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 第八十九話 泣いて歩くのは

 姫乃は残った涙をハンカチで拭いて、道を歩く。

 それでも涙が次から次へと溢れてきてしまうが、その度に、ハンカチで拭う。

 これからどこに行こうか。決められてきた道以外の道なんて、歩いたことがないからわからない。いきなり自由だと言われても、不自由だった頃と違う場所にいきなり行くのは勇気が必要だ……。

 姫乃はやっぱり、どうにもあの優菜が好きになれないと思いながらも、どこか胸の内が清々しいことに気づく。それは心に穴が空いたというよりも、無駄に重く残っていたものがなくなったような、そんな清々しさだった。

 そういえば、地元から離れたこと、なかったなぁと姫乃は思い、立ち止まる。

 辺りを見回すとそこは姫乃の庭である都会の一部があった。

 せっかくだから、田舎にでも行ってみようか。

 もっと、のんびり出来る場所に行って、これまでとは違う生活をしてみるのも悪くはないかもしれない。

 上を見上げると、ビルの間に出来た切り取られた空の一部。

 それを見て、やはりそうしようと心に決める。

 姫乃は、これまでの生活とは全く違う生き方をすると、そう決めたのだった。

 でも、怖い。怖くて仕方がない。母親に、何を言われるかわからない。父親にも……。

 今まで好きだと、ずっとそう思っていた令とも会えなくなる。

「だけど、それでいいのよね……。もう、変に関わらない方が……、私が、大人になれるまでは」

 振り返ると、いつまでも姫乃を見ている優菜達が目に入った。

「馬鹿ね……。もう、死にはしないのに」

 そう小さく呟いて、片手を上げてひらひらと振る。

 そして、姫乃は人混みの中に溶け込んでいった。


「姫乃、もう、大丈夫だよね」

 心配そうに姫乃が去って行った方向をずっと見ている優菜に、令は短く答える。

「知らん」

「令……。令が、そんなに冷たいと、私悲しい」

「……あいつは、すぐ死ぬような女じゃないだろ。それは俺も、それにお前も知ってるだろう」

「そうだけど……。でも、これからどうするんだろうね。会社には、居続けるよね?」

「何を馬鹿なことを。あいつのプライドの高さを考えたら、会社になんて居続けられるわけがない」

「え?」

「……本当に、わからなかったのか?」

「恥ずかしながら、うん……」

 令は呆れたような視線を優菜に投げかける。

 優菜は「どうしよう、どうしよう」と頭を抱えていたが、令はそんな優菜の頭を撫でる。

「大丈夫だ。あいつは。それとも、お前はあいつを信じられないのか?」

「……そうだね。信じなくちゃね」

「行こう。あいつがどこに行こうと、俺達には関係がない」

「うん……」

「それに、あいつは意外としっかりとしているから、仕事の引継ぎはするだろう。しばらくは、会社に来るはずだ。……変に真面目な性格を考えればな」

「……うん!」

「優菜、疲れただろう。会社に一旦戻って支度をしたら、どちらにしてももう勤務時間が終わるからな。家に送って行こう」

「うん。ありがとう。あのね、今日いっぱいあって疲れたから、一緒にコーヒー、飲みたいな」

「……もちろんだ」


 帰社してから、帰り支度をして二人は優菜の家へと帰る。

 令の車に乗った優菜は、気づけば眠りに落ちていた。

 そんな優菜を見た令は「可愛いな」などと思いながら、運転に集中していた。

 優菜の家に着くと、令は優菜を起こし、一緒に家に入る。

 優菜は眠そうな目を擦りながら、コーヒーを淹れようとした。

 しかし、令が「眠いなら、寝た方がいい」と言う。

「でも、今日はお話ししたいの。途中で寝ちゃうかもしれないけれど、でも、大事な日だから……」

「そうか……」令はすぐにその言葉の意味を理解した。ずっと、自分を殺そうとしている残酷なお姫様だと思っていた相手との件が、ある程度落ち着いたのだ。

 それは確かに、話しておきたいこともあるだろう。これまでのことを含めて、いろいろと思い出しただろうし、これからのことを考えるのも、もちろん必要なことだ。

 優菜にとって、それだけ大きな出来事だったのだから、聞いてやらないわけにはいかない。それにそうして、優菜も心に整理をつけたいのかもしれないのだから。

 そして、優菜はゆっくりと話し始める。思い出話や、心の内にあったものを。

(優菜が怯えない世界になったのだろうか……。もしそうなら)

 令は話しながら、やはり眠ってしまった優菜を見て、毛布も持って来て掛ける。

 そして頬にキスを落として、微笑むのだった。

「……んー」

 優菜は何やらむにゃむにゃと寝言を言いながら、ソファーで包まって寝ている。

 令はそんな優菜の隣に座って、自分も少しばかり、眠るのだった。


 翌日、やはりと言おうか、姫乃は一応会社には来ていた。

 令の下にも来て、令と優菜に深々と頭を下げて「もう迷惑は掛けない……。これまで、本当に……」そこまで言って、姫乃は口ごもった。

 どうしてもその先が言えないらしい。

「無理して言わなくてもいいよ。姫乃。友達にはなれなかったけれど、でも、もし何か困ったことがあったら、いつでもおいでよ。私達はここに居続けるから」

「……本当、優菜のそういうところ、変わったわね。前みたいな優菜が少し懐かしいけれど、今みたいな強い優菜のこと、私は嫌いじゃない」

「え、それって……」

「じゃあね。私は、しばらくの間、また元の部署に戻るから。何か困ったら、社内メールでも飛ばしてきて。もちろん、部長ってちゃんと付けてよね」

「うん。……うん!」

「じゃあね」

——こうして、姫乃の作られた世界は終わりを告げた。

 これからは、姫乃の人生は姫乃自身が作り上げていく。


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